10・勇者と闇色の猫
魔王が猫に変身し、元に戻れなくなってしまった。奈良の大仏よりも大きな猫だ。スーツもマントも散り散りに破れ、夜空のような濃紺色の毛並みだけがわずかに魔王の面影を残している。
「どうしてこうなった」
勇者は途方に暮れ、でっぷりとした猫の顎を見上げる。
勇者の仕事は魔王と戦うこと。環境大臣から命じられたのだ。
「いや防衛大臣だったか。どっちでもいいけど」
魔王が猫になってしまっては、もう仕事が続けられない。どんな大金を積まれても無理だ。
「どうして……!」
勇者は猫の足にしがみついた。ふわふわの毛が頬をくすぐり、遥か高みでブニャアと鳴き声が響く。
「どうしてこんなに可愛いんだ!」
勇者は飛び上がって猫の頭を撫でようとしたが、届かない。何度も失敗しているうちに、猫が頭を下げて勇者の顔をぺろんと舐めた。顔はびしょ濡れになり、すりおろし器で撫でられたようにひりひりした。
「なんて幸せなんだ! 可愛い! 可愛すぎるぞ!」
猫は魔王の時のように端正な顔立ちはしておらず、潰れた鼻と半開きの黄色い目が特徴的だ。しかし誰が何と言おうと、勇者にとっては最高に可愛い。
「オレさあ、デブ猫を抱いて寝るのが夢だったんだ。猫はスレンダーよりもふもふだろ、これ鉄則な。名前何がいい?」
猫は魔王の時のように喋れないので、ブニャアと鳴くだけだった。
「よし、マオゴロウだな。かっこいいぞ」
この猫と暮らしたい。縁側で膝に乗せて撫でるのは無理な大きさだが、どうにかして飼いたい。
しかし勇者の家はもうない。魔王がマオゴロウになった瞬間、基盤から崩れて瓦礫の山になってしまったのだ。
「まだローンが三十年……いやそれはそれとして」
勇者はマオゴロウの柔らかな毛に顔を埋めた。マオゴロウが首を低くしたので、しがみついてよじ登った。背中に乗ると、ソファーのようにふかふかとしていて、町中が見渡せた。ポプラ並木も駅前のショッピングモールも、ぐんと体を伸ばせば飛び越えられそうだ。
「いくぞ、マオゴロウ!」
家の残骸を踏みつけ、猫が走り出す。勇者は風を受け、闇色の毛にしがみついた。魔王と戦うことなんて、そもそも自分には向いていなかった。自分の夢はデブ猫を抱いて寝ることだ。
高架の線路を越えて着地し、電柱を折り、車を跳ね飛ばし、猫と勇者が走る。家のことも生活のことも彼方へ飛ばして走る。今初めて、勇者は勇者になった。
「もっと遠くまで! ローンから逃げろ!」
「ブニャア!」
柔らかな影が夕日に映え、遠ざかっていった。傾いたビルや陥没した道路、猫の毛にまみれた人々の顔が、この町の伝説として残された。