17. 新生活
次の日からオルハンは早速、ユリアの壮大な構想を実現すべく手を打った。
聖典を何度もチェックし、どうやら問題なさそうだということが分かると、すぐにペーパーカンパニーを設立した。
表向きタンジマート帝国はリグリア共和国と対立しているためで、直に融資を受けることは出来ないからだ。そこでリグリアの北方にある大国・ネウストリア王国を経由することで、ユリアの父テオバルドへ接触を図った。
その際に押しの一手となるのが、娘のユリアの書いた手紙というか推薦状だ。
「ユリア、君の父上は本当に了承するのか?」
オルハンが恐れていたのは、もしテオバルドが融資を拒否した場合のことだった。一応は敵国同士であるし、リスクの高い投資先と判断される可能性もある。しかしユリアには、必ず成功する自信があった。
「ぶっちゃけ、ウチの銀行ちょっとカネ余り気味なんですよね」
あまり褒められた話ではないが、リグリア共和国では一部の金持ちが莫大な富を保有する一方で、庶民はその日暮らしにも困るような極貧生活を送る者も少なくはない。
これはリグリア共和国が優れた外交政策によって、巧みに戦争を回避していたこととが裏目に出ているのが原因だった。平和であるがゆえに兵士の供給源たる平民の発言力は弱く、相続税や累進課税といった富裕層への課税が正当化されづらい。
(まぁ、戦乱続きよりかはマシだという自覚があるから、庶民もこれまで反乱なんて起こそうとしなかったんだけど)
そんな背景もあって、実のところリグリア共和国それ自体の内需はあまり大きくない。そのくせ一部の商人や貴族が莫大な富を蓄えているので、さらに利益を得ようとすればどうしても外国投資が必要となるのだ。
「父はこの話を受けると思いますよ。仮にオルハン様が失脚しようと、タンジマート帝国はそう簡単に崩壊しないでしょうし」
「言ってくれるね……」
あけすけなユリアのコメントに呆れつつ、オルハンにも状況が飲み込めてきた。カネ余りのリグリア共和国=ヴィスコンティ銀行と、カネ不足のタンジマート帝国。水と油のように好対照な両国だが、だからこそ手を組めば互いの弱点を補い合える。
(まぁ、もう革命で国からは追い出されてるんだけど……)
だが、あの抜け目ない父テオバルドのことだ。恐らく最悪の可能性も見越して、あらかじめ銀行の再生プランをいくつか用意しているはずだのだろう。
(というか、そうでもなければ原作の乙女ゲーム通りに、軍事侵攻とか出来ないし)
戦争には金がかかる。
それが出来たということは、ヴィスコンティ銀行にはまだ大量の傭兵を雇えるだけの資金を保有していることに他ならない。
実際、ヴィスコンティ銀行全体からみれば、いくら本拠地とはいっても都市国家に過ぎないリグリア共和国の重要性はさほど高くなかった。せいぜい、グループ全体の1割ほどの富しかリグリアには蓄積されていないだろう。
とはいえ、小国であれば財政を完全に支配して意のままにすることも大国より簡単であるため、いわばヴィスコンティ家の「植民地」としてリグリア共和国にこれまで銀行の本拠地が置かれていただけなのだ。
(でも、父も兄も黙って引き下がるような人じゃないし、少なくとも一戦を交えるまでは諦めないでしょうね……)
かくしてユリアの予想通り、数日後にリグリアからは快諾の返事が届いたのであった。
***
無数のモスクや尖塔が立ち並ぶ、帝都アルラシード。1000年以上にわたり、次々と名を変えながら世界交易の中心地、東西文化の懸け橋として、常に世界最強の帝国が都をこの街に置いてきた。
七つの丘を囲む帝都の最東端、海を臨く「初まりの丘」に威風堂々とそびえる巨大な宮殿こそ、帝国の中枢たる水晶宮だった。大帝によって創設されて以来、20代にわたるスルタンたち君臨し、ここから広大な帝国全土を統治している。
ハーレムはこの水晶宮の奥、スルタン自身の居住区と黒人宦官長の私室の間に置かれていた。400以上の部屋が皇太后の中庭を中心に取り巻いており、ハーレムと外界を繋ぐ唯一の通路である「車の門」は、内側からは宦官兵、外側からは斧を持った近衛兵によって護られていた。門は夜明けとともに開かれ、夕暮れには閉じられる。
ハーレムには数千人の「女奴隷」が住んでいる。絶世の美貌とプロポーションを誇る美女ばかりであったが、彼女たちの大部分は誘拐されたり買われてきた異国の女で、一旦ハーレムに入ったが最後、基本的には死ぬまで外に出ることは叶わなかった。
ある意味でハーレムはスルタンただ1人を神として祭る神殿のようなもので、ハーレムに住む全ての女性はスルタンの欲望を満足させるためだけに存在する。女奴隷たちは皆、一度でもスルタンの目に留まって夜伽をすることを願いなら日々を過ごしている。
毎日のように肌の隅々まで香油を塗って磨き、マッサージや美容体操に明け暮れ、セックスのテクニックを磨く日々を送っていた。
女奴隷たちはほとんどバルカン半島ないしコーカサス地方の白人種で、その供給はおおよそ3つに分けられる。地方領主からの献上、帝都の奴隷市場、そして海賊からの献上だ。
特にユリアのような西方諸国の出身者は第3のルートが多く、タンジマート帝国と手を組んだ海賊がスルタンや総督のご機嫌取りとして、襲った客船の乗客を売り払うことは日常茶飯事だった。
ハーレムの女奴隷たちの地位は、厳格に4つに分けられている。最下位がスルタンとまだ一度も寝たことの無い女たちで、数人まとめて狭い一室に押し込められていた。
その上がスルタンの寝室に呼ばれるものの、まだ妊娠できていない女たち。そして最上位に位置するのが、幸運にもスルタンとの間に子供を成すことが出来た女たちで、彼女は個室と複数の侍女を与えられていた。
こうした階級は服装にも表れ、衣服やターバンに靴の形や色、素材、長さまで身分と役職に応じて細かく規定されていた。さらに季節ごとに衣服は変わり、スルタンの前で2度同じ衣装を身に着けることは許されなかった。
――そんなハーレムの中にあって、ユリア・ヴィスコンティの立ち位置は実に特異なものだった。
「今後、スルタンあるいはその代理人たる大宰相の許可によって、宦官の監視つきで宮廷内への外出を許可する」
大宰相オルハンの名で発せられたお触れ書きにより、ユリアには限定的な外出が認められることになった。オルハンから与えられた金色のペンダントつきネックレスを見せれば、斧を持った宦官兵が恭しく彼女に外界への門を開く。
しかしハーレムの外に出られるからといっても、庭でピクニックをするだとか、演劇や乗馬を楽しむ、みたいな楽しいイベントが待っているわけではない。
ユリアに与えられたのは、リグリアからの融資に関する報告書を作成したり、予算の見積書に誤りがないかチェックするといった事務仕事だった。
疲れていそうなオルハンの部下にお茶を出したり、「ちょっと隣の部屋から去年の財務報告書とってきて」みたいな雑用もユリアの仕事である。
(あれ、なんか転生前の毎日とあんま変わんなくない……?)
会社のOLみたいな日々に逆戻りしたことがユリアにとって幸か不幸かはともかく、オルハンの部下は最初こそ女が職場に入ることを嫌がったが、いざ入れてみると実に便利な雑用係が増えたことに気づく。
所詮は女奴隷であることを弁えていたユリアは不平を言うことも無く、昔とった杵柄もあってか仕事も早い。肉感的とはいえないが、精巧な彫刻のような美貌の麗人が愛想を振りまいてくれる。
とあれば、大抵の男は何だかんだ言って満更でもない。もともとの社交的な性格もあってか、誰に対しても気さくに話しかけるユリアは、半年も経つ頃にはすっかり職場の一員として受け入れられていた。
中には本気で惚れ込んだ官僚もいたようだったが、その中のどれだけと所謂“男女の仲”になったかについては最後まで本人たちしか分からなかった。
その手の噂は尽きないものだし、いくつかは本当だとしても驚くほどのことではない。ユリアは男と2人きりで買い物は食事する程度は友人のうちだと公言していたし、宴会で飲み過ぎて記憶がおぼろげになったところでお持ち帰りされた可能性もある。
女と2人きり=油断した女が悪いから、レイプされても仕方ない―――みたいな中世的価値観とは無縁の前世記憶を引き継いだせいもあってか、ガードの緩いユリアに「あの女なら簡単にヤレそう」と邪な下心を抱いた者は少なくないだろう。
ただ、はっきり言えるのは、誰の子供も妊娠することは無かったという事だ。
彼女がきちんとスポンジのような避妊具を使っていたのか、後ろの穴を使わせていたのか、腹が大きくなる前にこっそり堕胎していたのか。そもそも全て噂で、実は誰とも寝てないという可能性だってある。
しかし、いずれにせよユリアはグレーゾーンのギリギリのところで留まっており、彼女を疎む相手からも「確実な証拠がない以上は手を出せない」という所まで自身の価値を高めていた。
なんだかんだで政治的に仲は悪いけど、経済的には大国同士なので繋がりが深い・・・というのも古代から東ローマとササン朝ペルシアとかでありがち。