16. 交渉
大宰相オルハンのもとに、皇帝セリムから呼び出しがあったのは暑い夏の午後だった。前日の夜、急に訪ねてきたかと思えば、「面白い女奴隷がいるから会ってくれ」というのである。
(陛下も酔狂なものだ……)
オルハンが待機しているのは、ハーレムの続く巨大な門のある廊下だった。宦官兵が警護する門の目の前には、小さなテーブルとイスが置かれている。
これは姉がハーレムにいるオルハンのために、セリムが用意したルールの抜け道であった。
規則によれば「スルタン以外の男性はハーレムに入ってはいけない」「女奴隷はハーレムから出てはいけない」とある。
だが、ハーレムに限りなく近い場所に男性が近づくことと、女奴隷がハーレムの外に限りなく近い場所に近づくことは、禁止されていない。つまりお互いハーレムの境界線さえ越えなければ、宦官兵の監視のもと面会しても規則的には問題がないことになる。
かくして5分ほどコーヒーを飲みながら待っていると、薄いヴェールで顔と肌を隠したユリアが現れた。これも未婚女性なので素顔と素肌を見せてはいけないルールに従ったものだが、正直なところ薄すぎてあまり意味をなしていなかったりする。
「やっほー。オルハン君、元気してた?」
とても大宰相に対するセリフとは思えないユリアの態度に警備兵がギョッとするが、オルハンが笑って制止する。オルハンもまた、かつてセリムの付き人としてリグリアに滞在していた時期があり、ユリアともその時に知り合っていた。
「貴女は相変わらずですね、ユリアさん。元気そうで何よりです」
「いやー、それがそうでもないんだけどね」
しばらくは他愛のない世間話をしていたが、やや経ってからオルハンが切り出した。
「それで、今日はどういったご用件で?」
ユリアの方も少しばかり姿勢を正し、真面目な声でこう言った。
「オルハン君がお金に困っていると聞きまして、ちょっとした手助けの提案なのですが」
「ほう」
身構えるオルハンに構わず、ユリアは話を続ける。
「ハーレムのことなんだけど、うちの実家が買収しちゃっていいかな?」
それを聞いたオルハンの顔が、みるみる赤くなっていった。まずい、とミーナたちが思い始めた頃にはオルハンは席から立ち上がっていた。
「何がしたいんです? ハーレムを買収して、我が帝国を裏からリグリアが操ろうとでも?」
「そうですねぇ……オルハン君がずっと放置してれば、そうなるかもしれないけど。ただ、もし買い戻したいというのなら、実家の銀行は喜んで売るでしょう」
まるで悪戯に成功した子供のように、ユリアは髪の毛を指でくるくるといじりながら楽しそうに答えた。眉根に皺を寄せるオルハンを眺め、にやにやと不敵な笑みを浮かべている。
「……まさか」
オルハンの顔には、側近たちですら見たことの無い表情が浮かんでいた。端正な白い顔からすっと血の気が失せたかと思えば、次の瞬間には再び耳を茹でダコのように真っ赤な色に沸騰させていた。忙しい表情そのままに、オルハンの脳裏には様々な感情が駆け巡る。
だが、何といっても最大のものは「希望」だった。
「……そういえば、君の実家は高利貸しだったな」
ユリアの実家が営むヴィスコンティ銀行はリグリア共和国を本拠地としているが、顧客は西方諸国に広くおり、多くの支店を保有していた。
実際、顧客としては神聖クライス帝国やネウストリア王国、アンダルス王国にジェチュポスポリタ共和国といった諸外国の方が大きく、教会との関係も深い。
「ええ。うちの特徴は扱う商品と契約の多彩さ、つまり自由度の高さにありまして。お客様がお望みならどんな契約であろうと対応いたします。もちろん、相応の手数料は頂くことになりますが」
ここが勝負どころだ。ユリアはずい、と前に出る。ついでに言葉も敬語に切り替えた。
あと僅かに身を乗り出せば、ハーレムの外に高い鼻が突き出てしまうほどだった。瞬きすらせず、紫の瞳でオルハンを射抜くように見つめる。
「支払いは分割払いで構いませんし、契約の延長も応相談です。もちろん、その分だけ“追加の相談手数料”は頂きます。少々、割高になるかもしれませんが」
手数料………それがユリアのカラクリだった。
原理は利子と変わらないが、「解釈」が違う。銀行はあくまでオルハンから物品・サービスを購入し、後でオルハン自身がそれを買い戻す。
ただ、買い戻す際には割高な追加手数料を払う。利子ではなく、あくまで手数料である――それがユリアのカラクリだった。
「………」
ユリアの話が終わった後、オルハンはしばらく無言だった。聡明な頭の中でリスクとコスト、メリットとデメリットを天秤にかけているのだろう。
一秒が一時間にも感じられるほど緊張に包まれた沈黙が続き、やっとオルハンが口を開いた。
「……望みの報酬はありますか?」
この時のユリアはまだ、ハーレムの女奴隷でも下っ端の新入りでしかなかった。
片や向かい合っている相手は、押しも押されぬ大宰相オルハン。2000万の人口を抱えるタンジマート帝国の頂点、スルタンの絶対権力を代行し、政治・外交・軍事と実質的に帝国を動かすNo.2である。
オルハンの背後には皇帝セリムが控え、セリムの後ろには30万もの常備軍団が控え、帝国の全権力がそれを支えている。
だが、金色の陽光が差し込むこの日この瞬間、そんな力関係は意味をなさなくなった。
それはほんの一瞬かもしれないが、間違いなくユリアは精神的な面で大宰相オルハンと対等に渡り合い、ベッドの上でもないのに、帝国第2位の男を下に組み敷いたのだ。
**
まさにハーレムの珍事だった。
それまで下っ端に過ぎなかった4人が、それぞれ豪華な個室付きの部屋を与えられたのだ。それもケチで有名な大宰相の計らいで。
一週間後の昼、ユリアにレイラ、ミーナにザラたちは新しく与えられた個室に集まって座り、部屋の主が仕込んだカクテルを飲んでいた。後にも先にも、これほど美味い酒はなかったと4人とも後々まで口を揃えて言う。
新たに与えられた奴隷がアップテンポの音楽を奏でる中、各々がお酒を飲みながら腕を組んでダンスを踊り、就寝時間ギリギリまで騒ぐ。翌日も休暇で、まるで自由人のように朝から晩までおしゃべりをしたり、サイコロなどで遊んだりしたのは、本当にいつぶりだろうか。
(ユリアちゃんって、本当にすごいな……)
酔ってレイラと一緒にミーナの立派な胸を揉みだすユリアを見ながら、ザラはそんなことを思う。
大宰相に媚びたいのか、自身の派閥を立ち上げるつもりなのか……まだユリアの考えは分からない。ただ、その日の彼女は、とても楽しそうに笑っていた。本当に心の底から、休暇を楽しむ自由人のような笑顔が眩しかった。
それが伝説の始まりだった……と言うほど、ユリアが何かを変えたわけではない。
噂話には尾ひれがつきものだし、偉人の業績なんてものの半分ぐらいは周囲の人間の功績だ。全員の名前を覚えるのが面倒くさいという身も蓋も無い理由で1人に集約されるのだが、それがユリアだったのは必然だったのかもしれない。
彼女ひとりで成し遂げたことはさほど多くないが、ユリアはいつだって変化の中心にいた。それだけは間違いなく言えるだろう。
ヴィスコンティ銀行
・モデルはジェノヴァのサン・ジョルジョ銀行とフッガー家です。