女なんて
永遠に続くかと思われた蒸し暑い夏休みも終わり、日に焼けた学生たちが登校する姿が見える。久しぶりに顔を合わせるクラスメイトたちの楽しそうな笑い声、そして生徒たちの明るい笑顔でいっぱいだった。溜まった宿題を提出し終え、ホームルーム後に下校時間となった。
帰り仕度をする生徒や、まだ話足りない様子で輪になり話している女子生徒、大きなバッグを持って部活動に行く生徒などがいる。廊下で玉紀の姿を見かけた照人は声をかけた。
「玉紀! 久しぶり。元気だった?」
「照人、久しぶりー。ごめんね、あんまり連絡できなくて。部活と宿題でずっと忙しくてさー」
「いや、大丈夫だよ。県大会が近いんだろ? 頑張れよ」
「ありがと。じゃあ、また連絡するね」
「おう」
照人は元気そうな玉紀に安心して、その後ろ姿を見送った。
部室のロッカーに荷物を入れた玉紀は、着替えてから体育館に向かった。玉紀たち一年生は、早めに準備を整えて体育館の清掃とボール磨きなどから始めるのが日課だった。
「あー、早く試合出たいなー」
「玉紀だったらすぐユニホーム貰えるよー」
「中学の時にさ、ここのバスケ部のジャージやユニホーム着た先輩方が超カッコよくて憧れてさー。絶対この学校行こうって思ったんだよねー」
「私もー! あー、私も早くベンチ入りしたいなー」
玉紀は同級生の部員たちと、体育館の床をモップ掛けしながら話していた。
「コラー、早くしないと、練習始まるよー」
「はーい」
荷物を運んできたマネージャーに急かされると、玉紀たちは急ぎ足で掃除を進めた。
練習が始まると、女子と男子ハーフコートずつ使い、それぞれ試合形式で練習していた。バスケットシューズが擦れる音と選手の声が響く。そして監督が現れて、上級生たちレギュラー組みは一旦休憩に入った。
その間に下級生たちはシュート練習などをしている。玉紀もその中に加わった。キレの良いドリブル、フェイントを掛けてからのランニングシュート。指先から放ったボールは、ゴールに吸い込まれていった。
「ナイッシュー!」
チームメイトからの声が飛ぶ。玉紀はこのゴールした瞬間が一番好きで中学からバスケを続けていた。しかし身長はあまり伸びず、肉付きばかり良くなってしまった。最近はバスケの技術より体型に視線を集めているらしく、玉紀は少し気になっていた。
「はあ、こんな胸より身長が欲しいな……」
練習が終わり、玉紀は下級生部員たちと後片付けをしていた。
「終わったー? 玉紀帰るよー」
「うん。これ戻してくるから先に行ってて」
玉紀は散らばったボールを拾い上げ、倉庫に戻しに行った。
「ふう、これで最後っと」
玉紀はボールが収納された籠に最後のボールを乗せた。帰ろうと振り向いた時、先に帰ったはずの監督がやってきた。
「お、まだいたのか」
「お疲れ様です。もう帰ります」
「おい。ちょっと、いいか」
「?」
監督は後ろ手に扉を閉めて、進路を塞いだ。
「なんですか? ちょっと!」
帰ろうとした玉紀は監督に肩を捕まれ、押し戻されて運動用のマットに倒れ込んだ。暗闇の中、覆い被さってくる監督。
「ユニホーム着たいんだろ? 俺の言う通りにすれば考えてやるから」
「ちょっと! 嫌だ! ヤメてよー!!」
玉紀に襲いかかり、服を脱がそうとしてくる監督。玉紀は必死に抵抗するが、力尽くで押さえ付けてくる。
「大丈夫。すぐ終わるから」
監督は不気味な笑みを浮かべながらズボンを下ろそうとした。玉紀は身の危険を感じ、難を逃れようと股間を思いっきり蹴り上げた。
「ぐはっ!」
玉紀の蹴りがヒットし、監督は蹲る。その隙に玉紀は扉を開けて急いで外に出た。
「おい……待てよー!」
玉紀は振り返らずに、はだけた衣服を掴んだままとにかく走った。衣服の乱れを整え、同級生には何もないフリをして玉紀は帰宅した。
「ただいまー」
「おかえり。玉紀、ご飯は?」
「今日は疲れたから、寝るね」
「そう……。おやすみなさい」
玉紀は母と二言ほど交わした後、そのまま二階の自分の部屋に入った。扉の鍵をかけ、放心状態のまま座り込む。練習の後の記憶が曖昧だ。考えようとするのを何かが阻害する。思い出したらいけないのだと無意識に感じた。
私が何か悪いことでもした? 何でこんな目に合わなきゃいけないの?
「女なんて、生まれて来なきゃよかった……」
次の日から玉紀の姿を学校で見かけなくなった。照人の耳にもその噂が届いた後、心配になりメールを送ってみた。しかししばらく経っても既読された様子はなく、更に不安は募った。
照人は玉紀と仲が良さそうなバスケ部の女子生徒に声をかけた。
「ねえ、玉紀ってどうしたの?」
「それがさー、うちらもよくわからなくって。この前、練習が終わって帰る時に、なかなか戻って来ないから探しに行こうかとしたら現れてさ、何だか心ここにあらずな感じでおかしいなとは思ったんだけど」
「連絡来ないの?」
「うん。ただ部活辞めるって返事だけかな」
「部活を辞める? あの玉紀が??」
バスケ大好き少女だったあの玉紀が何故だ? 何かあったのだろうか。
照人は居ても立っても居られなくなって、学校帰りに玉紀の家に立ち寄ることにした。前に一度だけプールの後に訪ねた記憶を頼り、照人は家を探す。
「確か、この辺だったはずなんだけど……。あ、あった!」
見覚えのある門構えの一軒家で『三浦』と書かれた表札を見つけた。照人は呼吸を整えて呼び鈴を鳴らした。
「はーい、どちらさま?」
「あ、あの、初めまして。僕、玉紀さんと同じ学校の黒地と言います。玉紀さんはいらっしゃいますか?」
「……ちょっと待ってね」
「はい」
インターホン越しに大人の女性の声が聞こえた後、玄関の扉が開き、中から玉紀の母と思われる女性が現れた。
「あなた、玉紀のお友だち?」
「はい。黒地照人と言います」
「黒地君ね。あの……玉紀ね、この前から部屋に閉じこもっちゃって、何だか様子が変なの。何があったか知ってる?」
「僕もこの前見かけたときは元気そうに見えたので、なんだかちょっと心配になって……」
「あら、そうなの……。あんなに好きだったバスケも辞めるとか言い出してね」
「そうなんですか……」
部屋に閉じこもったままの玉紀に気を遣い、玉紀の母と照人は、玄関の外で小声で話していた。
「ごめんなさいね、わざわざ来てもらったのに。今は誰とも会いたくないみたい」
「わかりました。それでは玉紀さんによろしくお伝えください」
「わかったわ。また落ち着いたら来てあげてちょうだいね」
照人は軽く会釈して玉紀の家を出た。少し歩いてから玉紀の部屋の窓を見る。
「大丈夫かな……」
玉紀の姿はやはり見えなかった。照人の不安は残ったまま、後ろ髪を引かれるように家に帰った。
家の呼び鈴が鳴り誰かが来たようだ。最近、音にも敏感で何もかも怖くなった。家族以外の誰とも会いたくない。男は特にいつも私をイヤらしい目で見ているような気がして嫌だ。宅配便もガスの点検の人も、男はみんな信用できなかった。
小学生の時、近所の知らないおじさんに声をかけられた。通りすがる時に不意に下半身を触られた。怖くなって振り向くと、快楽に満ち溢れた表情でこちらを見ていて、気持ち悪くて走って逃げた。そのことは親にも言えなくて、それ以来、大人の男が近くにいると怖くなった。
中学生になると体も発育し、余計に視線が気になるようになった。水泳はもちろん体のラインが出るような服は避け、髪を短くし、男の子みたいな格好ばかりした。男なんて嫌いだ。男には負けたくない。そんなふうに突っ張って生きてきた。
高校生になり、頭は小学生と変わらないのに体力などでは敵わない男子に対してすごく悔しかった。そうしてずっと、男は嫌な奴とレッテルを貼ってきたが、そんな男子たちとは違う照人に出会って興味が湧いた。女子に興味がなさそうな彼なら、もしかしたら仲良くなれるんじゃないかと思い近づいてみたが、男女の関係になるとやはり無理だった。
少女漫画のように爽やかな恋愛は、私には一生できないのかもしれない。男に生まれていたら、こうやって狙われることもなかった。男という生き物は、餌に食いつくだけの欲望の塊に思えた。
「何で生きてるんだろ……」
あれは私の心を壊すには十分だった。全てに希望を見失い、何も感じない。生きる意味さえわからない。きっと今なら肉体の痛みさえも感じることなくこの苦しみから逃れられるだろう。携帯メールを受信した。通知ランプが光っている。もうどうでもいい。玉紀の手には刃物が光っていた。
「お父さん、お母さん、ごめんね……」
玉紀の目からは透明な雫、手首からは赤い雫が流れ落ちていた……。