01. 女奴隷ユリア
東西交易の中心地に位置する世界屈指の大国、タンジマート帝国には極めて大規模な後宮が存在した。
「この世の富の3分の2が集まる所」とも「この街を制する者は世界を制する」とも称された、帝都アルラシードには、世界中から多種多様な美女が集められ、その数は最盛期には1000を越えたともされている。
彼女たちは例外なく皇帝ただ一人に奉仕する奴隷であり、七つの丘を囲む帝都アルラシードその「第1の丘」にそびえる壮麗な宮殿の奥、男子禁制の場にて秘匿されていた。
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この世界屈指の規模を誇る女の園に奴隷として住み込むようになってから、ザラはもう1年になる。最初こそ世間離れしたハーレムの生活に戸惑うことも多かったが、今ではもう慣れてしまった。既に雑用係は卒業し、最近では料理の煮炊きを担当する事が多い。
鍋が煮立つのを待つ間、たまに杓子で中身をかき混ぜる他は手持ち無沙汰となる。自慢の銀髪をいじるのにも飽きてきたザラは、隣にいたアッシュブロンドの女性に話かける。
「そういえばミーナ先輩、午後に入ってくる新人ってどんな感じなんですかねー?」
ミーナと呼ばれた隣の女は「そうですね……」と手を頬に当てて考え始める。
くすんだ金髪が特徴的なミーナは、今年で17歳になるザラの2つ年上だ。真面目であまり感情を表に出す性格ではないが、しっかり者でザラにとっては頼れる姉のような存在だった。
「まだ確定情報ではないのですが」
ミーナは手に持っていた最後の薪をかまどにくべると、ゆっくりと立ち上がった。
「噂によれば外国貴族の娘だとか」
「外国……」
ザラの茶色の瞳が僅かに見開かれた。ハーレムの女たちが辿ってきた経緯は大体が大抵が奴隷市場で買われてきたか、あるいは有力者が政治の道具として献上した娘、そして海賊にさらわれてきた外国人女という場合がほとんどだ。
「なんでもリグリア共和国で有数の公爵令嬢で、統領の御曹司と婚約までしてそうです」
「へ、へぇー……」
詳しいことは分からない、などと前置きしておきながらミーナが情報通なのはいつもの事だ。ほとんど仏頂面寄りのポーカーフェイスのくせに、意外と噂好きなのか色恋沙汰から外国の情報まで一通り仕入れてくる。最近では日頃から興味無さげな無表情を維持しているのも、情報入手のためではないかとザラは勝手に疑っていた。
「しかし残念なことに元首の御曹司が恋したのは公爵令嬢ではなく、彼女の侍女の方だったのです。身分違いだからと身を引こうとする彼女を説得し、ついに二人は両想いに」
「うわぁ………御曹司くん最低」
婚約者がいるくせに、他の女に色目使うなよ。
ありきたりなラブストーリーに細かい文句をつけるのもどうかという気もするが、それでもザラは物事には順序があると思っている。公爵令嬢の方だってメンツがあるだろうに。御曹司君はせめて婚約を先に破棄しろ。
「当然、公爵令嬢の方は嫉妬に狂って、かなり酷いイジメを侍女にするようになったと聞きます」
「ですよねー」
淡々とミーナの口から紡がれる異国のラブストーリーに、つい突っ込まずにはいられない。詳しくは知らないが、きっと公爵令嬢の方は御曹司のことが好きだったのだろう。
あるいは憎むようになったとしても、相手が元首の御曹司ともなればそう簡単に婚約を破棄することはできない。大貴族同士の婚約といえば基本、政略結婚である。公爵令嬢がどうあれ、実家がそれを望まなければ彼女にはどうする事もできない。
だから彼にあたることは出来ないが、かといって放置すれば逆寝取られ女として社交界の笑いものになる。怒りの矛先が侍女に向かうのは自然な流れだった。
(まぁ、それでも一番かわいそうなのが侍女なのは変わらないんだけど)
そもそも身分違いの恋という時点で、侍女に拒否権は無いのが普通である。大貴族、それもドージェの御曹司に迫られて拒否などしようものなら、後でどんな目に合うか分からない。
しかし本来であれば守ってくれるはずの主人、つまり公爵令嬢も事情が事情なだけに打ち明けるわけにはいかないだろう。不運な侍女が生き残るためには、本心がどうあれ御曹司の恋人となって彼の庇護下に入るしかない。
「とにかく最終的に悪事がバレて糾弾されて爵位は剥奪、公爵令嬢はハーレムの女奴隷にまで落ちぶれ、残った御曹司と侍女はめでたく結婚を前提に付き合う事になりましたとさ。めでたしめでたし」
「めでたくねぇ……」
そんな会話をしている内に、ぐつぐつと鍋が煮立ち始めた。ミーナは「いけない、いけない」と玉杓子を片手に、すっくと立ち上がる。ザラも一緒に、煮崩れしないよう玉杓子で鍋を掻きまわす。
だが、鍋をかき混ぜる間にも、ザラはミーナの話に少し引っかかるものを感じていた。
「……爵位が剥奪されるまではいいとして、どうしてハーレムなんかに?」
有力者の寵愛を巡る女の争いはどこの国にもあるが、普通は糾弾されたとしてもせいぜい実家で謹慎処分か修道院送り程度の処罰で済まされるものだ。
あまりに厳しい処分は本人だけでなく一族の名誉に関わるため、親が公爵ともなれば何らかの恩赦が与えられる事が多い。
ましてや外国――それも異教徒の統べる帝国のハーレムに女奴隷として売られるなど前代未聞だ。
「そこまでは私も分かりませんが……まぁ、あまり詮索はしない方が良いかと」
ハーレムにいる女奴隷で所謂“訳アリ”な人間の数は少なくない。1000人もいればバックボーンは多様にもなるだろうが、スルタンに献上するほどの美貌を持ちながら奴隷の身分にまで落とされた女、ともなれば相当にレアケースだ。
必要以上に他人の過去を詮索しないというのが、ハーレムでは暗黙の了解となっている。ここでは誰もが、いずれは皇帝の寵を競うライバルとなるかもしれない。自分の過去を打ち明けるのは、本当に親しい友人だけだ。
「ザラ、そろそろ出来上がるから食器の準備をお願いします」
「はーい」
午後からはもう一人分の食器と食材が増えるな、などと考えながらザラは調理部屋を出た。外はよく晴れていて、気持ちのいい日光が差しこんでいる。まさに絶好のなんたら日和というやつだ。
―――それが、ユリアと出会った最初の日の昼だった。
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一人の女が、兵士に連れられて暗い通路を歩いている。
女の顔は不安と恐怖に怯えて真っ青でありながら、それでも持って生まれた気品と美貌を消し去れはしない。
泥と埃に汚されてなお、豊かに波打つ黄金色の髪は輝きを損なっておらず。象牙のように白く透き通った肌、アメジストのように鮮やかな紫の瞳。筋が通った高い鼻に、キリっとした印象を与える高い頬骨。
長身で引き締まった細身、くびれのある腰にすらりとした美脚。そんな世の女性が羨むような美貌を持つ彼女は、本来であれば日の当たる場所で輝くべき美が備わっていた。
にもかかわらず、彼女―――ユリア・ヴィスコンティがいるのは薄暗く汚れた地下通路であった。
暗く長い回廊を抜け、ユリアが連れてこられた場所は牢屋のような部屋だった。窓の無い武骨な石造りの部屋に、一つだけ頑丈な扉がある。扉の両脇には半月刀を持った衛兵がおり、部屋の脇にある小さな蝋燭の火だけが唯一の灯りであった。
ここは後宮のどの辺なのだろうか。宮殿まで馬車で揺られ、門をくぐってからは目隠しをされた状態でここまで連れてこられた。場所の感覚も、時間の感覚も麻痺している。
ちらり、と衛兵を見る。二人とも筋骨隆々で、その気になれば半月刀が無くとも、腕の握力だけで自分の首をへし折れるだろう。
部屋には自分と、二人の衛兵の3人しかいない。これがリグリア共和国の傭兵であれば貞操の危機を感じないでもなかったが、タンジマート帝国のハーレムを守る衛兵は全て去勢された奴隷の兵士だと本で読んだことがある。
(最悪の展開だ……)
まるで糾弾された悪役令嬢の如く、ユリアは部屋の隅で崩れ落ちた。
――――いや実際、1ヵ月前に糾弾されたばかりなのだが。
ユリアは此処より遥か西にある、海運国家・リグリア共和国のヴィスコンティ公爵家の長女として生まれた。父親は母国で財務卿をつとめるほどの由緒正しい家柄で、同じく名門貴族ドーリア家の御曹司との婚約まで決まっている。
その、はずだった。
だが、この場にいるのはそんな華麗な肩書を持つご令嬢では無い。母国で同級生を騙して虐め、糾弾されて落ちぶれた一人の女奴隷ユリアである。
そしてこの場にいる女奴隷ユリアは、正確にはユリア・ヴィスコンティでは無かった。別の人間の人格が混ざっている。
――より正確には“乙女ゲームをプレイしながら、ユリア・ヴィスコンティが糾弾される様を眺めてたはずの人間”の人格が。
(いやいやいや! なんで落ちぶれる方に人格混ざっちゃうかな!? しかも外国でハーレム要員の女奴隷にまで落ちぶれるとか流石に酷くない!?)
中央の社交界で抹殺されたとはいえ、腐っても実家は公爵家である。家で勉強しながらリベンジを狙うなり、地方の領地で経営に勤しむなり、いっそ引きこもってニートになるのも悪くない……などと楽観視していた矢先に神様からこの仕打ちである。
要約すると「落ちぶれたので実家に向けて船で移動中、海賊に襲われて奴隷としてハーレムに売られた」という波乱万丈の末路である。
(にしても海賊は流石に予想外過ぎるでしょ……どうなってんのかなー、ウチの海軍は。奴隷貿易で儲けてる国なのに海上航路の安全も確保できないなんて)
ぶつぶつと内心で一人ごちるユリアこと由梨亜。それが転生前の名前である。
(………まぁ海軍の予算削ったの、財務卿やってた父上なんだけど)
財政健全化という仕事をマジメにやり過ぎた結果が、娘が海賊に襲われて人身売買に遭うという、何たる運命の皮肉。
ついでに言うとこっちの世界のご先祖様、奴隷貿易でひと山当てて爵位を買ったのが起源だから、一応その子孫の私が奴隷にされるという展開も因果応報というか。
そんな感じにユリアがうだうだと己の不運を嘆いていると、かんぬきの外される大きな音と共に扉が開いた。
部屋に入ってきたのは、豊かな口髭を蓄えた恰幅の良い黒人だった。金モールやらキラキラと光る刺繍で飾り付けた絹の服を纏っており、一目で地位の高さと自己顕示欲の強さが分かる出で立ちだ。
ハレムに入ることを許されている成人男性は唯一、スルタンその人のみであった。幼い王子たちも、長じて地方の太守に任命されるまではハレムで育つ。
ハーレムの監督は宦官たちが行い、その宦官たちを統括するのが「娘たちの長」と呼ばれる黒人宦官長だ。
「儂が宦官長のサルマンだ」
尊大な口調と見た目に反して、妙に甲高い声だった。宦官長というだけあって、彼もまた去勢された宦官なのだろう。ひょっとすると豊かな口髭は、威厳を出すための付け髭なのかもしれない。
「そこの女、早速だが服を脱いでもらおう」
「え」
「ハーレム物でガチなハーレム(後宮)を舞台にした話って、そういえばあんまりないな~」みたいな思い付きから始まった本作、少しでも楽しんでいただければ幸いです。