9.だるがらみ
〇前回のあらすじです。
『ふもとの町で合流した和泉と生徒が、馬車に乗って出発する』
〇
(馬車なんてはじめてだ)
カーテンの開いた客車の後部から、和泉は遠ざかっていく都をながめていた。
【学院】は半ば鎖された区域だった。
同じ山間に築かれたほかの町村から、直通の公的な交通手段はない。【学院】から町に降りるのも、町から学院に帰るのも、徒歩か飛行魔法である。
無精者になると、校内の購買部だけで用をすませてしまうので、教員や研究者のなかには、学院に来てから先、数えるていどしか敷地を出ないで職務をまっとうするという猛者もいた。
もっとも。こうした学術施設の周辺は【特例地域】でもある。
その範囲を越えて飛行した場合、よその法律にひっかかり、『罰金』もしくは『懲役刑』を課されることもある。
「今年は暑いですねえ」
「ええ。去年までは涼しかったのにねえ」
レースのハンカチで、ふくよかな輪郭をふきふき。中年の女性がふたり、おしゃべりしている。
乗客は、多いのか少ないのか。
和泉と相棒の女子生徒をふくめて、五人。
車内は薄暗く、空隙が目立った。
「【学院】の校長が変わったから――」
低い声を出したのは、御者席に近い男だった。
目元には隈が落ちていて、全体的に痩せている。
黒い髪は不揃いに刈られていて、手負いの野犬のようにぼさぼさだった。
「妖精たちが、ザワついてんじゃないのかな?」
けだるそうに、男はくたびれたスラックスの脚を組み変えた。
本を読んでいる黒髪の少女に、彼は薄いブラウンの眼をチラとあげて一度笑った。
が。彼女――ウォーリックは無反応。
男の小さな瞳が、和泉に焦点を変える。視線がぶつかって、ギクリと和泉は身をすくめた。
「あんたら旅行?」
木の壁にもたれて、四十ほどのその男は若い魔術師に水を向けた。
「はい。まあ……」
ぎこちなく和泉は愛想笑いをする。
いちおう。と、くちのなかでモゴモゴつけ足す。
大きな鼻を、男が短く鳴らす。
「黒い法衣っていうと、【学院】の先生かな。それとも、研究員だっけ?」
「えーと。研究職ではあったかと」
これもくちのなかでモゴモゴごまかしてるあいだに、男が質問を重ねた。
「そっち。生徒さん?」
「はあ……」
「いいよなあ。若くで出世。生徒と物見遊山。どーせそこで労費した分も、学校が払ってくれるんでしょ?」
「えーと、」
和泉の知っている限りで、今回の件について【学院】は関わりがない。
遠くの領地で起こっている異変について、貴族間での互助・監視組織である【貴族同盟】を経由して、仕事をする。
(だから確か、経費は全部そっちから出るんだったよな)
説明しようと、和泉は身をのり出した。
「どうやって取り入ったの」
――がくっ。
唐突の問いに、長椅子からつんのめる。
「知ってるよ。【指環】でしょ。それ」
ヒゲの残った下顎を男はしゃくった。
「なんか【学院】のお偉いさんとかに気に入ってもらえるとくれるんだってね。違ったっけ?」
「偉い人。というか……」
厳密には教員であれ生徒であれ関係なく、指環を持っている魔術師に下賜権はあるのだが――。
ぴくぴく。
血管が。和泉のこめかみで震えていた。
(な……なんか。このおっさん……っ!)
「人手不足って風のたよりで聞いてたけど、ほんとみたいだな。大体【表】出身の無能が無条件で【学院】に世話してもらえるって時点であやしいって思ってたけど……」
苦笑いに留めた和泉の両目が、黄色いサングラスの奥で据わっている。
嘲笑を越えて、毒が。男の紅茶色の双眸にはあった。
「そういやあ学院長先生って女の人に変わったって聞いたけど。君が指環持ってるのって、そういうのとカンケーあったりする?」
和泉は腹の底から噴火した。
――とはいえ。悲しいかな。
見ず知らずの人とケンカをする勇気を、彼は持たない。
適当に。
「いやあ。現学長は、そういうお方ではないので」
と茶を濁し、そんな貧相な自分を呪いつつ、嵐が過ぎ去るのを待つしか……。
「下衆」
ふたりは固まった。
先に我に返ったのは、和泉だった。
(まっ。まさか……)
自分のくちを咄嗟に押さえる。
(オレの義憤に燃える心が、知らないあいだに本音を声にしちまったのか!?)
にしてはハスキーで可愛らしい声だったので、和泉は考えをあらためた。
ぎょろり。
硬直していた男が血走った眼をめぐらせる。
魔術書のページをめくる少女――メイ・ウォーリックが、彼の視線の先にいた。
ウォーリックは男に目を合わせた。ふ。と嗤う。