50.貴族と庶民(しょみん)
〇前回のあらすじです。
『和泉たちがクリーチャーに苦戦する』
「ウォーリック、どこだ!?」
水煙のなかで和泉は呼んだ。
ぬっ。と湯気の奥に影がのぞく。
魔犬の爪が白煙を突き破る。
伸びた三条の切っ先が、和泉の背中を切り裂いた。
「いっ……!」
もんどりうって床をころがる。
さかさまになった不格好な姿勢で、和泉はホールの奥に停止した。
脚を。なにかが下から支えている。
(のぼり坂?)
――段々になっている。
「そこにいますか。和泉教授?」
霧状になった視界にウォーリックの声がする。
体勢を整えながら、和泉は「ああ」と答えた。手をついたのは床ではなく、段差。
おそらくは――。
「ここに、上へつづく階段があります。不幸中のさいわいと申しましょうか」
どこにいるかわからない生徒に和泉は返事した。
「ああ。……逃げるか?」
白煙から声が答える。
「そうするには、目のまえの駄犬は少々(しょうしょう)やっかいですわね」
ぶおおうんッ!
霧をはらって、魔犬のしっぽがふたりの頭上を通り過ぎる。
山羊の尾――人間をふくめた複数の動物を合成したのだ――が、空間を薙ぎはらう。
一瞬だけ。和泉の視界があける。
ウォーリックの顔が垣間みえる。
「じゃあ結局。倒してからってワケか」
ばしんッ。
縦に振りおろされた鞭めいた尾が、和泉の肩を捉える。
ウォーリックはしばし沈黙した。
あけた霧のなかから、彼女は高熱波を放つ。
灼熱の光線はクリーチャーの胴を直撃した。
爆発が起こる。
魔犬の注意が和泉からそれる。
まわりから押しよせるスチームに、和泉の視界は再びつつまれた。
「教授は上へ。駄犬の相手は、わたくしがいたします」
「だいじょうぶなのかよ」
いきりたって尾を振りまわすクリーチャーに身を伏せながら、和泉はわめいた。
いまだ晴れないかすみのなかで、ウォーリックは魔術を放ちつづける。
声が遠のいていく。
「かまいません。わたくしにはリリンがいます。それに、教授がいると使えない切り札もありますので。お気づかいなく」
「おまえそれ強がりとかで言ってんじゃないだろうな」
はあ……。と溜め息をつく気配がした。
『ぐうるる……おおおおおおお!!』
怪物があらぬ方角に突進をしかける。
――ウォーリックのいる位置。
ごつッ。
強かに、『なにか』を打つ音。
「ウォーリック!」
「和泉教授。疑ったところで、あなたに拒否権はありません」
ひゅんっ。
上空から身をひるがえす影。
霧を突き破って、ようやくウォーリックが全身をあらわした。
和泉のまえに着地する。
彼女は自分の胸を手で示した。大人びた美貌の右半分が、赤く焼けている。
「わたくしは貴族で。あなたは庶民なのです」
「だから……。だからなんだよ」
「庶民は貴族の言うことをきくものですわ」
ふっ。とウォーリックは笑った。
和泉に手のひらを向ける。
ウォーリックの背後から、三頭人面のクリーチャーがブレスを吐く。
「うしろに――」
ごおおおッ!
ウォーリックは和泉に魔術を放った。
圧縮された空気が白髪の青年を吹き飛ばす。階段の上部へと。
満ちあふれる蒸気を突きぬけて、和泉は踊り場の手前に尻から落ちた。
玄関ホールを、化け物の業火の青が染め抜く。
「……。……ッ」
戻ろうとする脚を和泉は叱咤した。上階に急ぐ。戦場に背を向ける。
「信じてるからな!」
去りぎわに、この世で最も嫌いなセリフを和泉はウォーリックに使った。
彼女に聞こえていたかどうかはわからないが――。
それは自分を重責から解放し、他者を不当に縛りつける呪いだ。




