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案山子の帝王  作者: 柚緒駆
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ノルン

 高さ十メートルはあろうかと思われるガラス窓。ガラスの向こうを雨が勢いよく流れ落ち、時折雷光が輝く。しかし音は聞こえない、静寂に押し殺されたような場所。


 グレート・オリンポスの病院区画奥にある特別な待合室に、巨漢のガウン姿があった。後ろに流した、まばらな長い髪。土気色の顔には鋭い眼光。オリンポス財閥総帥、ウラノスである。


 雨を眺めるウラノスの背後に、もう一人の影があった。長椅子に脚を組んで座っている。濃い紫のロングパーカーを着た女。豊満なシルエットは大人の香りを放ち、しかし大きな瞳には少女の輝きが宿る。顔の右半分には入れ墨で文様が彫られ、被ったフードからこぼれる髪は火のように赤い。


 待合室のドアが静かに開き、小柄ではげ上がった白衣の男が入って来た。


「ウラノス総帥」

「院長か。生まれたか」


 院長は大きくうなずいた。


「ご誕生あそばしました」


 ウラノスが振り返り、紫のパーカーを着た女が立ち上がった。連れだって待合室を出ると、すぐそこが新生児集中治療室の窓。ガラスの向こうに特注のベッドが一つ。生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。


「出来映えは」


 ウラノスの問いに、院長が自信満々に応じた。


「現在考え得る限り、人類最高の頭脳にして、Dの民として究極の完成度と申し上げて良いでしょう」


「うむ。よくやってくれた。では席を外せ」

「は?」


 院長は一瞬呆気に取られたものの、すぐさま頭を下げた。この辺りが出世した要因なのかも知れない。


「ははっ、何かございましたら、またお呼びくださいませ」


 院長が遠ざかるのを待って、紫のパーカーの女はガラスに近寄る。


「ねえウラノス」


 女はイタズラっぽくウラノスの顔をのぞき込んだ。


「名前は何と付けるのかしら」

「ジュピトル」


 ウラノスは迷う事なく即答した。


「ジュピトル・ジュピトリスだ」


 女の顔には小さな憂いが浮かぶ。


「それはいい名前。でも名前は呪いよ。大きすぎる名前は不幸を呼ぶわ」

「その程度の不幸に潰れる者など、ジュピトリスの家には要らぬ」


 女はふふっと小さく笑った。ウラノスは女を見つめる。


「ではノルン。運命を見つめる者よ、ジュピトルの未来へ忠告を与えよ」


「私の忠告は一度きり。人生でただ一度しか許されない。本当にそれでも良いのなら」

「構わぬ」


 ノルンと呼ばれた女は、しばし赤ん坊を見つめ、そして一筋、涙を流した。


「影武者を用意しなさい」

「影武者だと」


 ウラノスが眉を寄せる。ノルンはうなずいた。


「そう、同じ姿、同じ能力を持った、もう一人のジュピトル・ジュピトリスを用意しなさい。それで最初の苦難はやり過ごせる。その後に来るもっと大きな苦難は、自分の力で立ち向かうしかないけれど」


 ウラノスはノルンを見つめ、赤ん坊のジュピトルを見つめた。


「……わかった、用意させよう」


 その日から、十七年余りの時が流れた。



 現在エリア・エージャンの隅々にライフラインは行き渡り、ネットワークは張り巡らされている。だがすべての区域が同様に豊かな訳ではない。ここにも程度の差はあれ、貧困の問題は存在した。どれだけ社会システムが進歩しても、冨の完全な再分配などあり得ないのだ。


 ガラス面が小さくコンクリート部分の面積が広い、同じような印象の旧時代的な中低層のビルが建ち並ぶ、埃だらけの区域の片隅に、平屋建ての雑貨屋があった。食べ物から生活用品までが雑多に並ぶその店先に立つ、プロミスの姿。


 思い詰めたような表情で暗い店の中を見つめ、入るかどうか迷っている。だがしばらく悩んで踏ん切りがついたのか、顔を上げて店内に入った。入る前は三歩も進めば壁に突き当たるだろうと思っていたのだが、意外に広い。天井は低いが、面積だけなら小さなスーパーマーケットくらいある。


 少し戸惑いながら奥に進むと、一番奥、古ぼけた骨董品のような――いや、実際骨董品なのだろう――機械式レジスターの隣に、濃い紫のロングパーカーを着た女が、脚を組んで座っていた。プロミスに気付いて上げた顔には、右側半分に入れ墨の文様。フードから漏れる赤い髪。


「いらっしゃい。一人なのね」

「……あなたがノルンなの」


 ノルンは静かにうなずいた。三十代にも見える大人の落ち着き、十代にも見える溌剌はつらつさ。まるで年齢不詳な彼女を前に、プロミスは自分を抑えながらたずねた。


「あなたに聞きたい事があるの」

「聞きたい事があるなら、他を当たりなさい。私は占い師ではないわ」


 その静かな言葉に一瞬気後れしたような顔をみせたものの、プロミスは意を決して再び口を開いた。


「あなたの忠告が欲しいんです。運命の忠告をください」


 するとノルンはこう言った。


「私の忠告は一度きり。人生でただ一度しか許されない。それでも良いの?」

「構いません」


「あなたに必要な言葉は出せても、あなたの望む言葉は出せない。本当にそれで良いのかしら」

「はい」


 プロミスの決意は固い。ノルンはプロミスをじっと見つめると、ふっと笑った。


「彼の言葉を信じなさい」

「彼?」


「そう、あなたの知っている彼。あなたの運命の男性。イニシャルは、J」


 プロミスはしばし呆気に取られた顔をしていたが、やがてその顔は難しくなった。


「気に入らない言葉だったかしら」


 ノルンは微笑む。プロミスは難しい顔のまま首を振った。


「……いえ、ありがとうございました。あの、謝礼はクレジットでもいいですか」

「だったら何か買って行って。最近不景気で困ってるの。そこのオレンジなんてどう。美味しいわよ」


「はあ」 

「あと、これは忠告じゃなくて、ただのお節介だけど」


 人差し指を立て、ノルンは自分の唇に触れた。


「運命を語る者には用心なさい。私を含めてね」



 日の沈む少し前、プロミスはハーキイと合流し、約束の場所へと向かった。そこは商業ブロックにある安宿の、最上階の一室。


 ドアをノックして出てきたのは、フードを被った黒い僧衣の男。奥に通され、ソファに座って待っていると、あの白い髪の少女、金星教団教祖のヴェヌが現われた。白いTシャツに短パン、随分とラフな格好だ。そして隣に茶色い塊を連れて。


 身長は二メートルをゆうに超える。茶色いマントに全身を包み、黒く長い髪と、金色のメタリックマスク。マントから僅かに見える足も金色。おそらくはサイボーグか。


「お待たせしました」


 ヴェヌは何故か上機嫌な様子で向かいのソファに座る。しかし黙っている訳にも行くまい、プロミスは頭を下げて謝罪した。


「申し訳ない。依頼された件は失敗しました」

「ああ、いいんですよ。一回で成功するほど簡単だとは、私たちも思っていませんから」


 その拍子抜けなヴェヌの言葉に、プロミスはハーキイと顔を見合わせた。


「あの、それでは今日はいったい」

「はい、お二人にこちらの方をご紹介したくて、お呼び立て致しました」


 そう言って隣の茶色マントを見つめる。すると。


「あっ……」


 そう言って、茶色マントは絶句した。金色のマスクで表情は読めないが、焦っている空気は伝わってくる。ヴェヌは笑顔でフォローした。


「こちらはアシュラさん。戦闘用サイボーグなんですよね」

「そ、そそそそれがしは、その、えー」


「おしゃべりは苦手なんですが、とっても強いんですよね」

「い、いやあ、つ、強いと言うか何と言うか、あの」


「報酬はそれなりに必要ですけど、皆さんの目的に協力してもいい、って言いたいんですよね」

「うん、いや、はい、いや、まあいわゆるアレで」


「私、アシュラさんと知り合ったとき、すぐにお二人の事を思い出したんです。ビビッと来たんです」


 ヴェヌは力説した。


「これって運命なんじゃないかって!」



 日が暮れた。エリア・エージャンに夜が来る。貧困区域には窓の明かりも街灯も少なく、夜の暗さはひとしおだ。ノルンは店の前を片付け、手動のシャッターを閉めようとした。そこに響く、杖をつく音。頭にターバンを巻き、薄汚れたマントで体を覆った一本足の男が、闇の中から現われて店の前に差し掛かった。


「あら、またデルファイから出てきたの」


 3Jは左目の端でにらむようにノルンを見つめた。


「おまえか」

「最近忙しいみたいじゃない。景気のいい話でもある?」


「ない」


 それだけ言うと、通り過ぎようとする。


「ちょっとちょっと、待ちなさいよ」

「何だ、用か」


「用か、じゃないでしょう」


 ノルンはちょっとムッとした。


「あなたいい加減、私に運命の忠告をさせる気にならない?」

「要らん」


「でも一回よ? 一生に一回だけなのよ?」


 ノルンはマントの端を引っ張った。しかし。


「一回でも百回でも同じだ」3Jは言った。「俺に必要なのは俺の選択と、俺の導き出した結論だけ。神の論理に興味はない。俺に運命は必要ない」


 そこまで言われては、もう仕方ない。ノルンはマントを放した。3Jはまた一人で闇に向かって歩いて行く。その背中にノルンは、心の中で声をかけた。


 でも忘れないで。あなたたちは運命の子なのだから。

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