「出会いは最悪で」
~~~深見鷹、300日前~~~
「『ガードレールと同じ丈まで積もった雪の硬さに、正吾は驚いた。年の瀬中降り続けたものが冷えて固まり氷のようになっているのだが、それはまるで……まるで……まるで……』」
雪かき用のスコップを繰る手を止めると、俺はため息をついた。
『小説新時代』の公募締め切りまであとひと月も無いのに、未だに書き出し2行目でつまずいているようではお話にならない。
「こりゃあ間に合いそうにないなあ……。というか去年も同じようなことを言ってたような……?」
空からひらひら舞い落ちてくる粉雪を眺めながらズシンとへこんでいると……。
「タカちゃん! タカちゃーん!」
哀れっぽい女の子の声が聞こえてきた。
「助けてー! 早くー!」
声がするのは小田古書店のカウンターの奥の、住居部分からだ。
「編集さんから電話! 電話が来ちゃったー!」
「……へーいへいっと」
スコップを軒先の雪の塊に突き刺すと、俺は店内に入った。
カウンター脇のコート掛けにニットキャップとアノラックをかけ、手袋と長靴をストーブの傍に揃えて置いた。
「助けてタカちゃん! もう20コール目だよ! これ以上はさすがにやばいよ!」
「自分で出ればいいだろー?」
「もうー、そんな意地悪言わないでよー! 出られるなら苦労はしないんだよー!」
「まったく……」
ぶつぶつ言いながら居間に入ると、電話機の前でウロウロしていたウサギ柄のパジャマ姿の女の子──小雪がぱっと表情を明るくした。
「あっ……やっと来てくれたっ!」
小田小雪18歳、垂れ目がちの大きな瞳と、カラスの濡れ羽のように艶やかな長髪が特徴の美少女である。
また肉付きが非常に良く、胸と尻に関しては数値に換算するのがためらわれるほどのエモーショナルな迫力がある。
背が高くて健康という以外に取り柄のない俺と、本来なら釣り合うような女の子ではない。
しかし俺たちは恋人関係であり、しかも同棲状態にあり、なおかつ……。
「はいタカちゃん! 電話出てあげて! 編集さん待ちくたびれてるよ!」
「……へーいへいっと」
電話は赤川文庫の編集者の田中さんからだった。
内容は、ペンネーム星井雪緒──小雪の著作の売れ行き動向と校正について。
そして毎年年末に行われる忘年会への出欠確認だった。
「どうだったどうだった? ねえどんな話だったの?」
受話器を置いた俺に、ねえねえと小雪がまとわりついてきた。
「売れ行きは絶がつくほど好調だってさ。また重版が決まったって」
「うおー! やったー!」
小雪は満面に笑みを浮かべると、子供みたいに躍り上がって喜んだ。
「朱入れ部分も問題なし、このまま進めますって」
「ひゅうー! ひゃっはー!」
「あとさすがに、今回だけは忘年会出てくださいって。おまえにひと目会いたいっていうお偉いさんがたくさんいるんだってよ」
「………………それはえっと、タカちゃんが出てくれるんだよね?」
いきなりトーンの落ちた小雪は、涙目になって俺にすがりついてきた。
「だってタカちゃん、わたしの代理だもんね?」
「あのね、作家代理人ってそういう仕事じゃないから。作家の代わりに出版社と交渉して印税やら各種権利の調整をするのであって、作家の表向きの顔になるわけじゃないから」
「だってだってー、わたしにそういうの向かないって、タカちゃんが一番知ってることじゃなーい。外出どころか店番ですら怪しいのにー、大都会東京の立派なパーティ会場でー、きらびやかな作家さんたちやお偉いさんたち相手に和やかに談笑なんて、絶対出来ないよー」
東北の片田舎で生まれ育ち本を読む書く以外の行為を本気で何もしてこなかった小雪は、極度のコミュ障になってしまった。
小学校からのつき合いである俺がいなければ、実家の古書店経営や作家業どころか、生活全般にまで支障をきたすレベルの。
「だがなあ……それ、一度やったらもうおしまいなやつだぞ? 編集さんらは知ってるからいいけどさ。今後、星井雪緒は俺ってことで世間には認知されちゃうんだからな?」
「それでいいよー。覆面作家さんなんて世間にはいくらでもいるんだからー」
小雪は甘えるように言うと、ぎゅうううっと俺の腕にしがみついてきた。
「ね、いいでしょ? ね、ね?」
「くっ……こ、この……っ?」
小雪の体温の高さと持ち前の乳圧にやられた俺は、甘やかしちゃダメだと思いながらもついついうなずいてしまった。
そして翌々日。
「じゃあねータカちゃんっ。向こうについたら電話してねーっ」
「おう、おまえはきちんと執筆……もそうだが、それよりまず飯を食えよ? おかずは三日分まで冷蔵庫に用意してあるから。タッパにはそれぞれ何が入ってるか書いてるからな。ご飯はレトルトのがいくらでもあるから、レンジでチンして食べるんだぞ? 面倒だから食べないとか、カップ麺で済まそうとかすんなよ?」
「んんー……? うん、わかったー」
「いやおまえ絶対わかってないだろ。わかってないよな? おい目ぇ逸らすな」
非常に不安なやり取りを交わした後、俺は高速バスで一路東京へと向かった。
出発は夜の10時、到着は翌7時という便だ。
忘年会の受付自体は午後5時からで、それまでは著名人の講演などが開かれる予定になっているのだが、そんなものは全部パスだ。
「この機会に一気に進めないと……」
座席に着くと、俺は荷物の中からノートPCを取り出した。
こいつでこっそり執筆活動を続け、公募に受かって作家になる。
対等の立場になってから打ち明け、堂々と小雪と結婚する。
それが当面の、俺の夢だ。
「……妻におんぶに抱っこじゃ、格好つかないもんな」
小さな見栄かもしれないけど、俺にとっては重要なことなのだ。
書き始めてから1時間ほどのところで、どやどやと追加の客が乗って来た。
俺の隣の席に座ったのは、年の頃なら16、7ぐらいの女の子だ。
染めた赤毛をツインテールに結って、化粧もバッチリきめている。
ロングコートの下はまさかのゴスロリ(背中に黒い羽根付き)。
ヤバい感じの奴だなと思って極力そちらの方を見ないようにしていたのだが……。
「なぁにあんた、小説なんか書いてんの?」
スマホもいじり尽くし、バス内で過ごすのに退屈してきたのだろうゴスロリが、俺の手元を覗き込んできやがった。
「しっかもなぁに? 超ヘタクソ、構成どころかてにをはすらも出来てないじゃない」
「なんだおまえ失礼な奴だな。初対面の人間に向かって」
「あぁら、ごめんなさぁい? あたしって正直な性質なの」
頬に手を当て、ふふんといやらしく笑ってくる。
おのれ、なんて嫌な奴だゴスロリ。
「ほっとけよ。おまえなんかにはわからないんだよ」
適当にあしらうことにして、体ごとそっぽを向いた。
「どうせ、ケータイ小説ぐらいしか読んだことないんだろ?」
するとそいつは、いかにも愉快そうな笑い声を上げた。
高い声が車内に響き渡り、眠っていたのだろう周囲の客がわずらわしげに身じろぎした。
「やめろよ。みんな寝てるだろ?」
「いやですー、やめませんー。なぜならあんたがあたしの気分を害したからー」
ゴスロリは嫌味ったらしく俺をにらみつけると、鞄から一冊の本を取り出した。
「なんだよ……それ?」
「あたしの書いた本」
よく見るとそれは、飛ぶ鳥を落とす勢いの新人作家、『茜』の新刊本だった。
しかも著者近影に映っているのは……。
「お……おまえが茜本人だってのか?」
「そうよ、恐れ入った? 底辺を這いずるのがお似合いの、万年糞ワナビさん?」
「……っ」
あんまりな物言いに、俺の怒りは頂点に達した。
だから思わず、言ってしまったのだ。
決して口にしてはならない、その一言を。
「お……俺だって一応、プロだから」
「はあー? なぁぁぁに対抗意識燃やしちゃってんの? いいわいいわ、じゃあ名乗ってみさないよ、あんたのペンネーム」
「………………星井雪緒」
「はああ?」
ぴくりとゴスロリ──茜の頬が引きつった。
「星井雪緒って、あの星井雪緒? デビュー作の『底に満ちたる』が赤川賞と高木賞をダブル受賞して、以後もベストセラーを連発してるあの?」
「……そうだよ」
「あんたね、騙るにしてももっとマイナーな先生にしたら?」
茜はハアと大きなため息をついた。
「か、騙ってるわけじゃ……」
今日に限っては嘘ではない。一応。
「じゃあさあ──」
茜は俺にぐっと顔を近づけると、底光りするような恐ろしい目で睨みつけてきた。
「証拠、見せなさいよ」
「しょ、証拠って……?」
「そんなの決まってんでしょ」
薄い胸を誇らしげに張りながら、茜は言った。
「作家の存在証明。誇りを懸けた決闘作法──ワンライよ」
ジャジャーンとこれ見よがしに鞄から取り出したのは、めちゃめちゃにデコったノートPCだ。
「ねえ、あんたも『執楽園』ぐらい知ってるでしょ? そこで白黒つけましょうよ。公衆の面前で、あたしとあんたの、いかんともしがたい力の差をね」
犬歯をむき出しにした笑みは、まるで悪魔のそれみたいに見えた。