「茜、襲来」
~~~深見鷹、280日前~~~
その日俺は、いつも通り朝6時に起床した。
身支度を整えてから朝食の用意をし、小雪を起こした。
布団の中でぐずぐずしてるのを立たせ顔を洗わせ口を濯がせ、台所まで連れて来て飯を食わせ、歯を磨かせ着替えさせてから仕事部屋に解き放った。
洗い物を済ませると、次は開店準備だ。
シャッターを開け店内に光を入れ、雪かきや掃除を済ませてからレジに着いた。
ノートPCを開き、メールチェックをしたところで最初の客が来た。
駅裏のゲン爺さんが犬の散歩がてらに顔を見せ、いつも通り徳川の埋蔵金話をしてから去って行った。
次はお隣の煎餅屋のメイコ婆ちゃんだ。シャッター通りとなりつつある商店街の栄枯盛衰を長々と聞かせつつ、俺と小雪の進展具合に探りを入れて来た。
そうこうするうちに雪が降って来た。
それほど強いものではないが、客足には確実に影響するだろう。
午後8時の閉店までに、来たとしてもあと2、3人ってところか……。
「ま、だからどうってこともないけどな」
雪のちらつく通りを眺めながら、俺はしみじみとつぶやいた。
小田古書店は、もともと店舗での販売を重視していない。
売り上げの大半はネット通販や目録販売によるもので、極論お客さんがゼロだって成り立つのだ。
「それはそれで寂しいけど、その分こっちに集中出来るってことでもあるし……」
不謹慎なことを考えながら、俺はノートPCに向かった。
今月分の即売会と出張販売はもう終わっているので、来月までは比較的暇だ。
この期間に一気に原稿を進めなければ……。
──おっはよー師匠!
「……ん、メッセージ? ああ、茜からか」
──おはよ、ってかもう昼だぞ……。おまえの生活リズムどうなってんだよ……。
──そんなのいいからさ! ねえ、ワンライやろうよワンライ!
──いやまったくよくはないと思うんだが……。
──いいからいいから! ほら、ガンガン行こうぜ! ハリーハリーハリー!
子供同士が遊びに誘うみたいな無邪気さを、俺はくすりと笑った。
──しかたねえなあ……。いいけど、もうすぐ昼飯の予定だから一本だけな? あと、根本的に営業中だから、急に落ちることもあるかもだからな?
──ああー、古本屋やってんだっけ? でもいいよ、全然いい。じゃあ11:50から、ルームは7802ね、OK?
──あいよ。ああでも、今日もちょっと調子悪いから、本気はなかなか出せないかもしんないけど……。
──まーたそれえー? 師匠はエンジン掛かるの遅すぎるのよーっ。
──しょうがないだろ、そういう性分なんだから。
そんなやり取りを、俺たちは2、3日に一度の割合で行っていた。
昼間はこうしてレジ内で、夜は自室で。
9割俺の負けだが、残り1割で俺が(というよりは星井雪緒が)勝ち、その後は感想戦に移る。
雑談に終始することもあるが、その多くは創作に関わることであり、俺にとっては大いにプラスになっていた。
もちろん、正体を隠している後ろめたさはあるのだが……。
──てことで始めるか。ええっと……今日のお題はっと……。
「タカちゃんタカちゃん! お腹すいたー!」
凄い勢いで後ろから小雪が声をかけて来たので、俺は慌ててノートPCを閉じた。
「ってうおわっ!? こここ小雪かっ!? 今日は随分と早いなっ!?」
「ううーん、寒いから消耗が早いのかなあーっ? もうグウグウなのですよーっ」
小雪は死にそうな顔でお腹を押さえると、廊下にへたり込んだ。
「そ、そうか。わかった、すぐに作るから待ってろな?……」
「ふぁぁぁーい。……ところでさあー、タカちゃん?」
「なんだ?」
「今タカちゃん、ノートで何してたの? なんだかすごく楽しそうだったけどぉー……」
突如発せられた鋭い質問に、俺はギクリとした。
「えー……と別に、ただネットサーフィンしてただけだけど……」
「ふうーん? 電脳の波を乗りこなしてたわけかあー……。タカちゃんはサーファーなんだねえー……」
ぶつぶつと、どこか不審げそうにつぶやく小雪。
「そうだよねぇー……まさかタカちゃんに限ってそんなこと……」
「ど、どうした小雪? 今何か言って……」
ドキドキしながら訊ねたが、小雪は何事もなかったかのようににぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「んーん。別になんでもないよぉー?」
「おお、そうか……ならまあ、いいんだ」
俺と小雪が数年かけて築いてきた日常は、その日の午後、屋根の上の氷のように一気に崩れた。
晴れ間を縫って、茜がやって来たのだ。