#1 どこにでもある、出会い
僕の実体験も含んでます。
大学二年の春休み、試験が終わり大学に行く必要もなくなって何もすることがない僕は、アルバイトをしていた。今日もまたタイムカードを切り、制服に着替えて同僚に挨拶をしてチケットをもぎる。地元の映画館で1年弱働いており、それなりに仕事に慣れている。
楽しそうに駆け出す小学生の友達グループや、腕を組みながら歩くカップル、ケチをつけてくる老人などを相手にするのももはや日常であり、それぞれ定めてあるパターンを無意識に選んで対応した。非がなくとも謝って、理不尽にも怒りを出さない。最初のうちはそれがとても辛かったけれど、今ではなんとも感じなくなった。そんな勤務態度が自然にできてしまうのだから、大学でも交遊関係が狭いのかもしれない。上司には好評なのだが。
朝の開場ピークが過ぎた後、僕は映画館のロビーの清掃やチラシの補充などを行った。開場作品がない場合は、チケットのもぎり場を離れても構わない。映画館の整備作業を行わないと、後に僕と交代する人に迷惑をかけてしまう。とりあえず先にポスターケースからしよう。そう思って、アルコール消毒液を取り出した。
「えいがかんの、おしごとってたいへん?」
「え?」
突然、僕は話しかけられた。いや、そういったことは日常茶飯事だ。作業しているのにも関わらず遠慮なく話しかけてくる人間なんて一杯いる。そんな人間に対し苛立ちを隠して接する。僕はいつも通りに振り向き、なにかご用でしょうかと口を開こうとした。
が、僕はお客様をみた瞬間、喉に何かが詰まった。子供だった。それも女の子。オレンジ色のパーカーを羽織っており、フードを被っている。手には、近頃上映される子供向けの映画の人気キャラクターの人形がぶらんと垂れ下がっていた。使い込まれているのか、すごくシワが多い。
僕はその場に立ち尽くしていた。子供の相手が苦手、というわけでもない。いや、得意でもないのだが、何というのだろうか、どんな言葉を発すればいいのかわからなかった。何か困っているように見えれば、何かお困りですかと訪ねればいいし、迷子のようなら保護をすればいい。
しかし、どっちにも見えなかった。近くに母親か父親はいないのだが、困っている様子でもない。迷子ではない。しかし、一人で行動できるような年のようにも見えない。身長は1メートルあるかないかだろう。いったい僕に何で声をかけたのか。それがわからないから、発するべき言葉が見つからない。
「えいがかんのおしごと、たのしい?」
「えっ? あ、ああ……うん」
僕が何も言わないから、彼女の方から訊ねられた。そして、質問の意味もきちんとのみ込めずに曖昧に返事をしてしまう。後で思い返せば、それは嘘だった。
でも、彼女は本当だと思ったようで、ぱっと顔を輝かせた。
「そうなんだ! どうしてたのしいの?」
「え……えっと」
どうして、か。
……いや、何でこんな質問に答えなくちゃいけないんだ。仕事とは関係ないし、はっきりいって面倒くさい。だからだれか来てほしい。誰でもいいから。上司に注意されて引き剥がされてもいい。僕は考えるふりをしながら辺りを見渡し、何かないかと探した。
「ーーあっ」
女の子が突然短く声を発した。僕の方ではない方向を向いている。つられて僕も一緒にみると、女性がやや早歩きでこちらに来た。恐らく彼女のお母さんだろう。
「ほら、君のお母さんだよ。迎えに来たんだろう?」
「うん」
彼女の声のトーンは少しだけ落ちた気がした。でも、すぐに母親のもとへと駆け出していって、母親はその長い腕で娘をくるむように、隠すように抱いた。
「すみません、お仕事の邪魔してしまって」
すごく申し訳なさそうにお母さんは謝罪する。
「ああ、いえ、とんでもございません」
「本当にすみません。すぐに帰りますから」
そういうとその子を抱いたまま足早と映画館から去っていってしまった。僕は暫し呆然とそれを見送っていた。それからは同僚にギロリと睨まれながらロリコンだの通報してやるだの何だのと言われたが、僕としてはなんというか不思議な光景を見た気分であり、そういった俗なものなど感じなかった。
子供連れの家族なんて僕は腐るほど相手をして来た。泣きわめく子供をなだめる父母、楽しそうに手を繋ぐ父と息子、騒いだ子供を叱って導く母親……どれもそれぞれ違う。しかし、あまり鋭くない僕にもそれらの共通点はわかる。ありきたりな言葉だが、愛だろう。接し方は違えど、基本的には子供に愛を持って接し、子供のためを思って子供を指導する。それに対し子供は愛を持ってそれに応える。つまりは全て、親は子供のために行動するものなのだ。
しかし、先程の母親は、娘を隠すように抱きながら謝った。まるで、娘を知られたくないというように。そして、娘に話しかけられた僕に対し、本当に申し訳ないと言っていた。僕には、単に仕事を妨害してしまったこと以外の意味があるような気がする。
「……ないか」
考えすぎだ。証拠もないのにそう考えていい訳がない。第一僕は赤の他人であり従業員。お客様と従業員の関係しかない。深入りは厳禁だ。
「……ま……じゃ……」
なんだこの声は。現実に広がる光景が、その声に揺らされる。まるでノイズがかかるように、歪み始める。
「むら……まねぇじゃー……」
だんだんとその声が大きくなり、いつの間にか視界は黒く塗りつぶされる。
「むら……まねーじゃー……村井マネージャー!」
村井マネージャーという言葉が、響いた瞬間。世界は音を立てずに弾け、がばっと条件反射で起き上がった。瞳をパチリと開き、ボーッとした頭をクリアにする。すると、自分を覗き込んでいる部下、石田の姿があった。
「い、石田くん、どうしたんだ?」
「どうしたもこうもじゃないですよ。深夜の時間だからといって寝ないでくださいよ」
見ると僕の机にはシフト表や配給会社からの通達の手紙が散乱していた。どうやら僕は椅子に座りながら机で作業をしていたようだ。その途中でいわゆる寝落ちをしてしまったらしい。
「いや、すまなかったね。最近疲れがすごくて」
「ほんとですよ。明日彼女とデートで早起きなんですから、早く帰してくださいよ、じゃあこれ」
「ああわかったよ」
僕はもうすっかり慣れ親しんだ、劇場の整備シートの進捗確認を行った。以前は僕が石田くんのようにマネージャーに提示する立場だったというのに、今はこうして提示され、判子を押している。なんとも言えなくなってきた。
すべての項目が終了済みなのを確認し、判子を押し終えると僕はすくっと立ち上がり伸びをした後、元にあった場所に戻しにいった。
「あれ、それは俺の仕事ですよ?」
「いいんだ、石田くんは彼女とデートだろ? だったら早く上がっちゃいなさい」
「まじですか? あざっす! じゃあお先に失礼します!」
そう言うや彼はタイムカードを切って颯爽と更衣室に駆け出した。僕は呆れ気味に両手をあげ小さくふるふると動かすと、椅子に座って作業に戻った。寝ていた分を取り返さなくては。
「……しかし、あの夢を見るとはな」
僕は天井に向かって思い切り溜め込んでいた息を吐く。もう忘れていると思っていたのに。人間というのは、完全に忘れ去ることができない、厄介な生き物だ。
僕は、自分の机の引き出しをそっと引く。そして、写真を取り出した。大学生の頃の僕と、一人の少女が映っている。はたから見れば、デートの時の写真だと、言われるだろう。
でも、それは違う。ここには、ただの男女の交際とは違う思い出がつまっている。いろんな意味での、思い出が。
「……ここで終わっていれば、少しは違ったんだろうな」
僕は小さく呟くと、写真を引き出しにしまった。さぁ、気持ちを切り替えなくてはな。