26.リリン
〇前回のあらすじです。
『和泉が生徒に置いていかれる』
〇
仕度をすませて和泉は外に飛び出した。
村の住民が、日々の労働に汗している。
敷地のはずれで重そうにクワを入れる老人。糸車のまわる音。放牧された牛や、鶏の鳴き声。
ひょこ。ひょこ。
足元で、赤いベレー帽がゆれていた。
砂地の路面に『〇(まる)』や『×(ばつ)』の印を描いて、リリンがあそんでいる。
「あのさ。リリン。おまえのご主人さまがどこに行ったか知らないか?」
「あっち」
リリンは井戸広場のほうを指差した。
「あれ?」
桶やバケツを持参した主婦たちが、世間話をしながら生活水を汲んでいる。
「ここ。水道ひいてるよな」
「うん」
【裏】の世界は、【三者協定】という取決めにより、ある水準以上の科学技術の利用・開発が許されていない。
とりわけ情報技術や兵器などは認められておらず、この世界にはデジタル機器の製造もなければ、重工業も発展途上。人工衛星など、もちろん飛んでいない。
それでも生活上不便のないていどには、技術の使用は叶っていた。
電気。上下水道。瓦斯。といったライフラインの整備がそうで、和泉も――娯楽がとぼしいという一点をのぞいては――普段の生活に不足はない。
「特別に井戸のほうがいい水なのかな?」
「関係ないよ」
リリンはまるばつゲームをやめた。
地面にお尻をついて、生活水を運ぶ人たちをながめる。
「あの人たちはね。自分で望んで苦労してるの」
「それは……。スローライフを堪能する的な意味で?」
井戸のまわりでは、「まったく。いつも大変ねえ」とか「はああ。しんど……」とか。文句や愚痴が飛び交っている。
「……オレには、好きでやってるようにはみえないけど」
「じゃあ。嫌々(いやいや)やってんでしょ」
「自分で望んでいるのに?」
「そう」
リリンは酷薄に返す。
名前の通り、『リリスの娘』にみえた。
もっとも。悪魔との契約は違法である。
ただの箔付けのために、辞典にある魔物の名前をつけたがる魔術師は一定数おり、彼女の主もまた、その類なのだろう。
「村の人たちには、なんか事情があるんじゃないのか?」
和泉が訊くと、宿の外壁にリリンはつまらなさそうにもたれた。
「まあ。【カース・ランゲージ】っていう、領主からの束縛がはたらいてるってのが大きな理由なんだろーけどね」
「なんだ……。おまえ。【呪縛】なんてもん信じてるのか?」
「いーでしょべつに。なんなら『同調圧力』って言い換えようか。きみにはそっちのほうが、よっぽど通用しやすそうだし」
「いやみなやつだなあ」
身じろぎして、和泉はくちを尖らせた。
――『同調』は、ここでは心理学の用語として使っている。
『人は正解のあきらかな問題でも、ほかの複数人が別の同一回答をした場合、まちがっていると分かっていても、ほかの回答者たちと同じ答えを選ぶことがある』ということ。
そして『その比率が、条件によっては三割ちかくにのぼる』ことが、実験によって分かっている。
(古いデータだけどな。逆に言えば、『七割がまわりに流されない』ってことでもある……。けど。それは計算問題とか、穴埋め問題みたいに、『正解が用意されている場合に限る』とも言えるわけだ)
心理学において、『同調』は『集団圧力』に付随する『個人の態度の変化』をさすのだが。
この『心のすきま』に【呪縛】は作用する。
仮にカース・ランゲージはあると前提した上で、和泉はそう解釈していた。
ゲームに使っていた木の棒をふりふり。リリンが言う。
「はっきりとした指標のない時、大きなちからを持つひとりの魔術師の一言にみんな従っちゃうなんて、めずらしくもないと思うけど?」
「まあ。精神のつよさが反映されやすい世界だしな。ここは」
魔術の世界である【裏】では、心理的な弱さは【表】にいたとき以上に、致命的な結果をつくりやすい。




