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『もう、ここにはいられないわ。一緒に行きましょう。大丈夫よ、今日がその日だわ』
フワフワと、誰に問いかけているでもない女性の声が何処からともなく響く。独り言にしては大きく、誰かと話しているにしては返答を待っていない声。
『駄目だよ、お母様…!駄目だよ!』
『今までだって大丈夫だったのよ。ここから出てもやって行けるわ』
『……はい、お母様…』
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ロイがベッドから跳ね起きる。
慌てて周囲を見回すが、夢だったと知って胸をなで下ろした。跳ね起きた時に乱れた首元から、チェーンに通している指輪が飛び出してシャツの上で揺れていた。指輪はロイの物にしては小さく、そのサイズには不釣り合いな程大きな青色の石が付いていた。
ロイはしばらくその指輪を握りしめていたが、再びシャツの下にしまい込むと、ベッドから降りて身支度を始めた。
まだ使用人が起こしには来ていないが、カーテン越しの明るさから、間もなく朝食の仕度が整う頃だろうと推察した。
身支度を終えて扉を押すと、鍵は外されていたのかすぐに開いた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。急ですまないが、これから帝都に出向かねばならなくなってね。1週間は屋敷を留守にする」
部屋を出て食堂に向かう途中、既に外套をまとって外に出る支度を終えたサリノ伯と出くわした。
「そう…ですか」
「君は好きなだけ研究に励むと良い。使用人達には申し付けてあるから、何か必要な物があれば遠慮なく言ってくれ」
「お気遣い、ありがとうございます」
慌ただしく屋敷を出て行くサリノ伯の後ろに護衛の者が続き、ロイは使用人達と共に彼を見送った。
(ドナに、報せなければ)
使用人が日常に戻って行く中、ロイも朝食を済ませると外套をまとって外に出た。
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街に出ると、まるで待ち合わせでもしていたかのようにドナが噴水前のカフェで新聞を読んでいた。
昼食には早い時間だが、屋敷からサリノ伯を乗せた馬車が出たのを見ていて、ロイがすぐに報せに来ると予想したのだろう。
カフェは程よく混んでいたが、ドナの隣は空いていた。見ると、大きな荷物を椅子の上に置いている。
「すみません。この荷物、貴方の?」
「ああ、申し訳ない」
ロイがそう声を掛けると、新聞に夢中で店内の混み具合に気付いてなかったかの風情でドナが荷物を床に降ろした。ロイはその空いた席に座る。
「ご注文は?」
「コーヒ…いや、今日は冷たいものにするよ。レモネードを頼む」
注文をしている間に、ドナがホットドッグを食べながらメモを取っていた。そして新聞と見比べるようにテーブルの端にそのメモを押しやったが、はずみでそれがヒラリと落ちた。ロイはそれを拾って渡しながら、数字とアルファベットが羅列されたメモの「1」と「W」に素早く爪痕を残す。
「…どうも」
一瞬メモの上に視線を走らせドナは無造作にそれをポケットに突っ込むと、口の中に詰め込むようにして残りのホットドッグを平らげ、その場を後にした。
入れ替るようにロイのテーブルの上にレモネードが置かれる。ロイは、素知らぬ顔でストローに口を付け、持って来た専門書を広げた。
(諜報員同士のやり取りは、北も南も大差ないな)
こんなこともなければ知ることもなかったであろう事柄に、ロイは誰にも気付かれないくらい微かに口角を上げたのだった。
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深夜、また窓の外を小さな明かりが移動するのを確認して、ロイは再び窓から外に出た。
行き先は分かっているので、今度は充分な距離を取って温室の入口の傍の茂みに身を隠す。温室を囲む一番外側のガラスは、丁寧に手入れはされているのだろうが経年によって内側に付着した苔で視界が滲む。だが、それでも中の人物の動きを判別することは出来た。
仮面を付け黒服を着た男達が、それぞれ手に何かを抱えるようにして列を作って行く。まるで葬列のようだった。
その中に、おそらくではあるがドナの姿を見かけた。どうやら上手く潜り込んだらしい。
(悔しいが、私はあの中には紛れ込めないな…)
いくら仮面をつけているとは言え、ロイは使用人に顔を知られている。それをごまかすことはさすがに難しいだろう。
男達の移動に合わせて温室の外壁に添うように移動していると、茂みの影にガラスが割れているところを見つけた。ガラスに触れないように注意を払って、ロイは温室内に侵入することに成功した。
温室の中は蒸し暑く、湿った苔の匂いで噎せ返りそうだった。
(これが隣国を再現した温室…?あの国は低温低湿の気候が大半の筈…)
滲み出る額の汗を軽く拭うと、ロイは移動している男達の姿を見失わないように木々の間に身を潜めながら足を進めた。
(あれは…石柱か?)
温室の中央付近だろうか。更に小さなガラス張りの温室のような建物があった。その中に入れ子のように東屋と庭園が広がっている。その奥に動く白っぽいものは噴水だろうか。
男達はその小さな温室に向けて列を作っているようだ。木々が邪魔をしてよく見えないが、その東屋に人の大きさ程の石柱が立っているのが垣間見えた。中の温室は外を覆うガラスとは違って透明度を保っている為、あまり近付いてしまっては向こうからも丸見えになってしまう。ロイは周囲に人がいないのを確認してから、思い切って内のガラス壁に一番近い茂みに飛び込んだ。幸いロイの姿は誰にも見咎められなかったようで、視界は狭いが中を確認するには十分な距離を確保することが出来た。
その温室の奥まったところに、赤黒い色をした石柱がポツンと設置されていた。切り出してそのままなのか、表面はゴツゴツしていて、自然な造形のようだった。所々窪んだところもあり、シルエットだけは人のようにも見えなくもない。
(不気味な石だな…)
地質学者として不自然にならないように、事前に知識は貯えた。しかし、ロイが知る限り該当する鉱物の情報はなかった。
(まさかあれが『幻獣の核』…?)
数グラムでも幾つもの金塊と同額の莫大な値が付くとされている「幻獣の核」だとしたら、途方もない量である。ロイは無意識にゴクリと生唾を飲んだ。
列をなした男達は、温室の前にいる使用人によって箱を持ってそのまま引き返す者と、更に奥に進む者に分けられていた。奥に進んだ者達はその石柱の前に箱を積み上げては跪いて、その石に触れているようだった。彼らの仕草は一様に恭しく、まるで高貴な貴婦人に対する騎士のようにも見えた。
(一体あの石柱になんの意味があって…?)
その選別の場で、ドナと思しき人物は引き返すように指示されたようだった。石柱に近付くことはなく引き返して行く背中がチラリと見えた。
(ん…?あれは…)
目を細めて更に覗き込むと、石柱の真ん中辺りに光るものがあるのが見えた。
(指輪?あれはオブジェかなにかなのか?)
ちょうど人間で言えば腹の辺りに、そこだけ精巧に手が彫られていた。他の部分は荒削りなままなのに、その手の部分は艶やかに美しい手が存在している。色は石柱と同じなので、そこだけ誰かが手を加えたのだろう。そしてその手には指輪が嵌められていた。ロイには理解出来ないが、庭園などに置かれているオブジェの一種なのだろう。
(指輪…)
ロイは、自分の胸に下げた指輪を服の上から握りしめた。
その石柱の手に嵌まっていた指輪と、ロイの持っている指輪はよく似ている気がした。
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翌日、ロイがバーのカウンターで専門書をめくっていると、隣にドナが座った。
「よう。カフェで見た顔だな。領主サマのとこにいる縁戚の学者先生、だろ?」
「…ああ」
普段の鋭い目つきを抑えて、既に数杯の酒を飲み干して来たような距離感でドナは人なつこい笑顔を浮かべて肩を並べた。まるで別人だな、と思いながら、ロイも自分も人のことは言えないと苦笑した。
「あんた、近過ぎだ。昨日はバレるかと思ってヒヤヒヤしたぜ」
親し気に顔を近付けて来て声を潜めたドナの目の奥に剣呑な光が宿る。ロイとしては潜入するドナとは充分な距離を取っていたつもりだったが、彼には存在がバレていたようだ。
「すまない」
「まあいいさ。あんたのおかげで警備の甘いところで入れ替わりに成功したしな」
ドナは周囲を見回して、ロイの耳元に口を寄せた。
「あの楽園には女神が居る」
「女神…?」
ドナの口から予想もしなかった言葉が漏れて、ロイは目を瞬かせる。
「オペラ歌手のマリア。あんたも名前くらいは聞いたことあるだろ」
「帝国の金糸雀と呼ばれる歌姫…だったか?少し前に引退したと聞いたが」
彼女が歌った翌日は、どんな事件があろうとも必ず彼女の記事が新聞のトップを飾っていた覚えがある。隣国でさえもその扱いだったのだから、自国での熱狂ぶりは推して知るべしだろう。
「ああ。その容姿も、歌声も、その美しさから神々の寵姫と名高かったが、皇帝に見初められて表向きは引退…噂ではその皇帝に独り占めされて宮殿に閉じ込められているという話だった」
ドナが一旦言葉を切って、緩やかに微笑んだ。ロイは、その微笑みにどこか不穏な気配を感じてゾワリと肌が粟立つのを感じた。
「そのマリアがあの温室に居る」
「馬鹿な…!この領の病のことを知っているだろう」
「あの温室の奥に、隣国の坑道に繋がる道があるという情報を数年前に掴んだヤツがいた。この領内を通過しなくても隣国へ通じる抜け道があると、な。そいつだけの情報だったらしくずっと眉唾モンだと言われていたが…あの温室に女神が居ると言うことは、抜け道の存在は間違いない」
そこまでの話を聞いて、ロイは頭の奥でチリリと軽い痺れのような感覚を覚えた。鼻腔の奥で何かが焦げるような、実際にする筈のないのに不快な感覚。
「まさか、あの温室の道は昔…」
「何だ?何か知っているのか?」
「…いや、何でもない」
ロイは気もそぞろな様子でグラスを呷った。
「ああ…夢のようだ。昔取材で一度だけマリアの歌を聞いたことがあるが…今も忘れられない。あれは天上の調べだ…」
ドナはロイの様子には気付かないようで、うわ言のように伝説の歌姫について語っている。
「ああ、あんたのおかげで調査が進んだ礼に朗報だ。北の『囚人』達は全員、今のところ生存は確実だ」
「本当か?!」
「少なくとも2週間前までは情報が入ってる。それから暫くは互いに動きがない。すぐに、って急かす程切羽詰まってないだろ」
「……詳しいな」
「随分疑りの目を向けてくれるな。ま、信じろよ。信じるしか選択肢がねえんなら、その方が楽で言い訳も立つさ」
ドナの手の中のグラスの中身をグッと呷ると、殆ど溶けていない氷がカラリと音を立てた。
「俺は、昔は首輪だった。そこから飼い犬に出世したんでな。そっち方面のコネも知識もあんたよりは持ってるのさ」
「…そうか」
互いの表情に、何となく苦いものが浮かんでいた。国は違えど同じ立場の者同士、僅かに生じた連帯感だろうか。
明らかに早いペースでグラスを空けている二人だったが、バーテンは何も言わずにシェイカーを振っていた。