15・酸素は桃色
ユイナは突然、三歳になった。
二十歳の誕生日を迎えたはずなのに、朝目覚めたら三歳だったのだ。
今までの記憶と、成長した体はそのまま残った。
失ったのは、大人が持っている全てのもの。恋愛感情や就労意欲、相手の心を推し量る力、集団の中でうまく生きていく力。ひどい虫歯のように、心のあちこちが空洞になっていた。
「どうしよう」
それはもう、怖かった。
荷物を引っ掻き回しても、手帳を開いても、化粧をしても心は戻らない。明日からどうやって生きていけばいいのだろう。
「どうしよう。どうしたらいいの。心臓があと三つあったって無理」
人に話しても笑われるだけだ。疲れてるんだよ、ユイナはいつも頑張ってるから、たまには子供になりたいよね。そう言われて終わる。
「ほら、ユイナ。今日はゆっくりしよう」
彼がデートに誘ってきても、もう嬉しくなかった。指輪を買ってもらっても、少しもときめかなかった。唇に触れたいとも、抱かれたいとも思わない。見つめられると怖かった。会いたいと言われると不安になった。
「ごめんなさい。私……」
その後が続かなかった。今のユイナには、やりたいことが何もない。
三歳になる前は、心理テストや占いの本を書く人になりたかった。大学では児童心理学を専攻していた。レポートを書いたり研究発表をするのが楽しくて、暗くなるまで図書館にいた。
勉強したことは全て覚えている。学者名や理論の内容は今でもそらで言える。でも、楽しさは忘れてしまった。何のために頑張っていたのか忘れてしまった。
「助けて。誰か助けて」
窓辺に飾ったサルのぬいぐるみに祈る。偉大なる王様、どうか助けてください。三歳のままでは生きていけません。私を元に戻してください。ちゃんと生きていけるように、働いて恋愛をして、みんなと同じようにしてください。
サルのぬいぐるみが偉大なる王になったので、ユイナは毎日ミカンをそなえた。
「偉大なる王様、お願いします。どうかどうかお願いします」
次の瞬間、ユイナは暖かい部屋にいた。テーブルにはふわふわのケーキや動物の形のクッキーがあり、ミルクが湯気を立てている。ぬいぐるみに囲まれたクッションはわたあめのにおいがした。
ユイナは大きなゾウのぬいぐるみに飛びつき、クッションに寝転がった。好きなだけおやつを食べ、クレヨンで絵を描いて過ごした。青い波に丸い船を浮かべ、リボンのようなカモメをいくつも描いた。
部屋がだんだん桃色になってくると、眠る時間だ。桃色の酸素を吸うと、ユイナの時間は止まる。砂糖壺の中でうずくまったように、ユイナは眠る。明日も明後日も、同じ日が続きますように、と願う。
でもそれは夢だった。
ユイナは三歳のまま、電車に乗って大学へ行く。パソコンの前に座り、覚えた通りに電話をかけ、就職説明会へ行く。
「やるしかないのよ。三歳だけど、生きるしかないの」
偉大なる王には毎日祈り続けた。ミカンの季節が終わると、いちごや桜餅をそなえた。それでもユイナは三歳のままだった。他の人が三十歳になっても、子供ができても、課長に昇進しても、ユイナは三歳だった。
ユイナは三歳の記憶力で事務仕事をこなし、三歳の視力で書類のミスを見つけ、三歳の笑顔で接客をした。三歳なので人間関係の機微はわからない。誰と誰が敵対しているのか、どちらに付けば得になるのかわからない。マニュアル通りにメールのやりとりをし、言われたことには全て従った。褒められると嬉しくて、お菓子が配られるとさらに嬉しかった。
「偉大なる王様。あの部屋はどこにありますか」
サルのぬいぐるみは今も窓辺で供え物に埋もれている。何度もビニール袋に入れてゴミに出そうとした。そうすれば元に戻れるんじゃないかと思った。そのたびにあの部屋を思い出し、暖かさを思い出し、どうしても捨てられなかった。
「ねえ、私ずっと昔は十九歳だったのよ。やりたい仕事もあったし、結婚もしたかったわ。友達とお酒飲みに行ったり、海外旅行したり、車も運転してみたかった。だけどもう戻れない」
戻れないなら進むしかない。三歳のユイナは今日も電車に乗る。押しつぶされそうな心細さで、一番にオフィスにたどり着く。元気でいいね、子供みたいだね、と言われながら全員の机とパソコンを拭く。三歳の体力でフロアを駆け回り、手紙とファックスの仕分けをする。
いつかまた、あの部屋へたどり着くまで。桃色の酸素に包まれて眠る日まで、ユイナは進み続ける。