5・青い星の降る夜
4話と5話は連作です。このお話は4話の続きになります。
湯川一覇の一年はやっぱり365日ではない。倍の日数、つまり730日もある上、世界がふたつに分かれている。ひとつ目の12月24日が終わると、もうひとつの世界で12月24日を過ごす。ずっとそうして過ごしてきた。
とんとんぱたり、とんぱたり。
研究室のドアを誰かが叩く。軽快なリズムに、思わず頬が緩んでしまう。
「入ってよ、りんちゃん」
「開けられないの。ケーキ持ってるから」
一覇はパソコンを閉じ、立ち上がる。ドアを開けると、天音りん子が銀色の箱を持って立っていた。
「メリークリスマス、一覇くん」
ツーサイドアップの髪にベルの飾りをつけ、白いふわふわのワンピースを着たりん子はとても可愛かった。一覇が慌てて椅子を並べている間に、二人分のティーカップと皿を用意し、紅茶とケーキのセットも完成させてしまう。
「いつも来てもらってごめん。オレ出不精だから」
「ううん。私、一覇くんの研究室って好き」
りん子はフルーツケーキを食べながら、机の上の新聞をめくり始める。日付は12月24日。昨日と同じだ。でも、西暦が違う。昨日よりも二年先まで進んでいる。
二つの世界の時間がずれていることに、最近ようやく気付いた。
昨日の世界では、イチハは大学四年生だった。でも今日の世界では、大学院で神話の研究をしている。
「一覇くん、新聞あんまり読んでないでしょ」
「りんちゃんが読んでくれるからいいんだよ」
「もう、いつもそうなんだから。じゃあいいわ、興味なさそうな記事から読んであげる」
りん子はつんとした声で一面の見出しを読み始めた。
「藍沢ラオト、逮捕」
一覇の手からフォークが滑り落ちた。りん子は眉をしかめ、新聞に顔を近づける。
「なんか気持ち悪い記事ね」
「見せて。何かの間違いだよきっと」
「一覇くん、この人知ってるの?」
りん子が新聞を傾けて見せてくれた。載っている写真は間違えようもない。昨日、一覇と熱海へ旅行し、抹茶もなかサンドを買って大喜びしていた男だ。
「お笑い芸人なのね。相方を刺し殺して埋めたって書いてある。うわ、ひど……怖……」
一覇はそれ以上読まなかった。ケーキを食べ、紅茶で押し流すように飲み込んだ。
「りんちゃん、オレずっとここにいたいよ」
りん子はまばたきをし、声を上げて笑った。
「一覇くんって本当に研究が好きなのね」
「そうじゃない。あっちの世界にはもう戻りたくないんだ。ずっとここで、りんちゃんと一緒にいたい」
りん子の顔から笑みが消えた。紅茶よりも冷めきった目で一覇を見る。
「それはあなたの意志じゃないわ」
天から降ってきたような声だった。
一覇は目を見張った。りん子の体がふわりと宙に浮き、薄紫色の光が周りを取り巻いている。
「あなたは流されてるだけ。自分で決めるのが怖いだけ。あなたはいつもそうだわ」
光の中からカワウソが這い出し、りん子のそばに二本足で立つ。
魔法使いのようなローブを着た青年が、りん子の肩を抱いて寄り添う。
八本の手足を持つ蜘蛛のような男。赤と緑のドレスを着たお姫様。煤のように濃い闇をまとった少年。
全員が一覇を見ている。一覇はぱくぱくと口を動かした。
「あ……天探女」
「あなたは選ばなきゃいけないわ」
りん子は宙に浮いたまま、すっと前へ進み出た。一覇の目の前に足がある。答えなければ白い靴の先で蹴られそうだ。
「このまま二倍の時間を生きていたら、あなたはどんどんすり減ってしまう。砂になっちゃうのよ。虫けらになっちゃうのよ。いいえ、虫けら以下」
「わかったよ、決めるよ」
ローブ姿の男が、ふっと妖しく笑うのが見えた。一覇は生まれて初めて、対抗心のようなものを感じた。すぐに手放さなければならない気持ちだと知っていたが、この一瞬を逃したくなかった。
「お前、りんちゃんにくっつくのやめろよ」
「僕のことはお構いなく。精霊は精霊、イケメンでもチビでもビール腹でも等しく愛しく烈しく精霊だよ」
一覇は口ごもった。りん子が見つめている。心を貫くような視線は、確かに一覇だけを見ている。
これ以上逃げ続けることはできない。
「わかってる。うん、ずっとわかってたんだよ」
一覇は目を閉じた。自分を必要としているのは誰か。本当に大切なのは誰か。決められない。でも、決めなければならない。
「りんちゃん、ごめん。オレ、もうここには来ないよ」
目を開けると、もうりん子の姿はなかった。カワウソも、ローブの男もみんな消えてしまった。水滴がきらきらと漂い、明け方の星のようになくなっていくのが見えた。
紅茶の香りとケーキの甘さが、まだ喉に残っている。
後悔はしていなかった。
大学に残って研究をしたい、天探女について調べたいと、ラオトに会ったら言おう。わかってもらえなかったら、その次の日も言おう。
ラオトのいる世界を、自分は選んだのだから。