10. 浴場にて
変わった女だ、というのは男の口説き文句の一つだが、ハーレムの中でユリアを知る者なら皆が彼女をそう評価しただろう――。
ふとそんな事を想いながら、レイラはその日も別の仲間から受け取った“依頼品”を確認していた。毎日の夕食前、キレイにくるまれた洗濯済みの服を受け取る。その時に左目で2回ウィンクがあれば、依頼品が届いたことを知らせるサインだ。
「今日は……って、今日も針と糸かよ」
あの後、ユリアは特に問題を起こすでもなく、相変わらずレイラのお得意様の一人になっている。むしろヘビーユーザーの部類で次々に注文してくるのだが、最近で多いのは刺繍道具や布地といった手芸関連の物ばかりだった。
(最初にいきなり物騒な薬品とか頼んでくるから警戒してたけど、手芸全般も趣味ってマジだったんだな……)
刺繍なんかはユリアのサバサバした性格に似合わないお嬢様的な趣味ともとれるが、裁縫あたりは平民女性の実益を兼ねていてユリアらしい。とはいえ、それはそれで本当にお嬢様なのかと疑いたくもなる。
実際、一度だけ見たユリア製作のドレスは迷彩柄のオバケのような出来で、とても人前に出せるような出来ではなかった。いわゆる下手の横好きというやつだ。
もっとも日によっては、怪しげな薬品や鉱物を頼んでくることもある。
ユリア本人は「染料を作るため」と弁明しているが、レイラも含めて誰も信用していない。時折、ユリアの部屋から聞こえてくる小さな爆発音は、錬金術で「賢者の石」を作るのに失敗した時の音だとレイラは信じていた。
(まぁ、ユリアが錬金術師か魔女だとしても、どうせへっぽこだろうしな)
神様も許してくれるだろう、と内心で小馬鹿にしているとチリンチリンとベルを鳴らす小気味よい音がレイラの耳に入ってくる。入浴時間を告げるベルの音だ。
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ハーレムにはハンマームと呼ばれる浴場が30もあり、女奴隷たちにとって数少ない気晴らしの1つだ。
帝国の国教たるサイード教では身体を清めることは重要な儀式であり、リグリア出身のユリアにとって300人以上の女性が一斉に裸で入浴する光景は圧巻であった。人数もさながら、その全員が輝くばかりの白い肌に見事なスタイルを誇っていたのだから。
しかもハーレムにある大理石の浴場は、ただ日頃の汚れを洗い落とすだけの場所ではない。肌も露わな女たちが、浴場で思い思いにくつろぐ浴場は社交の場でもある。
床に寝転んで侍女にマッサージをさせる者、友人との会話に花を咲かせる者、色気より食い気でひたすら砂糖菓子や果物を食べる者もいるかと思えば、女同士で友情以上の関係性に発展したスキンシップをとる者たちまでいた。
広々とした浴場の壁や床にはカラフルな装飾が施され、真鍮の蛇口からは熱いお湯が注がれていく。女たちは軽石で皮膚をこすり、卵黄で髪を洗い、手足の爪に紅を塗り、肌には香油を擦り込む。体毛の処理も浴場で行われ、腋や手足はもちろん陰毛まで丁寧に取り除いていく。
こうして何時間もかけて入浴した後、女奴隷たちはぬるま湯を噴き上げる噴水のある中央浴場へと移り、横たわって休んだりコーヒーやシャーベットを飲食するなどして緩やかな時間を過ごすのだ。
ちなみに風呂上りには浴室を出てソファに身を投げ出し、黒人女奴隷たちが温かい布で全身を拭いてくれる中、濡れた髪にも香水を振りかけて顔と体に化粧水を振りかけつつ、乾くのを待つのが定番の過ごし方である。
その後は自室へと戻って羽毛入りの布団をかけ、ゆっくりと眠りにつくのが一般的な流れだった。
もっとも、全員がそこまで豪華な入浴時間を過ごせるというわけではない。
女奴隷たちには階級があり、食事や入浴時間もすべて階級ごとに分けられている。レイラは最近までずっと中の下ランクだったが、伸び悩んで去年の誕生日を機に下の上へと降格された。奇遇なことにユリアやザラ、ミーナも同じランクである。
更衣室に入ると、既にミーナが服を脱いでいた。白く柔らかそうな肌がのぞく。さすがに10代の少女と比べればハリには欠けるが、もっちりとして触ったら実に気持ちよさそうな印象を与える。吸い付きたくなるような柔肌、とはこういうものを言うのだろう。
(あと5年ぐらいはイケるか)
そういう態度がハーレムの査定に響いているのであるが、もともとレイラは出世にあまり興味が無い。
むしろ寵愛を巡る血みどろの争いに巻き込まれるより、小市民としてケチな商売でチマチマと儲けるほうが性に合っている。
無意識にミーナを見ていたせいか、怪訝な顔をされた。
「レイラ……あなた私のこと見て、なにか失礼なこと考えてませんでした?」
「いや、ミーナってハーレム辞めたらどうやって生きてくんだろうなーと」
「余計なお世話です」
しばらくすると、ユリアとザラも遅れて更衣室へ入ってくるのが見えた。レイラが近づいてくるのを見つけたザラが離れたタイミングで、ユリアに声をかける。
「ユリア、いつもの」
レイラが着替えの服を入れた籠を置くと、ユリアは脱いだ服を整えるフリをしながら慣れた手つきでタオルを取り換える。その中に、依頼品のブツが入っているという段取りだ。
ユリアがさっと確認し、小さく親指で顎をこする。“支払いは後でまとめて”という意味のジェスチャーを受けて、レイラも軽く頷く。原則としてレイラは即日決済が基本だが、お得意様にはこういった特典も付けている。
特にユリアは最初の依頼を終えたその日から、レイラの常連客となっていた。金銭感覚のズレた元お嬢様はいいカモだというのがレイラの持論だが、ユリアもそれに漏れずヘビーユーザーだった。
(まぁ、普通のお嬢様はもっとこう、宝石とか本とか高価なものを頼んでくるんだけど)
ユリアの依頼は裁縫道具に生地に鉱物と量は多いが、単価はそれほど高いものではないし、入手も容易なものばかりだ。利益率は高くないものの、安定した受注があるというのはレイラにとっても悪い話ではない。
(それに、思わぬ儲けものもあったし)
ちらりと後ろを振り返ると、警備の宦官兵士にしなだれかかったザラが、相手のポケットにさっと小さな香油ビンを忍び込ませていた。俗にいう買収である。
ハーレムでは通貨の流通が原則的には認められていないが、それでも支給品だけでは満足できないのが人間の性というもの。上位ランクのアレクサンドラともなれば女王のような生活が出来るが、下っ端の女奴隷は出世を夢見て乏しい支給品でやりくりするしかない。
とはいえ、中には出世に興味がない者もおり、香油などの化粧品で自分を磨く代わりにそれを嗜好品などと交換することで儲けようというのである。レイラはこうした経済活動を組織化し、警備兵を買収することでそれなりに充実した生活を送っていた。
そんなレイラが注目したのが、香油の入った小瓶である。種類が豊富で日持ちし、かさばらない。高価なガラス製のものは耐久性に難があるが、下っ端の女奴隷が使うような陶磁器製の小瓶ならその心配もなかった。
ザラが帰ってくると、レイラは彼女にも協力の報酬として小瓶を2つ手渡した。
「それにしても、アンタけっこう手慣れてるのね。最初はどうなるかと思ったけど」
「まぁ、昔取った何とやらって奴?」
「ナニをとっていたんでしょうねぇ……」
レイラが茶化すも、ザラは動じた様子もなく一気に服を脱いだ。健康的な小麦色の肌、身長の割にそこそこある、豊かな二つの丘が激しく自己主張する。
(意外とある……)
なんだかんだで男はデカいものに弱い。かといってお腹にはそれほど脂肪がつくわけでもなく、お尻にはそれなりに肉がついたおかげで、実に見事なくびれと化している。つるんとした肌にはハリがあり、健康的なムッチリという奴である。
(それに引き換え、こっちは――)
ユリアに顔を向けると、念入りに胸をマッサージしている最中だった。本人曰く「血行が良くなれば育つ」との話だが、成果が出るには100年かかるだろう。
香油瓶を貨幣代わりに使うのは、刑務所のタバコ通貨みたいなものだと思っていただければ。