03. スルタン(皇帝)セリム
後宮の女性というのは、基本的に噂好きである。
というか、ずっと同じ建物の中に閉じ込められているのだから、そのぐらいしか目新しい刺激のある娯楽が無い。いわくつきの新人が入ってきたともなれば、ちょっとしたお祭り騒ぎである。
「新しく入った子?」
「ユリアって名前らしいわ」
「歳はいくつ?」
「17歳だって」
「あの子、元は貴族らしいわよ」
「マジで? なんで良いとこのお嬢様がここに?」
「そんなの知らないわよ」
ハーレムに入ったその日から、さっそくユリアは好奇の対象であった。ある意味、ハーレムで最も注目されている女と呼んでも過言ではない。
もっとも、ハーレムに入った当初は誰でもそんなものである。しばらくすると皆、すぐに飽きてしまう。そうなれば単なる下っ端の新人りでしかなく、いつかスルタンに見初められることを夢見ながら、先輩たちに顎で使われる日々が始まる。
こちらもまた、ハーレムではよくある話だ。
だが、ユリアの場合は少しだけ事情が違った。彼女がハーレムに入ったその日から、すぐ事件は起きた。
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「ユリア、急いでください」
夕食を食べ終えた直後、ミーナがユリアを急かすようにして移動するよう促す。一体何が始まるのかと問うと、簡潔な答えが帰ってきた。
「お目見えの時間です」
誤解を恐れずに言えば、これこそがハーレムの女たちの本分とも言える。要するに誰がスルタンの今夜の夜伽の相手をするのか決めるのだ。
ちなみに、スルタンが新しい女と寝るための手順は以下の通りである。
まず宦官長が黄金の鐘を打ち鳴らすと、女奴隷たちは一斉に着飾って謁見の支度をする。スルタンが宦官を従えてハーレムに姿を現すと、宦官長が大声で到着を告げ、並んだ女たちは両手を胸の上に組んでひざまずく。
スルタンは女奴隷たちをゆっくりと値踏みし、目に留まった女を宦官長に伝えると床入りの準備がスタートだ。
幸運な女奴隷はまず浴室に連れていかれ、黒人女奴隷たちの手で全身をくまなく洗われる。入浴が終わると全身脱毛が始まり、除毛剤を全身の皮膚の上に塗ってから一定時間後に洗い流され、仕上げに香油で全身マッサージ。
最後に化粧で、手足の爪を薄紅色に染め、顔や首にアーモンド入りの白粉が塗られたり、墨で眉毛を、コールでアイラインが描かれ、アイシャドーとマスカラ、そして頬紅が塗られていく。
また、伝統的に黒髪が好まれていたため、黒髪でない者は黒く染められる伝統があった。
用意が終わると仕上げに美しい衣装を着け、スルタンの寝室まで連れていかれる。女奴隷がスルタンに抱かれた夜は宦官長によって記録され、子供が生まれた場合にスルタンの子である証とされた。
もし、一夜を共にしたことで子供が生まれれば女奴隷は一躍、帝妃の称号が授けられる。大勢の奴隷を従えて、贅沢三昧の暮らしが待っているのだ。
さらに男児の場合には年齢順に帝位継承の権利があり、万一その子が皇帝になれば皇太后として絶大な権力を持つことになる。この一度のチャンスで妊娠できるかどうかが、女奴隷たちの運命がかかっていた。
ただ、正室になれば安泰かといえばそうでもなく、結局のところ彼女たちは「女奴隷」に過ぎないのである。ハーレムの中でスルタンの権力は絶対で、女奴隷を生かすも殺すも彼の意のままだった。
過去には1晩の夜伽をサボったという理由で正室を処刑したスルタンもいれば、ハーレムを一新するために300人の女奴隷すべてを袋詰めにして海に投げ込んだ者もいたという。
これが神秘のベールに包まれたハーレムの実態で、女たちはどれだけ華やかな暮らしをしていても、その本質が奴隷であることに変わりはなかった。
広大な帝国の統治という重圧もあってかスルタンには過激な欲情でストレスを発散する者も少なくはなく、鞭や蝋燭といった変態行為は比較的マシな方で、時には暴力や無茶な性行為によって、一生涯に渡って肉体と精神を欠損する危険すらあった。
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「うわ、すごっ」
ユリアたちが大広間に入ると、既にそこは色とりどりの衣装を纏った女たちでごった返していた。肉体美を見せつけるように煽情的な服を着ている者もいれば、逆に慎み深さによって清楚さアピールを狙う者もいる。
そして多くの人間が集まれば、自然と上下関係とグループが出来上がる。個々人の格や派閥を確認したければ、この場で誰がどんな人と一緒にいて、どんなポジションにいるかを観察すれば一目瞭然だ。
当然ながら広間の中央に近い方がヒエラルキー上位に位置する女性たちであり、着ている服も基本的には質の良いものになる。
「ユリアちゃんはまだ知らないと思うから、簡単に説明しておくね。あっちの奥にいる色白で艶やかな黒髪の方がカーヤ様で、そのすぐ隣で沢山の人に囲まれているグラマーな茶髪の方がテオドラ様」
世話好きな性格なのか、聞いてもいないのにザラが色々と解説してくる。
タンジマート帝国の皇室に正式な結婚制度は無く、ハーレムに属する女性たちはあくまで奴隷である。それはスルタンに見初められようが子供を産もうが変わらず、スルタンはいつでも「妻ないし愛人である女奴隷」を処刑することもできた。
しかし「妻は替えられるが、母は替えられない」という神の教えにより、皇太后だけは独特の地位と絶大な権力を持っている。
そのため女奴隷たちの最終目標は、我が子をスルタンとして皇太后となることであり、現在その地位にある皇太后フランツェスもまた奴隷出身であった。
(まぁ、どうせ下っ端の自分には雲の上過ぎて関係ないんだろうなー)
なんだか面倒くさそうな制度に相槌を打ちながら、ユリアが捻くれた感想を抱いていた時に事件は起こった。
「陛下のおなーりー!」
芝居がかったサルマンの声が広間に響くと、ざわついていた女性たちが水を打ったようにシーンと静まり返った。そして皇帝の入室と共に、波が引いたように一斉に平伏する。
「面をあげよ」
スルタンの声は、よく通る若い男のものだった。いかにも自信家といった感じで、野心と覇気が伝わってくる。そしてユリアが顔を上げた時、考えるより先に声が出てしまっていた。
「うわっ、セリムじゃん」
やらかした、とユリアが失言に気付いた時には既に時遅し。
ハーレム中の女性たちの視線による集中砲火を浴びると同時に、聖典の奇跡のように波が引くが如く、さっとスルタン・セリムからユリアまでの間に道が開けてゆく。
そこにいたのは、堂々たる体躯の美丈夫だった。
しっかりと鍛え上げられた隆々たる筋肉に、日に焼けた浅黒い肌。夜の闇よりも深い漆黒の髪と、夜空の月明かりを思わせるような琥珀色の瞳。顔の彫りは深く、男らしさに溢れており、古の英雄を讃えた大理石像のような印象を与える。
そんなスルタンことセリムであるが、その表情は若々しさに溢れた青年のものだ。ユリアを目に留めるやいなや、人懐っこい笑顔を浮かべて口を開いた。
「――久しいな、ユリア。まさかこんな場所で再会しようとは」
ハーレムの描写はオスマン・トルコをモデルにしております。