黄金の鳥
典型的な正常性バイアスと言えた。夏の夜を楽しむオーストラリア大陸、エリア・エインガナに響いたイ=ルグ=ル出現の警報は、人々に警戒心を抱かせはしたものの、それを避難という行動に移したのは、ごく一部だった。
これがサイクロンなら、もっと多くの人々が避難しただろう。毎年の事だし、発生から接近、到達まで段階と時間的余裕がある。行政の情報など判断基準も多い。だが今回は突然、いきなり逃げろ、である。こちらに向かっているかどうかもわからない、しかも出現場所はデルファイ近く、地球の真裏と言ってもいい。まだ逃げる段階ではない、多くの人々がそう考えていた。
そもそも、イ=ルグ=ルの覚醒がネットワーク上で話題となり始めて以降、エリア・エインガナは攻撃を受けていない。近くで突然巨大サイクロンが発生した事はあったが、よくわからないうちに消滅してしまった。被害を受けるのはいつも他のエリア、それもエージャンやトルファンやアマゾン、巨大な人口と経済力、軍事力を誇るところばかりである。
「エインガナは安全なんじゃないか」
そんな先入観があっても不思議ではない。どちらかと言えば、イ=ルグ=ルよりテロリストの方がよほど危険、それが素直な市民感覚であった。
だから街頭のスピーカーから避難の指示メッセージが流れているにもかかわらず、まだ街には多くの人がいた。中には運の悪い者もいる。たとえば空から落ちてきた石塊に、頭を潰された女とか。
女の体が倒れた音は聞こえなかった。周囲に降り注ぐ岩石の落ちる音の方が遙かに大きかったから。周囲の人々は慌てて逃げだそうとしたが、その現象がすでに終わっているのに気付いて落ち着いた。悲惨な事が起きた。だが自分は大丈夫だと。
けれど、それは始まりに過ぎない。
誰も触れていないのに、落ちた岩と石が転がり出した。具体的には、女の死体の方向に。一番大きな岩が死体の上に乗り、その周囲に他の石が集まる。大きな岩がゆっくり回転すると、まるでレモンを絞り器にかけたかのような音が聞こえた。
その音を聞き、思わず吐き気に襲われた男が口を開けて咳き込んだ。だが口から出て来たのは、吐瀉物ではなく、大量の黒いイトミミズ。驚きに目を剥いた彼の顔から、手から、全身から黒いイトミミズが湧き出す。一人では終わらない。それは風の速度で周りに伝染する。
岩の近くにいた者たちは、全身を完全にイトミミズに侵され、人の姿を保てなくなり崩れ落ちた。その外側にいた者たちは、体中からイトミミズを湧かせながら、さらに外側にいた人々に襲いかかった。耳まで裂けた口に噛み付かれた者は感染し、黒いイトミミズに覆われた、人ではない人型のモノになる。エリア・トルファンで見た光景。
阿鼻叫喚の渦巻く中、それをエネルギーとして吸い込んでいるかの如く、岩石の群れは活発に蠢き、形を持ち始めた。丸くなり、長く伸び、突起を出し、大きく広げ、やがて黄金色に輝いた。
豊かな冠羽と長く尖ったくちばし、鉤爪の足と四枚の翼を持つ黄金の巨大な鳥。それがイ=ルグ=ルの新たに獲得した姿。光る巨鳥は周りにこぼれる黒いイトミミズにくちばしで触れた。その吸い込まれて行く様は、乾いた布に落とした水を思わせる。
と、不意に黄金の鳥が顔を上げ、羽ばたき飛び上がった。地面に突き立つ長い槍。それは瞬時にリキキマへと姿を変える。周囲に降り立つ魔人たち。
「うげ、またコイツらかよ、気持ち悪い」
ズマが舌を出した。ジンライが身構える。
「ダラニ・ダラ、キラー・ホーネッツを」
「言われなくても、わかって……」
何かに気付いたのか、口が止まった。ダラニ・ダラは眉を寄せながら、頭上に小さな黒い空間を生み出すと、そこに首を突っ込んだ。十秒ほどそうしていただろうか、魔女は大きな頭を黒い空間から引っこ抜き、少し呆れたようにリキキマを見つめる。
「3Jからご指名だよ」
「あぁ? 指名だ?」
「『港』を解放しろってさ」
ダラニ・ダラの言葉に、リキキマもしばし呆気に取られた。
「……え、いまかよ」
「いますぐ門を開けろって3Jは言ってるがね」
「ええっ、いまかよ!」
「しつっこいね、おまえも」
「もしイヤだ、つったらどうするよ」
「聖域ごと破壊するんだと」
稚拙な脅しだ。が、何せ相手は3Jである。本当にやらないという保証はない。リキキマは悔しげに星空を見上げた。黄金の鳥が円を描いて舞っている。ここを離れるのは業腹だが、しかしこの先、いま以上のタイミングが来るかと言われたら、さすがに自信がない。3Jの言葉に従うのは気に食わないものの、その重みは経験上理解しているのだ。
「クソッ、しゃあねえか」
全部終わったときには覚えてろよ、と言いたい気持ちをリキキマは抑えた。
「ハイム、一緒に来い」
「はい、お嬢様」
ハイムが隣に立つと、ダラニ・ダラに目をやる。
「送ってくれ」
「あいよ」
ダラニ・ダラがまた黒い空間を生み出し、足下に浮かべる。
「開けたらすぐ戻ってくっからな。ちゃんと残しとけよ!」
そう言うリキキマがハイムと共に黒い領域の中に入った瞬間、二人の姿は消えた。
空港には人影がない。他のエリアに逃げても意味がない事は、みな承知しているから。事実、デルファイ近くに出現したイ=ルグ=ルは姿を消し、いまエリア・エインガナにいるらしい。エリア・エージャンの人々はホッとしているかも知れない。だがそれにも意味はない。安全な場所など最初から存在していないのだ。
ジュピトル・ジュピトリスの車は空港の保安区域から制限区域に直接入り、発射台に載せられた、自家用の弾道旅客機へと向かった。すでに避難しているのだろう、警備もメンテナンスも姿は見えない。すべてドローンが自動的に作業している。それはそうだ。人類が滅亡するかどうかの瀬戸際で、命より優先すべき仕事などない。ジュピトルはそう思っていた。
しかし、車が搭乗用エレベーターの前に着くと、警備員が一人、ポツンと立っている。老人だ。ムサシよりずっと年上に見える。おそらくリタイア後の再雇用組だろう、柔らかい笑顔で敬礼をして見せた。ジュピトルが慌てて車から飛び降りて駆け寄る。
「何してるんですか、早く逃げてください」
「ありがとうございます」
警備員は紺色の帽子を取って頭を下げた。
「ですが、万が一の事もあります。たいした仕事ではありませんが、誰かがこの場におりませんと」
「いや、しかし」
まさか仕事に人生を捧げているとでも言うのか。こんなとき、何と言えばいいのだろう。どう説得すれば避難してくれるのだろう。ジュピトルの迷う様子を見て、警備員はまた微笑んだ。
「大丈夫。未来を守るのは、年寄りの務めなのです」
帽子を深くかぶりながら。
「ジュピトルよ」
振り返れば、ムサシ、ナーガとナーギニー。
「ワシらがここにおるかぎり、この人も逃げられん。急いで乗るぞ」
ムサシの言葉に、ジュピトルはうなずくしかなかった。
蜂人部隊キラー・ホーネッツのマントから飛び出る、デルファイオオスズメバチの群れ。黒いイトミミズで覆われた人食いたちに次々と襲いかかり、毒針を突き刺して行く。苦悶の声を上げながら、ドロドロに溶ける数千の人食い。だが。
からからから。まるで笑うかのような鳴き声を上げて黄金の四枚翼の鳥が羽ばたくと、あちこちでイトミミズが沸き立ち、新たに数千の人食いが生まれる。そして鳥は急降下、人食いを一人くちばしの先に咥え、軽く放り投げてから丸呑みにした。
エリア・エインガナではパニックに陥った人々が逃げ惑っていた。何も考えずに真っ直ぐ走ればいいようなものを、その逃げる先々に黄金の鳥が回り込み、人混みの中に人食いを放つため、なかなか直線的には逃げられないのだ。運が良ければ逃げ切れるが、悪ければ来た道を戻るしかない。
もちろん、魔人たちも手をこまねいていた訳ではなかった。しかし空を飛ぶイ=ルグ=ルを叩くのは難しい。ジンライの超振動カッターは邪神の体に傷を付けたが、当たり前のように一瞬で修復される。ダラニ・ダラは空間を曲げて邪神の突進を避けるので精一杯。ガルアムもズマも空を飛べないし、飛べる吸血鬼は攻撃力不足だ。残るはケレケレだが。
「ヌ=ルマナやハルハンガイならともかく、イ=ルグ=ルを真正面から飲み込むのは難しいぞ」
「真正面でなければ可能なのか」
ガルアムの問いにケレケレはうなずいた。
「不意を突く事が出来るなら、飲み込む事自体は難しくない」
「あのさ」
そう言いだしたのは夜の王。
「こんなのはどうだろう」
ドラクルのアイデアに、ガルアムたちは耳を傾けた。
デルファイの南の街、聖域。その一番南端、繁華街の向こう側にある、高さ五十メートルの巨大な鋼鉄の門扉。これを開けるのは簡単だ。迷宮の奥にあるスイッチを押せばいい。ただし。
「ええっ、『港』を解放する?」
三次元通信機の向こうにいる世界政府大統領、ジェイソン・クロンダイクは困惑を顔に浮かべた。
「何でまた、こんなときに」
「こんなときだから解放するのではありませんか」
リキキマは満面の作り笑顔で答えた。馬鹿に構っているヒマなどないのだが、と言いたい気持ちは見せないようにしている。
「しかし、しかしだね。過去百年、誰も開けた事のない扉を、私が開けるとなると、その」
抵抗を見せるジェイソンに、リキキマはわざとらしく小首をかしげた。
「まあ。歴史に名を残す偉業ですね、素晴らしい」
「いやいやいや、愚昧な大統領として名を残すのは、いくら何でも」
「いえいえいえ、このままなら間違いなく最高に愚昧な大統領ですよ」
「……え」
「それとも」
リキキマの目が妖しく輝く。
「愚昧ついでに、ジュピトル・ジュピトリスでも殺す気ですか」
ジェイソンは腰を抜かさんばかりに驚いた。
「ど、どうしてそれを!」
「あら。認めて良かったんですか」
「あっ!」
赤くなったり青くなったり、ジェイソンの顔は信号機のようだった。リキキマは微笑む。
「他にもイロイロ存じ上げていますけど、公表した方がいいのでしょうかね」
これは単なるハッタリである。いまなら通じるだろうと思ったのだ。果たしてジェイソン大統領は、椅子からずり落ちそうになりながら顔を伏せ、息も絶え絶えにこう口にした。
「わかった。『港』の解放を認める」
「ありがとうございます。書類は事後に送りますので、ご署名をよろしく。それでは」
リキキマが頭を下げると、執事のハイムが三次元通信機のスイッチを切った。深い深いため息が聞こえる。
「あー、終わった終わった。クソ面倒臭え」
疲れ切った顔を上げるリキキマに、ハイムがトレイに乗った紅茶を差し出す。
「一旦ご休憩なさいますか、お嬢様」
だが紅茶を一気飲みすると、トレイの上、ソーサーの真ん中にカップを置いて、リキキマは振り返った。
「んな訳ゃねえだろ。すぐ開けんぞ」




