特別な人
日差しが柔らかくなり、トンボが舞う頃、教室ではいつものように授業が行われていた。変わったことと言えば、玉紀がいないこと。それ以外は何も変わらなかった。
照人は最近、玉紀のことばかり考えていて翔太とは学校で会う程度だった。彼女のことは誰にも語るつもりはなかったし、今日もこの授業が終わったら玉紀のところへ向かう予定だ。お節介かもしれないが、照人にとっては大事なことだった。
授業が終わり下校時間、珍しく翔太に声をかけられた。
「照人君、今日も用事あるの?」
「うん、ごめんな」
「そっか……。じゃあ、また明日ね」
「おう」
「……」
翔太には申し訳ないが、今は玉紀のことで頭がいっぱいだった。照人は急ぎ足で玉紀の家に向かった。
「こんにちわー」
「あら、照人君。もう学校終わったの? いつもありがとね」
「はい。お邪魔します」
照人は軽く玉紀の母へ挨拶し、玉紀の部屋を訪ねた。照人はノックする。
「玉紀、照人だけど。入っていい?」
「うん、どうぞー」
「よお。今日も元気か?」
「まあまあね。別に毎日来なくてもいいのに」
「そっか。なんとなく、玉紀の顔見ないと気持ち悪くてさ」
「なによ、それ」
玉紀は最近、笑ってくれるようになってきた。
「玉紀、外出るのはまだ怖いのか?」
「うん。家族や照人とか、誰か知ってる人と一緒だといいんだけどね」
「そっか……。バスケはもういいの?」
「うん。けど体はやっぱり動かしたいかも」
「そうか。どっかまた、遊びに行こうな」
「うん」
玉紀と少し話して帰ろうとしたところ、照人は玉紀の母に呼び止められた。
「照人君、ちょっといい?」
「はい」
玉紀の母は玉紀に聞かれないように気をつけて静かに移動し、照人に話し出した。
「照人君、あのね。落ち着いたら玉紀と話してみようと思うんだけど、玉紀、転校させようと思うの」
「転校、ですか? けど、場所が変わってもまだ難しいのでは……」
「だけど、このままだと勉強も遅れちゃうし、玉紀にとっても良くないと思うの。だから、近くの女子校に転入させようと思ってて」
「女子校、ですか」
「そう。まだ周りのサポートは確かに必要よ。送り迎えは私かお父さんがするし、先生やコーチには女性の先生にお願いするつもり」
「そうですね……それが玉紀にとっていいなら、僕は良いと思います」
「ありがとう、照人君。もし学校が変わっても、遊びに来てあげてくれると嬉しいわ」
「はい。これからは女の子の友だちができて玉紀さんを守ってくれると思うので、きっと大丈夫ですよ」
「照人君……。ありがとね」
玉紀の母は照人の手を握り、涙を滲ませた。
玉紀は数日後、転校することに決まった。一人で外に出るのはまだ不安らしいので、必ず誰かが付いて歩くことにした。女子校へは今の高校より一キロくらいの差なので幸い歩けない程遠くもなかった。ただし、閉鎖された空間や暗いところ、男性は避けるように配慮した生活を心がける必要があった。いきなり触れるのも怖いようで、照人は玉紀の許可がない限り、自分からは触れないことに決めていた。
照人は自分の玉紀に対する思いが、友だちや妹などへ対する思いと違うと気付き始め、特別な好きなんだと自覚した。本当はもっと、玉紀に近づきたいし触れてもみたい。しかし、玉紀の男性に対する恐怖心が消えるまで待つしかない。そういえば、最近スカートの丈が短くなってきた妹は大丈夫なんだろうかと、照人は急に気になり、妹の部屋に向かった。
「おい、茜。お前、スカートとか短くしてて、電車とかエスカレーターとか平気なのか?」
「全然平気じゃないよー! 何回か痴漢にあったし、この前は友だちがお尻触られてたの発見して、とっ捕まえてやったわよ!」
「お前、強えな。女の子って、よくそんなことあるのか?」
「めっちゃ多いよ。みんな自分が悪くないのに誰にも言えないで悩んでる子も多いみたい」
「そうなんだー。だけどお前の格好だったら、誘ってるようにも見えるだろうよ」
「そうね。まあ、私の場合は、引っかかった奴は蹴り入れてすぐ駅員に突き出すけどね」
「お前の性格、警官向きだな」
「お褒めの言葉、ありがとう。お兄ちゃんだってそういうの放っておけないでしょ? きっとうちらはお母さん譲りの性格ねー」
「ははっ、そうだな」
「ハッ……クショーン! 誰よ、私が美人な奥さんだって噂してるイケメンは」
その頃、一階のキッチンで夕飯の支度をしていた照人の母が一人言を言っていた。
母譲りの正義感のお陰で、うちの妹は強く逞しく生きているようだが、男性からのセクハラや暴力などに苦しむ女性は多いようだ。同じ男として情けない。男は本当に単純で、馬鹿な生き物だ。こっちに向けた笑顔やちょっと触れられただけで簡単に自分のこと好きなんじゃないかと勘違いしてしまう。しかし女だってきっと、イケメンや金持ちだったら心が揺れ動くだろう。俺はイケメンでも金持ちでもないからモテた試しがないが、外見や家柄が良い人は別な苦労もあるのだろう。俺は男でも女でも、一緒にいて楽しかったり嬉しかったりする人と、穏やかな日常を一緒に過ごせたらそれだけでいいかなと思う。だけどもし、好きな人が誰かに傷つけられたら、病気になったら、守ってやれる力がないと駄目だ。
「俺に何ができるかな……」
高校生になったばかりの俺。これから社会に出る前に必要な力を学んで身に付けなきゃならない。玉紀には玉紀の人生がある。俺には俺の人生が。俺一人じゃ今は何もできない。まずは自分のことができるようになって、父さんみたいに家族を養って守れるようにならなくちゃ。照人は考え事を止めて、ベッドから起き上がり階段を降りた。