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男が馬車に揺られている。
先程の場所から連れ出された後、手枷は外され、身なりも整えられ上等な衣服を着せられていた。座席には大きめのトランクが一つ。そして男の膝には封筒が抱えられている。
男が窓の外に目をやると、見渡す限り目新しいものもない田舎の風景が広がっている。時折すれ違う人々は、少し疲れたようにも見えた。
外の景色に見飽きたのか、男は封筒の中から書類を取り出して読み始める。
(…サリノ伯爵。別名『石狂い伯』元は辺境の小さな領地を治める弱小貴族で、領政よりも鉱石の研究に熱心な変わり者と評判だった。だがそこで巨大な金の鉱脈と稀少な鉱石を発見。その鉱石を皇帝に献上したことにより、伯爵位と発見した鉱脈全てを含む国境に面した広大なビート領を賜る)
男がページをめくる。
(その時に発見された鉱石は僅か数グラム。しかしその数グラムでも国同士のバランスが崩れる程の価値を持ち、通称『幻獣の核』と呼ばれている。同時に発見された鉱脈は良質な金を無尽蔵に産出可能と見られ、発見者であり鉱石に詳しいサリノ伯が治めるのが適任、となったようだ…が、実際は更なる『幻獣の核』を採掘の為、この地で調査させているというのが大方の見解…)
大きめの石に乗り上げたのか、馬車が大きく揺らぐ。男は一瞬ページを繰る手を止めて眉根を寄せたが、すぐに何事もなかったように書類に目を落とした。
(家族構成は現在妻、のみ。嫡男がいたが、幼い頃病死。後継に遠縁の子息を養子にしてはいるが、まだ幼少であること、そしてサリノ伯夫妻もまだ子を望める年齢なこともあり、あくまでも書類上の養子で正式に引き取ってはいない。…良くある話だ)
男は更にページをめくる。
「『幻獣の核』についての詳細の情報は無し…か」
男が書類から目を離して、目を閉じて自分のこめかみに軽く指を添える。
(私はロイ。サリノ伯の妻の甥にあたる。職業は地質学者。研究の為にこの地を訪れた)
男はトランクの中から瓶を取り出し、中の液体を書類に掛けた。すると、見る間にインクが溶け出して、書類はまっさらになってしまった。これで内容は分からなくなってしまったが、消えた全ては男の脳に一言一句違わず刻まれている。
これが男の特技であり、これまで彼が生き延びて来た武器の一つでもあった。
馬車が止まり、男はトランクを片手に馬車から降り立った。
「ありがとう。ご苦労だったね」
男は御者に多めにチップを渡すと、穏やかに言った。
チップを渡された御者は、馬車に乗せた時と降りた時の男の雰囲気の違いに一瞬戸惑ったようだが、きっと乗り込んだ時は虫の居所でも悪かったのだろうと思うことにした。
(私は…ロイ)
去って行く馬車を一瞥すると、男は領内に入る手続きの窓口に向かう。
もし馬車の中で書類を読む彼を見ていたら、その場にいる男を同一人物とは俄に信じられなかっただろう。顔立ちも服も変化はない筈なのだが、男の表情や目付きは、全く印象が変わっていた。
これがもう一つの男の武器。与えられた人物像になりきること。自分に暗示をかけることによって、男はどんな拷問を受けても、自白剤を投与されても正体を明かすことはない。卓越した記憶力と自己暗示力。
それを活かして男は諜報員として他国に潜入し、数々の功績を残して来たのだった。
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国境に面するビート領。良質の金が産出されるため、豊かな領地で有名だった。
街は整備され、立派な建物が多い。夕暮れ時、鉱山から戻った男達が集っているらしく酒場からは賑やかな喧噪も聞こえて来る。
ロイは、屋敷からの迎えを待ちながら、街の様子を眺めていた。
「本当に男しかいないのだな」
新聞を売る男。それを買って読みながら歩く男。店内が満席だったのか、店の外で酒を酌み交わす男達。
(20年前、鉱山で大規模な崩落事故が起こって以降、このビート領では女だけが発症するという謎の風土病が蔓延している。発症した女は例外なく死ぬが、男の方は全く健康に問題がない。この領だけに見られる奇病で、未だに解明はされず、治療法も確立していない。だがこの街の採掘で得られる報酬が高額である為、恋人や妻、家族と離れてでも単身で出稼ぎに来るものは後を絶たない)
ロイは、街のどこからも見ることの出来る領主サリノ伯の屋敷を見上げた。街の半分を覆うように連なる山脈の最も高い峰の中腹に、堅牢な砦のような屋敷が張り付いている。
この山脈が豊かな資源を蓄えている、別名「帝国の金庫」であり、隣国との国境にあたる。不思議なことに鉱脈は帝国側に集中しており、反対側の隣国で産出される資源は量も少なく価値のないものばかりだった。
(サリノ伯がこの地を治める前は資源も特産品にも乏しい価値のない土地として、隣国と小競り合いも起きない場所とされて来たが…)
ロイの脳裏に、ここに来るまでに耳にした噂話が蘇る。
『サリノ伯は、自らが発見した『幻獣の核』を王家よりも所持しているそうだぜ』
『何でも砂粒みたいな小さな石でも、山一つを一瞬で更地にするような力があるって話だ』
『いや、屋敷に居ながら世界のあらゆる秘密を手に入れることが出来ると聞いたぜ』
ロイが考えに沈んでいると、いつの間にか目の前に背の高い紳士が立っていた。
「ロイ様…ですね?旦那様にお迎えに行くようにと申し付けられております」
「ああ…よろしく頼むよ」
ロイは迎えに来た家令を名乗る男と共に馬車に乗って屋敷に向かう。まさか家令が直々に出向いて来るとは思わず、ロイは少しだけ警戒を強めた。
やがて街の喧噪は遠くなり、馬車は人気のない山道を登って巨大な屋敷に吸い込まれた。
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屋敷に到着すると、サリノ伯は不在だったが、多くの使用人がロイを出迎える。やはり使用人は男しか居ない。
身寄りがないと思われていた伯爵夫人のいきなり現れた血縁ということで警戒されているのかもしれないと覚悟していたが、使用人達はそんな様子もなく丁重にもてなしてくれた。
「旦那様は少し遅れるとのことでしたので、先にお食事をどうぞ」
ロイが豪華な食事を済ませ、家令から屋敷の案内などを聞きながらワインを傾けていると、サリノ伯が帰宅した。
生まれは地方の弱小貴族と聞いていたが、立ち居振る舞いは洗練されていて、帝都で生まれ育った高位貴族と言われた方が納得行くだろう。短く刈り上げた黒髪に白いものが混じってはいたが、顔立ちは若々しい。
「待たせて申し訳なかったね。遠路はるばるようこそ、ビート領へ」
「こちらこそ滞在を許可していただき感謝します」
食事は済ませて来たと言うサリノ伯だったが、話がしたいということでそのままテーブルにつく。手慣れた様子で給仕がワインと簡単に摘める軽食を並べた。
互いに自己紹介などをしつつ、二人の間に和やかな空気が流れた。
「…妻とは若い頃に私が視察に訪れた隣国で知り合ったのだが、その時は身寄りのない戦災孤児として教会で働いていたのだよ。まさか君のような立派な甥がいるとは思わなかったがね。しかも地質学者とは。聞いてはいると思うが私は『石狂い伯』と呼ばれる程鉱物の研究が好きでね。私とは血の繋がりはない筈なのだが、話が合いそうで嬉しいよ」
「父が戦争で生き別れになった幼い妹がいたと、ずっと探していたのです。まさかこちらの国で伯爵夫人として暮らしているとは思いもよりませんでしたので、行方が分かるまで随分と掛かってしまったそうです」
ふとどちらともなく会話が途切れ、少しの沈黙の後ロイが切り出す。
「…ところで今、叔母上はどちらでお暮らしですか?保養地でしょうか。それとも帝都で?」
「聞いてどうするつもりかね」
「…父が会いたがっております。もし、叶うのであれば再会させていただきたい、と」
不意にサリノ伯が立ち上がってロイに近付く。そしておもむろに顎を掴んで上を向かせ、正面から顔を見下ろした。
突然の不躾な行動に、ロイの眉間に皺が寄ったが、そのまま抵抗もせずにサリノ伯の出方を窺った。
「君は、隣国の人間に良くある顔立ちをしているな」
「代々あちらの生まれですから」
「少し妻の面影があるようだな」
「……叔母上のお顔は存じませんが、やはり血筋でしょうか」
「妻の居場所を聞き出して、人質にする計画か?」
「…まさか」
ロイはその剣呑な物言いに一瞬目を見開いたが、すぐに不快な態度を表わしてサリノ伯の手を払う。その様子に、何故かサリノ伯は愉快そうに笑った。
「何、冗談だよ。妻の親戚に会えて、つい浮かれて飲み過ぎてしまったようだ。申し訳なかったね」
「…いえ」
再び、二人の間に沈黙が落ちる。ロイは少々気まずいながらも敢えて口を開こうとしなかった。不自然なまでに長い無音の後、まるで先程の行動を忘れたかのようにサリノ伯は鷹揚にワインの入ったグラスを呷った。
「妻は、ここに居る」