11. 西方からの便り
「ユリア様、お話があるのですが」
ミーナの方からユリアに話かけてくることは珍しい。ユリアが振り返ると、ミーナは浴場の端っこの方へと移動した。何か人に聞かれたくない話でもあるのだろうか。
ユリアも後についていくと、ミーナが石鹸を持って座るように勧めてくる。促されるがままにユリアが座ると、ミーナはユリアの体を洗い始めた。
「えっと……ミーナってさ、そういう趣味なの?」
「ユリア様はバカなのですか? 知ってましたけど」
「うわ、ひどい」
ユリアなりに緊張をほぐそうとしたのだが、逆効果だったらしい。ミーナはハァ、と大きな溜息を吐くとユリアの耳に口を寄せた。
「さっき兵士たちの話を小耳に挟んだのですが、リグリア共和国でクーデターがあったそうです」
「わーお、怖い世の中になったもんだねぇ……………え?」
**
―――リグリア共和国でクーデター。
ミーナからその話を聞いた時、ユリアの反応は鈍いものだった。
頭をフル回転させながら原作知識の記憶を辿り、「そういえば、そんなルートもあったような……」といった程度のことを思い出す。
ユリアこと転生前の由梨亜がプレイしていた乙女ゲームの世界では、主人公ルートを進めてユリアを断罪し、さらに他のキャラクターとの好感度を一定以上に維持するとノーマルENDからトゥルーENDと呼ばれるシナリオへ移行する。
そのルートではメインヒーローのジュリオ・ドーリアが民衆を腐敗と金権政治から救うため、レオポルド・ファルネーゼやアルフォンソ・スフォルツァ、ルチオ・オルシーニといった他の攻略キャラと共に立ち上がり、クーデターを成功させて財閥支配から共和国を解放するのだ。
「……って、倒されるのウチの財閥じゃない!」
思わず叫んでしまった。
ミーナが目を点にしてこちらを見つめている。そればかりか浴場全体に反響してしまったらしく、その場にいた全員の視線がユリアに集中した。
「え、なになに?」
「なんかね、ユリアんとこの実家が潰れたらしいよ」
「リグリアで大粛清だって。こわー」
微妙に話に尾ひれがついているような気がしないでもないが、改めてハーレムで秘密を保つのは難しいと痛感するユリア。
「いや、まだ実家が潰れたと確定したわけじゃ……」
身内の贔屓目を差し引いても、父テオバルドはやり手の政治家で銀行家だ。カネの威力もその使い方も良く知っている。最低限の被害で損切りして、クーデター政府に対して自分を売り込むぐらいの胆力と変わり身の早さがあるはず。
「まぁ今後どうなるかは分からないけど、流石にリグリア最大の金融財閥ともなれば大きすぎて潰せないはずだし、ここは冷静に様子を――――」
「ヴィスコンティ家の当主テオバルド様は逃走、神聖クライス帝国へ亡命したそうです。一族も軒並み政治犯として指名手配が」
「……ミーナってさ、よくデリカシー無いって言われない?」
ジト目で抗議すると、ミーナは何かを考えるように宙を見あげる。続く言葉を、彼女なりにオブラートに包もうと言葉を選んでいるのだろう。
「テオバルド様は追い詰められたものの、かくかくしかじかで危機一髪&世紀の大脱出。めでたしめでたし」
「いや、めでたくねぇよ」
思わず素でツッコんでしまったが、事態はかなり危うい。少なくともこれで、実家のツテを頼ってハーレムから脱出することは出来なくなってしまった。
(まぁ、家族が無事だっただけでも不幸中の幸いなんだけどさ)
政治家としては老害そのものの父テオバルドも仕事熱心で一族の長としては頼れる人物だし、兄で嫡男のレオポルドは軽薄な性格だが頭は悪く無い。母ベアトリスも浮気性という悪癖を、コネと情報へと還元できるだけの強かさを持っている。
ちなみに有能だが冷たく人望の無い父が辛くも脱出できた理由も、クーデター派と繋がりのあった母親の不倫相手や兄の愛人たちが身を案じて情報を持ってきたからというのだから、世の中どう転がるか分からない。
「あれ? でも神聖クライス帝国に逃げたってことは、お爺様の実家を頼るはず……」
似たような展開はゲームでもあった。
悪役令嬢として糾弾されたユリアとクーデターで失脚した彼女の家族は、リグリア共和国から脱出して神聖クライス帝国に亡命する。
ユリアの母ベアトリスが皇帝の縁戚であったことから、帝国はクーデターで成立した新政府を非合法であるとして宣戦布告するのだ。
「よし、帝国に行こう」
「行けるわけないでしょ」
容赦なくレイラからツッコミが入る。いつの間にか、彼女も傍まで来ていたらしい。
「やっぱ無理?」
「ええ、絶対に」
なにせハーレムというのは入ったら最後、適齢期を過ぎるまでは出られない。ユリアの歳なら、少なくともあと10年は宮殿の中で過ごす羽目になる。もっとも権力闘争に巻き込まれて、麻袋と共に冷たい海に投げ込まれる展開であれば話は別なのであろうが。
レイラの知る限り、ハーレムで生き残る道は2つだ。
1つ目は自分磨きに精を出して熾烈な競争を勝ち抜き、スルタンに見初められて憧れの皇后へを夢見るイバラの道。コストもリスクもかかるが、リターンもそれだけとんでもなく大きい。
また、皇后になれずともスルタンにある程度気に入られれば、有力な家臣や貴族に褒美として与えられることもしばしばあったという。
2つ目は早々に諦めて、大人しく下っ端奴隷として日々の仕事を淡々とこなし、適齢期を過ぎて放り出されるのを待つ無難な道。ユリアの元いた世界で例えればリストラされるのを待つ窓際社員のようなものだが、割り切ればそれほど辛くはない。
30歳を超えてハーレムから追い出された後は、実家に帰るか首都の売春宿で働く者が多い。
ちなみに牢獄の脱獄よろしく塀を超えて逃げ出そうとする女奴隷も数年おきに出てくるが、レイラの知る限り成功した者は1人もいない。ハーレムというのは王宮の一部であり、それは帝国で最も警備厳重な施設であることを意味する。
だが、そんなハーレムの常識をユリアは一笑に付した。
「そこはまぁ、私が最初の1人になるってことで」
「あのね……」
もはや呆れてものも言えない。「勝手にすれば」と見放すことは簡単だが、ここしばらくの付き合いでレイラにも友情の欠片のようなものが芽生えていた。この風変りな新人には、くだらない理由で潰されてほしくない。
「一応、言っておくけど、逃亡者は死刑だから」
「だよねぇ」
「そもそも、脱出してどうするのよ?」
今の話の流れだと、ユリアは祖国を追われた身で、家族も失脚している。むしろ遠く離れた異国のハーレムにいた方が安全とすら思える状況だ。
「海路はリグリア共和国がほとんど握ってるし、陸路だって神聖クライス帝国につくまでタンジマート帝国領内を1か月は歩いてかなきゃいけない。どう考えても捕まるって」
「そりゃあ、そうだけど。普通に復讐とかしたいじゃん」
さらっと物騒なこと言い出した。
「やられっぱなし、ってのも気に食わないし」
「あんたねぇ……」
なかなか好戦的なお嬢様である。あっけらかんとしているように見えて、割と根に持つタイプなのかもしれない。
(まぁ、ユリアのそういう人間臭いとこも嫌いじゃないけれど)
ようやく、レイラは会った時からユリアに好感を抱いていた理由が分かり始めていた。ハーレムの中にいながら、ユリアは恐らく外の自由な世界にいた頃と変わらないように振る舞っている。
だからユリアと話ている間だけは、不思議とハーレムの不自由さを忘れていられるのだ。
「自由都市インソムニア」
唐突に、ユリアの口から聞いたこともない単語が飛び出す。「何それ?」と返したレイラに、ユリアは淡々と返した。
「神聖クライス帝国の北西にある街で、海に面した帝国自由都市。割と新しい街だけど、新大陸との毛皮・砂糖・奴隷貿易で栄えてるんだって。北海に面してはいるけど、海風がずっと吹いてて暖かいみたい。街の名物はその海風を利用した風車」
遠くを見つめながら語るユリアの目には、その光景が浮かんでいるのだろうか。
思えば、彼女は時おり――どこか遠くを見ていた。ここではない、遠くのどこかを。
「そういえば新大陸で、巨大な金鉱山が見つかったって噂は聞いてる?」
「噂ならね。一攫千金を夢見て、移民が殺到してるって話も」
レイラが答えると、ユリアはいつもの悪戯を企んでいるような顔でニヤリと笑う。また何かロクでも無い事を考えているのだろうことは、長い付き合いのレイラにはすぐ分かった。
「銀行家を止めて、金鉱脈でも堀りに行こうって親父さんに言うのか?」
「本当の金鉱脈はね、土の中でも山の中でも無いよ。金目当てで集まる大勢の人々……それこそが本当の金鉱脈」
やっぱりだ、とレイラは思った。
なんかそれっぽい事を言ってるが、要するに意訳すれば「良い金づるから搾れるだけ搾ってやろう」でしかない。もっとも、全ての商売において本質はその程度なのかもしれないが。
なんとなく、次にユリアが考えている商売には想像がついた。
ゴールドラッシュ目当てで集まってくるドリーマーたちに、宿屋なり酒なり女なりを提供したり、周辺の不動産を買い漁って高値で売りつけたり、その他もろもろの保険だの投資信託だのといった金融商品を貴族に売りつける……そんなところだろう。
「帝国の次は新大陸で商売か、いいね」
「でしょ? そんときゃレイラも推薦しとくよ」
ユリアは楽しそうに答えた。
頭のいい彼女が、レイラが言外に込めた「もし数%にも満たない確率で、ハーレムから平和裏に出られれば」という皮肉に気づかなかったはずがない。
しかし、敢えてそれを無視して楽しそうに将来の夢(野望、といった方が近いかもしれない)を語る彼女と話していると、女奴隷であるという立場を忘れそうになる。
所詮はスルタンの奴隷で、宦官の囚人に過ぎず、狭い鳥籠の中の人間関係が人生のすべてだという事実から、ほんの少しだけ自由になれるのだ。
しかし、現実的な性格のレイラはすぐに思考を目の前に戻した。自分たちがいるべき場所、豪華な宮殿という塀に囲まれた牢獄の世界へと。
「ユリアの話は聞いてて楽しいけど、そんなの夢のまた夢よ。早く捨てなって」
「私は本気だよ。レイラなら外の世界でも絶対にやっていける。こんな場所でも私より先に商売してたし、色々と助けてもらってるし」
ユリアにしては珍しく、茶化したような様子も無く、真面目な声だった。心の底から本気でそう言っているのだと、レイラにも感じ取れるほどに。
だが、レイラは首を横に振った。
「私は、新人やってた時の先輩から仕事を継いだだけだよ。自分で始めたわけじゃない。ここなら唯一の『運び屋さん』だから多少は存在感があるかもしれないけど、外じゃ同業者で溢れてる。市井の情報なんて知らないし、ハーレムとは時間の過ぎるスピードが違う。すぐ負けるさ」
ユリアの言葉が嬉しくなかったわけではない。それでも、付き合える夢には限度がある。ユリアは良い奴で大事な友人だが、だからこそ時にはやり過ぎに釘を刺すのも自分の役目だと思うのだ。
「そろそろこの話題は止めましょう。いつ誰が聞き耳を立ててるか分からないし」
そう言うとユリアは肩をすくめ、ゆっくりと立ち上がった。
「そうね。まぁ、また気が変わったらいつでも声かけてよ」
ユリアが去っていくと、ちょうど夕食時間を告げる銅鑼が鳴った。
ちなみにハーレムで皇帝の「お手付き」にならなかった女性は、適当な相手とお見合いで追い出されるか、手切れ金を渡されて実家に帰るなりしたそうですが、その後どうなったかは割と謎。