「プロローグ」
~~~深見鷹、現在~~~
「タカ。時間まであと5分よ。準備出来てる?」
ギシッと椅子の軋む音がしたかと思うと、耳のすぐ傍で師匠の声と息遣いがした。
嗅ぎ慣れた体臭と甘い香水の混じった香りが、鼻腔をくすぐった。
「もちろんだよ、師匠」
ポキポキと指を鳴らしながら、俺は答えを返した。
集中するために照明を落とした部屋の中、光源は目の前のノートPCとオレンジ色に発光するバックライトキーボードのみだ。
「トイレも済ませたし、飲み物食い物はすぐ手に取れる位置にある。糖分を多く含む物、カフェインを多く含む物を中心に6食分、いつもの摂取量の倍も用意してある」
「休憩は挟むけど、そんなに長くはないからね?」
「わかってるさ。睡眠は十分だし、体調も良好だよ」
「回線の状態は?」
「そちらも万全。上り下り共に300Mbpsを超えてるよ。いくら週末の夜の『執楽園』でも、フリーズやアップし損ねで時間切れ負けなんてことにはならないさ」
ノートPCの画面中央、ウインドウのアクティブ領域にそのサイトのトップページは表示されている。
『執筆の楽園』──通称『執楽園』が隆盛著しいネット小説系サイトの中で人気ナンバーワンを確保出来ている理由は、どこまでもストイックなその設計理念にある。
ランダムに生成されたお題を元に決闘者が1時間で1本の掌編を書いてアップし、観戦者の投票によってその勝敗を決する。
いわゆる『ワンライ(OneWrite)』に特化したサイトなのだ。
閃き、速さ、掌握力。
執筆に必要な3本の柱を極超短時間で試される様がドラッグレースに似ていることから『執筆のゼロヨン』などとも呼ばれ、活字離れの久しかった多くの若者たちの熱狂的な支持を集めている。
カウンターを見るに、今現在の利用者数は決闘者観戦者含めて65万人。
いやはや、恐ろしいほどの盛況ぶりだ。
「……しかし未だに信じられないよな。『小説』がこれほどの勢いで巻き返すだなんて。『マンガ』にも『アニメ』にも負けない、最強のコンテンツになる日が来るだなんて」
「何よそれ。老害特有の昔話?」
ふふんと小馬鹿にしたような口調で師匠。
「老害って……。師匠と俺、4つも違わんでしょ」
背が高い以外はどこにでもいるようなメガネ男子と、染めた赤毛をツインテールに結ったゴスロリ美少女。種としての根本的な違いはあるにしても、年齢だけはそんなに変わらないはずだ。
「4つ違えば大違いだっての。あのね、言っとくけどこちとら天下のJK様なんだからね?」
「JKブランドを振りかざすなら、きちんと学校行ってからにしてくれませんかね」
「たまには行ってるわよ。それにあたしは学校なんかよりあんたとこうしてる方がよっぽど楽しいし……ってななななにを言わせようとしてんのよバカじゃないのっ!? いやらしいっ!」
「バカじゃないしいやらしくもないし今のは勝手に師匠がツンデレただけだけど」
「はああーっ!? はああああーっ!? 何を勝手に人にツンデレ属性付加してんのよバカじゃないの!? あたしそういうのないですし! どちらかというとクールビューティーな女ですし!」
興奮のあまりだろうわけのわからないことをわめき出した師匠はさておき、画面に動きが生じた。
四角い枠に囲まれた白地の決闘フィールドに、入室許可を求める者が現れたのだ。
左上に表示されている俺のユーザー名は『タカ』、その下に薄く表示された相手のユーザー名は……。
──おおおお! ホントに来たぞ! 星井雪緒だ!
──本人!? 本人なの!?
──当たり前でしょ! ここ数か月の無双ぶり知らないの!? もう何人ものプロが蹴散らされてるって、本物中の本物だよ!
──げげっ、ポイント53万!? えげつねえーっ!
俺が入室許可を出すと『星井雪緒』のユーザー名が濃くなり、画面右端のコメント欄が騒がしくなった。
──つうかこのタカって誰よ!? 掲示板で話題になってたから来てみたけど、なんでこいつ、星井雪緒と約束決闘とかしてんの!? 知り合い!?
──ポイント3500……ゴミってほどじゃないけど、プロではないわな。
──……んん? なんだこの対戦時間……24本勝負? はあああっ!? 正気なのこいつら!? 丸一日書き続けるって!?
──何それ怖い。
24時間24本勝負という前代未聞の設定に、驚きのコメントが爆速で流れていく。
「よしよし、い~い反応よ皆の衆。それでこそ宣伝した甲斐があったってもんだわ」
興奮状態から脱した師匠が、観戦者の反応を見てにやにや楽しげに笑っている。
「そうよねそうよね。敵は天才。現役のプロ中のプロ。万年ワナビのこいつが逆立ちしたって勝てるような相手じゃないのに何してんだって思うわよね? でもね、星井雪緒だって人間なのよ。休憩もままならないような超長時間の戦い。超大人数のギャラリーのせいで回線まで激重。さらにさらに、ここのとこの荒れた生活で体調まで不良ときては、いつまでも作品のクオリティを保てるわけがない。勝てるっ、勝てるわよこの勝負っ。ジャイアントキリングよっ。あーっはっはっはっ」
「ほとんど悪役のセリフなんだけど……」
喜々として語る師匠に、さすがにちょっと引いていると……。
「いいのよ。先にケンカ売ってきたのはあっちなんだから。ケンカにルールなんかあるもんか。勝ったほうが偉いのよ」
さも心外、というように師匠は俺の頭をチョップしてきた。
「そんなことよりねえ、わかってるんでしょうね。あんたの敗北は、イコール師匠であるあたしの敗北でもあるんだから。絶対に負けるんじゃないわよ?」
「わかってるよ。師匠の顔を潰したりしない」
「変な同情心も起こさないこと。今やあいつは、あんたの敵なんだからね?」
「わかってるよ。事これに関しては、相手が誰だろうと譲る気はない。邪魔するなら力ずくで押し通るまでだ」
「よーし、いい返事だ。そら、わかったら集中っ。すぐに始まるわよっ」
師匠の指摘通り、フィールドに変化が起こった。
タイプライター音と共に、中央に横書きで文字が刻まれていく。
『文学とは剣である。
鋭き刃で肺腑を抉り。
燦然たる輝きで眼を焼く。
然れど命までは取らぬ。
取るはただ、読み手の心のみ』
20世紀アメリカの文学家、トマス・ヴィジョンの決闘詩が消えると、入れ替わるようにカウントダウンが始まった。
『10、9、8──』
緊張でガチガチになりながらキーボードに手を伸ばす俺に、師匠が話しかけてきた。
「い~い? 辛くなったら思い出すのよ?」
『7、6、5──』
「あんたがここまでやって来たことを。あたしとの修行の日々を」
『4、3、2──』
「積み重ねは、絶対あんたを裏切らないから」
「師匠……っ」
肩を抱くような優しい言葉に、筋張っていた心が柔らかく解れていく。
そして俺は、師匠と出会ったあの日のことを思い出した。
そう、あれはたしか今から300日ほど前。
寒風吹きすさぶ12月のことだった──