21
馬車の窓からは風が入り込み、陽気と相まって心地よい空気が漂っている。気を抜けば寝てしまえそうなほど静かな時が流れ、結局、ベアトリーチェは何も聞かずにパンテーラに到着した。ギルドには顔を出さず家に直行する。
出発は明日の夜。今のうちにある程度の用意をしておくのが良いだろうと考え、家の扉を開いた。
すん…
サンバンの足が止まる。進むと思っていたベアトリーチェが鼻っ柱をサンバンの背中にぶつけて小さく声を上げた。訝しげにサンバンの後頭部を見上げるが、顔は窺い知れない。そのかわり、彼女の海が、ざわめきを増していた。
生唾を飲む。
自分の内側に感覚を集中させる。彼女の周囲が見えない力に満たされていく。家全体を覆ったところで、異物は感知できず、また誰かが入り込んでいる様子もなかった。
ただ、サンバンは静かに髪を結び直した。
そして
ダンッ!!
足音と同時に刃が煌めく。ベアトリーチェの目には光の軌跡しか残らなかったが、サンバンの剣は確かにソレを捕らえたようだった。
壁のように見えたソレが斜めにズレ、正体が露わになる。
胴が真っ二つになった物言わぬソレは、断面から鮮血を流していた。
「…間取りが変わってしまったね」
サンバンは手慣れた動きで処理を始める。二つに分かれたソレを浴室に運び、血を抜く。床の汚れを適当な布で拭いながら、ベアトリーチェに言った。
「麻袋を買ってきてくれるかな。大きいものがいい。コレは森に捨てよう」
呆然と見ていたベアトリーチェがハッとして、コクコクと頷いた後、扉を閉めて走り去っていった。
その足音を聞きながら、帰ってこないかもしれないな、と薄らと思ったのだった。
鎧を着たまま走り出してしばらく、身体中が汗に塗れ、足がズッシリと重く感じるようになって、漸く彼女は立ち止まった。
それでも、身体中を這うこの汗が走ったことによる汗なのか、冷や汗なのか、わからなかった。
落ち着け、落ち着け。
自分に言い聞かせる。
海が広がる。
荒れる波を鎮めていく。
一呼吸置いて、近くの壁にもたれかかり、ズルズルと腰を下ろす。
本性を、見た気がした。
柔らかな笑みの裏にある、冷酷な顔。最近は共にした依頼ですら見かけなかった気配。
壁。見えない壁が、そこにはあった。
視界が滲む。涙が溢れる。
わからなかった。
悲しいのではない。
苦しいのではない。
なのに溢れる涙の、その感情がわからなかった。
「…ベアトリーチェさん?」
「………」
リンシアを含む、ロイのパーティがそこにいた。
「…なぁ、ちょっと飯にしようや」
「えぇ、僕も小腹が空いたところです」
「ほら、そんなとこで座り込んでないで、アンタも行くんだよ」
アリアリアに引き上げられ、重い腰を上げる。フラフラとした足取りを支えられながら、ガランとした飯屋に連れられる。ご飯どきからは外れているおかげか、人の入りは少なく、店員のやる気もない。ロイが適当に注文して店員が離れたところで、リンシアが切り出した。
「何か…あったんですかー?」
「…サンバンさんが」
人を殺しました。
口から出かけた言葉を仕舞った。言えるわけが無かった。
どんな理由があろうと、人殺しはご法度である。彼らがサンバンと繋がりがあろうと彼らが衛兵に言えばサンバンは捕まる。
サンバンが、いなくなってしまう。
脳裏に、彼の笑顔が浮かんだ。
「やっぱりなんかやらかしたか…。ほらみろリンシア、ロクなことにならねえって言っただろうが」
「むー…、だってブラックジャケットだったならしょうがないでしょー。というか、ベアトリーチェさんが何かされたんですかー?」
リンシアの質問に首を振る。誓って彼には何もされていない。なんなら、一つ屋根の下で男女が暮らしているならありそうなアレソレすら、何一つ起きていない。
サンバンの言う通り、枯れているのだろう。
「ほら! サンバンさんがベアトリーチェさんに何かしたわけじゃないんだよー。何か別のことがあったんですよね?」
ベアトリーチェの口が、言葉を吟味する。
「家に…いつのまにか人が入り込んでいて…サンバンさんがその人を…。多分ブラックジャケットというところの人だとは…思います。ただ、余りにも…」
躊躇いが無さすぎた。
「言葉を交わすことは出来なかったのか、って感じか」
「うーん…それは…」
「無理だろうねぇ…」
ロイ達が一様に頷く。ベアトリーチェが疑問を口にする前にロイが語る。
「ブラックジャケットに選ばれる奴ってのはな、死刑確定になるまで何度も犯罪を犯し続けた狂人どもだ。その狂人どもの中で一つ抜けた能力がある奴だけが実働メンバーとして選ばれる。ソレ以外は、実働メンバーを育成するための生きる実験体なんだよ。それにその実働メンバーだって、そもそも死刑が確定している罪人なんだ。殺したところで誰も罪に問われねぇ」
「だからブラックジャケットは、平気で人を切り捨てる。失敗した奴らが死のうが、生きてたとして報復を受けようが、彼らにとっては些事なんですよ」
『良くも悪くも、ボク達は捨て駒です』
サンバンの言葉の意味を理解する。
彼はもう自分が捨てられたものとして考えている。だからこそ、少しでも長く生きるために、彼が出来ることをしているとしたら。
『あぁ、これも、生きるためなんだ。早死にするつもりはないからね』
海のざわめきが消える。
「私、戻ります」
「…いいのか? 今なら別の道にもいけるんじゃねぇか?」
何も、おかしな事はない。
わかっていなかったのは自分だったのだ。
「えぇ、おつかいを頼まれていたのを忘れていました」
「…そうか。サンバンによろしくな」
「はい」
海は穏やかだが、空模様は未だ暗雲が立ち込めている。
ただ、溢れた感情の名前を、彼女は知っていた。
それも含めて、彼に伝えねば。




