心の傷
自宅に着いた照人は何故か胸騒ぎがしていた。つい数日前まであんなに明るく元気だった玉紀が、大好きだったバスケを辞めると言い出し、仲が良かった友だちやお母さんさえも遠去けてしまっている。さっき送ったメールにもやはり返事は来なかった。もしこのまま玉紀とずっと会えなくなったらなんて想像出来なかった。知らないうちに照人の中で、玉紀という存在が大きくなっていた。自分にできることはないのだろうか。照人は何も考えられないくらい心が落ち着かなかった。
あれから一週間が過ぎ、玉紀の母から照人へ連絡があった。話があるとのことだったので、照人は学校帰りに訪ねることにした。呼び鈴を鳴らすとすぐに玉紀の母が現れた。
「黒地君、呼び出しちゃってごめんなさいね」
「いえ、連絡ありがとうございます。あの……玉紀さんは、その後いかがですか?」
「……ここじゃなんだから、上がって」
「はい。お邪魔します」
玉紀の母は照人の質問には答えず、一階の居間に照人を招いた。玉紀の母は温かいお茶を急須から器に注ぎながら話し出す。
「だいぶ秋に近づいて来たわねー。そろそろ文化祭の季節かしら」
「はい。今クラス毎に出し物を考えて準備に取り掛かっています」
「そうなの。楽しみね」
その言葉は照人には悲しそうに聞こえた。
「黒地君。黒地君から見て玉紀ってどんな子に見える?」
頂いたお茶を啜りながら予想していなかった質問を受けた照人は、少し考えてから答えた。
「そうですね……。僕から見た玉紀さんは、明るくて活発で、一見強そうに見えるけど、時々不安気な顔もする、僕にとってはなんとなく気になる子でした」
「そうなの……。私は玉紀の悩みに気付いてあげられなかったわ。母親失格ね」
「そんなことないですよ。僕も学校でたまに見かけるくらいでしたから」
「いいえ、母親として、身近にいる大人として、私はあの子を守ってやれなかったの……」
玉紀の母の表情が曇った。
「あの……何があったんですか?」
照人は聞いていいのか分からなかったが、おそるおそる尋ねた。
「貴方が訪ねてくれた日の夜ね、私、あの子の様子が心配になって部屋に行ったの。部屋のドアをノックして何度呼びかけても返事がなくて……。寝てるのかなって思って、お父さんが帰って来てからしょうがなく合鍵で開けてみたら、あの子が血を流して倒れていたの……」
玉紀の母は泣きそうになるのを抑えた。
「えっ!! 玉紀さんは……玉紀さんは無事なんですか!」
照人は驚いて声が大きくなり、思わず立ち上がっていた。
「すぐに救急車呼んで病院に運んだわ。幸い発見が早かったのと、傷が浅くて間に合ったんだけどね……問題は心の傷のほうが深刻で」
「心の傷?」
「あの子ってね、何かあってもなんでもないように振る舞う子なの。小さい頃にも無表情で帰って来たときがあったんだけど何も言わなくて。早く気付いてあげれば良かった……」
玉紀の母の目からとうとう涙が溢れた。照人は近くにあったティッシュを差し出した。
「……ありがと」
「それで、心の傷って……」
玉紀の母は少し落ち着いてから話し始めた。
「あの子が意識を取り戻してから聞いたの。そしたら、この前、部活の練習が終わってから監督と二人になった時、あの子……襲われそうになったらしいの」
「な……なんだって!!」
照人は怒りが込み上げてきて、腸が煮えくり返る思いだった。
「なんとか逃れて無事だったみたいなんだけどね、それから男性が近くにいると、急に思い出すようにパニックになっちゃって……」
「……許せない! 僕が、その監督ってやつを一発、ぶん殴って来ます!」
照人は感情を抑えられなくなって立ち上がった。
「黒地君、ありがと。大丈夫。学校には連絡して、その監督は処分してもらったわ」
「それでも……僕は一発殴ってやんないと収まらないです!」
「玉紀の為に怒ってくれてありがと。私たちもそうしたい気持ちだけど、それでも玉紀の心の傷は消せないから……」
「……」
照人は拳を力の限り握りしめ、どうにもできない歯痒さでいっぱいだった。
「男は嫌いだって前から言ってたけど、以前にもそういうことがあったらしくて。だから異性として見られることが怖いみたい……」
「それじゃあ僕も、玉紀さんに会うのは無理なんですかね……」
「わからないわ。今は友だちにも連絡したくないみたいだから……」
「そうですか……」
「また落ち着いてから聞いてみるわね」
「はい。よろしくお願いします」
照人は玉紀に会えないまま、重い足取りで家を出た。そんな事情があったなんて……。あの夢のように玉紀にはもう会うことさえできないのだろうか。そんな自分の思いより今は、彼女の心が少しでも癒えるように願うしかなかった。
それから照人は、メールでの連絡は控え、学校帰りに花屋に寄っては一輪買い、玉紀の家に行って置いてきた。こんなことで癒されるかわからないが、何もせずにはいられなかった。玉紀の姿が見られないことがすごく寂しくて、何も楽しく感じなかった。彼女は今どれだけ辛い思いをしているだろう。彼女の心に光を取り戻せるなら、なんだってしたいと照人は思った。
一ヶ月ほどそんな日が続き、花を置いて帰ろうとした時、玉紀の母に呼び止められた。
「照人君、ちょっと待って。玉紀が会ってみたいって」
「えっ?」
照人は促されて急いで二階へと上がった。玉紀の部屋のドアをノックする。前に会った時以来、顔を見ていないので緊張していた。
「あの、玉紀。照人だけど……」
「どうぞ」
照人はゆっくりとドアを開けた。開けると、部屋の奥にあるベッドの上で寝間着姿のまま起き上がっている玉紀の姿があった。机には照人が買ってきた花が活けてある。玉紀の肌は青白く少し痩せていて、左手首には包帯が巻かれていた。前に会った時より暗く無表情な顔で窓の外を見ていた。照人はドアを閉めようとしたが、密室だと怖がるのかなと思い、開けておくことにした。
「玉紀……具合はどう?」
照人は気の利いた言葉が浮かんでこなかった。
「お母さんから聞いたんでしょ。大丈夫、たぶんね」
玉紀は他人事みたいにそう言った。
「俺さ、初めて人を殺したいと思ったよ」
「なんで? アンタは関係ないじゃん」
「あるよ! ある! 俺は、友だちを傷付ける奴は許せないから」
友だち……? 自分で言ってから何故か違和感を感じた。ただの友だちの為に殺意が込み上げるくらいまで人を憎むものだろうか。
「そう言えばアンタはいつもそうだったね。でもいいんだ。もう……」
玉紀は膝を抱えて顔を伏せた。照人は抱きしめて慰めたかったが思い留まった。
「俺に、何かできることはないかな……」
玉紀はしばらく黙っていた。それからゆっくりと口を開いた。
「しばらく学校行きたくないから、たまに来てくれないかな? 何も話すことなくてもいいから。ただ側にいるだけでいいから……」
「うん、わかった。じゃあ、疲れてるだろうからそろそろ行くよ。ゆっくり休めよ」
「うん。ありがと」
照人は玉紀の部屋を後にした。下に降りると心配そうな顔で玉紀の母が待っていた。
「それじゃ僕、失礼します」
「照人君……」
玉紀の母は照人と一緒に玄関を出た。
「今日は話せて良かったです」
「照人君、また様子見に来てもらえる?」
「もちろんです。それじゃ、また」
「ありがとう。暗くなってきたから気をつけてね」
「はい」
照人は玉紀の母と挨拶を交わし、帰路についた。夕暮れの赤と夜の青の混じり合った美しい空。照人は玉紀にも見せてやりたいと思った。




