若者のすべて
泥臭い青春の話です。
十八の夏は憂鬱だ。
例えば、大学に行くという選択肢、それによってモラトリアムを引き延ばす事が出来る人間を、俺は勝手に羨み嫉妬していた。
とにかく、猶予が欲しかった。今の自分が社会に受け入れられる自信がないから。
警察官だった父がある日、母を拳銃で撃ち、そして自殺した。 理由は知らないし、知りたくもない。
そうして、孤児になった俺は、千葉に住む祖母に引き取られた。高校へは通っている。 市内でも、下から二番目の評判が悪い馬鹿校だ。 勉強する気にはならなかったから、そのまま行ける所を適当に選んだ。
俺が悪いのか、そんな境遇なら仕方がないのか、そんな事は周りが勝手に決めれば良い。
死んだ祖父が使っていたという、メーカーも車種も知らないスクーターを走らせ、夜風を浴びる。
最近はこうして、夕暮れの川沿いを走らせ、黄昏れていた。 何の意味もないが、慰めにはなる。
自販機で炭酸飲料を買い、公園から沼を見ていた。
水面には白鳥が数羽浮かんでおり、帰路につく子供達の声が聞こえる。
辺りに人はいない。位置情報アプリでレアなキャラクターが出ると繁盛していたのもすっかりなりを潜め、元の寂しい空間に戻っていた。
いつものブランコに揺られようと、遊具へ近づくと四つ並んだ一番右に座る少女と目があった。
セミロングの黒髪が風に揺られている。丸顔でタレ目がちなせいか、その姿は幼げに見えた。 少女は、酷く悲しそうな表情で、目は軽く充血している。
泣いていたのだろうか、そう思ったが所詮は他人だ。下手に関わって火傷したくはない。 視線を外し、一番左側のブランコに腰掛けた。
空は茜と藍の二つに分かれ、その向こうからは黒が迫り来る。 心の中の、熱さも冷たさも大切な何かも全部真っ暗なあれが飲み干してしまうように感じた。
炭酸飲料の蓋をあけると、中身が勢いよく吹きあがる。 慌てて、宙に放るも、Tシャツはすっかり濡れてしまった。
しかめつらで、拭くものを探していると、隣から静かにハンカチが差し出される。
「良かったら、使って下さい」
そういうと、少女は俺にハンカチを握らせ、隣のブランコに腰掛けた。
ブランコを漕ぐ、金属が擦れ合う甲高い音だけが聞こえる。 何となく気まずいな、そう思ってると不意に声をかけられた。
「あの、いつも公園でこうしてましたよね」
どうやら、少女も毎日公園に通っていたようで、知られていたらしい。 「まあ」と、曖昧に返事をした。
「ひょっとして、嫌な事とかあるからですか? 家庭が上手くいってないとか」 少女の不躾な言葉が、胸に突き刺さった。
普通は見ず知らずの人間に家庭の話など尋ねないだろう。 彼女の辞書には、適切な距離感を図るという言葉は無いのだろうか。
「生きてて、嫌な事がない人間の方が珍しいだろ」
そう吐き捨てるように応えて、乱雑にハンカチを返す。
戸惑う少女が、腕を伸ばしたのを見て、思わずはっとした。 少女の露わになった手首には何度も自傷した跡が残っていたのだ。
ああ、もしかしなくても、こいつは俺と同じ類の人間だ。 その時、ふとそんな事を思ってしまった。
深く関わるべきじゃない、けど、ひょっとしたらこの空虚で惨めな孤独感を拭ってくれる存在かもしれない。
しかし、そんな期待とは裏腹に、少女はハンカチをそっと受け取ると 「失礼な事を聞いてごめんなさい」
と立ち上がり背中を見せる。
「なあ、お前こそなんか嫌な事とかあるのかよ」
俺が小さくなっていく背中に声をかけると、少女は泣きながら振り返った。
「私は小学生の頃からお父さんに暴力を振るわれていて、お母さんは滅多に家に帰らないし、晩御飯は用意されないので、酷い時はその辺の雑草を食べてました。クローバーとか意外と美味しいですよ。……引いちゃいました?」
少女、雨宮絵里というらしい……は、意外にも饒舌だった。 こうして、不幸話を延々と続けているが、何故か表情は明るい。
「あ、私ばっかり話してますね。良かったら博さんもどうぞ」 突如、ターンが回ってくる。
しかし、こんな時に何から話したらいいのか、さっぱりわからない。
「まず、俺には両親がいない」
ぽつりとこぼした言葉を聞いて、明るかった絵里の表情が一気に暗くなった。
「祖母とずっと、二人で暮らしてる。飯も食えてるし、痛い目にもあった事はない。だから、雨宮よりはマシだ」
やはりボソボソと、呟いた俺の言葉を聞いて絵里は戸惑ったように、にへらと不思議な笑顔を見せた。
「私も辛い、博さんも辛い、わざわざ辛いに順序なんてつけなくて良いじゃないですか」
その通りだと思う。思うけれど、俺は自分の上手な慰め方を知らない。
夜の帳が降りる、そのくらいになって絵里がぽつり「帰りたくないな」と呟いた。
「何が悲しくて殴られる為に帰らなくちゃいけないんだろう」その独白は続いた。
「そういうのって相談する施設とかないのか」
俺が、尋ねると絵里は困ったように笑った。
「私って馬鹿だから、両親の悪口言えないんですよ。保護観察官の人に嘘ばかりついて、痣とか傷とか隠しちゃって、だからまた同居になって、ほんと馬鹿だなあ」
頰には涙が伝っていた。 「帰りたくないなあ」 絵里が泣きじゃくるのをみて 俺は 「じゃあ、帰らなくても良いんじゃないか」 と呟いた。
きょとんした顔の絵里が此方を見る。
「行くあてとかないのか? 無いならそれでもいい。オンボロスクーターで良ければ、何処へだって連れてってやるよ」
俺の気障な台詞に、ふふっと溢れるように絵里は笑い、それから幾度も頷いた。
スクーターは本来二人乗りじゃない。しかし、十八という年齢の割にやたらと軽い絵里を乗せても、どうやら動きそうだ。
「行き先は、河口湖でお願いします。ずっと昔に見た光景が忘れられなくて」 そういうなら、そこで良い。どうせ、あてなんてないんだから。
「じゃあ、そこにするか」そんな軽いのりで俺たちの逃避行は始まった。
国道には出ず、なるべく裏道を通って八王子まで向かい、それから相模湖の峠を越えて山梨県を目指す。 県内に入ってしまえば、河口湖までは何とかなるだろう。スマートフォンのナビアプリだけが頼りだ。
「何かすっごく悪い事してる気分ですね」
絵里が悪戯をする子供のように笑うのを見て
「ああ、すっごく悪い事だ。きっと色んな人に迷惑がかかるんだろうな」
ははは、ふふふと何がおかしいのか二人して大笑いした。
二ケツで都心を突っ切る勇気はなかったので、埼玉を介して大回りに八王子へ向かう。
絵里は、安全のためにヘルメットを着用しているが、それでも不安なのか腰に手を回し体はぴったりと密着している。
夜も既に更けており、平日という事もあってか、大型トラックが多く走行しているものの、目立った渋滞はない。
夜の街はきらきらとおもちゃ箱のように光り、ネオンの怪しい煌めきが不思議な魅力と一抹の不安を誘った。
全身に夜風を浴びながら、走るのは気持ちが良い。それは都会の只中でも同じだった。
「なんか、青春って感じですねえ」 耳元で絵里がそう囁いた。
「悪い事してるから青春ってのとはちょっと違うんじゃないか」 俺が返事すると絵里は笑いながら
「バイクを盗んでないだけ、尾崎豊よりはマシだと思いまーす」 と悪びれずに言った。
「バイクじゃなくて、スクーターだしな、スケールが小さい悪事だ」 ここまでは何事もなく順調だった。
「ひゅーっ、お二人さん熱いねえ」
囃し立てるような声で、バイクの集団が並走……もとい俺たちを取り囲みながら走る。
奴らは今時珍しい、大きな旗を掲げた暴走族で名前は八王子ブラックジャックと言うらしい。
それは医者の名前では、と心の中でツッコミを入れた。
大騒ぎされて、俺としては迷惑きわまりなかった。が、絵里の方はというと
「いぇーい」
といかつい金髪モヒカンヘアの男にノリで立ち向かっているので、満更でもなさそうだ。
何というか、俺より場馴れしている感じさえする。
「にいちゃんたちはどこ行くのさ?」
リーダーらしき、ゴーグルをかけた腕から背中まで入れ墨の入った男の問いに 「ちょっくら河口湖まで」
と返すと、奴らはたいそう楽しげに 「そのオンボロで頑張るねえ。峠道もつといいな」と笑っていた。
まあ、別に悪気があるわけじゃないんだろう。 少なくとも俺らに対しては、敵意を感じない。
奴らは 「じゃーなー、俺らこれから集会あるから先行くわー!」 というリーダーの声に合わせ、それぞれ「頑張れよー」なんてバカ騒ぎで走り去って言った。
「楽しい人たちだったね」 と後ろの声に 「絡まれなかったのは、運が良かっただけだろ。ああ怖かった」
と返せば 「意外と臆病なんだね」 なんて絵里はくすくす笑った。
道なりに行けば高尾山までもうすぐという大通りを走っていた時だった。 多分、気が緩んでいたんだと思う、突然パトカーのサイレンが響き渡った。
「前の二人乗りしているスクーター止まりなさい」と明らかに俺たちを制止する声。
「げっ、まずいな。どうすっか。捕まっても、適当に誤魔化せるか?」 と、独り言ちると 「逃げちゃえないかな。私、身分証ないし」 と絵里が恐ろしい事を言った。
それなら、結局は逃げるしかねえじゃないか。 俺は制止を無視して、ハンドルを強く握りしめた。
「止まりなさーい」 荒げた声がパトカーから響く。
流石にスクーターで、しかも二人乗りじゃあ、車から逃げ切るのは不可能に近い。 それでも、疎らに車がいるおかげで、ジグザグ走行で何とか付かず離れずを保っていた。
流石に限界が近い。そう思った時だった。
嶋大輔かと言わんばかりの昭和的なコール音を辺りに響かせ、現れたのは八王子ブラックジャックの面々だった。 速度を合わせながら、俺たちを庇うように背後を蛇行運転している。
「よう、また会ったな。一体誰がポリ公とチェイスしてんのかと思えば……まさか、にいちゃんたちだったとはな」
そう言って、リーダーらしきゴーグルを目深に被った男が手を振る。
「今、雄介が……あっ、モヒカンの奴な。あいつが、ケツ持ちしてっからとっとと逃げな」
そう言って男は、ゴーグルを脱ぎ捨てる。その下は結構なイケメンだった。
「なんか、悪いな」 俺が頭を下げると、男はそれを制した。
「なんの、別に俺らはポリ公と毎日チェイスしてっからお手の物よ。それに、お前らまだ若いだろ」
男の言葉に思わず「えっ」と声が出る。
俺から見ても男はまだ若く、同年代か一個上くらいに見えていたからだ。
「何があったか知らねえけど、俺も俺の後輩たちも苦しい思いした奴らばっかだ。辛いときは俺も先輩に助けて貰ったしな。ワルにもワルなりの生き方、優しさってのがあんのよ」
そう言った男は爽やかな笑顔を浮かべていた。 ああ、俺は何となくその言葉の意味がわかった。
俺が公園で絵里と出会った時、同類だと感じたように、この人たちもまた俺らを同類だと感じ、手を差し伸べてくれたという訳なのだろう。
「じゃ、無事に河口湖から富士山、眺められるといいな」
そう言って、男はサムズアップし、速度を落として後ろのどんちゃん騒ぎへと加わった。
「いい人たちだったね」絵里の素直な言葉に俺は「そうだな」と晴れやかに返した。高尾山はもうすぐだ。
高尾山を抜け、相模湖の峠の途中にあるローソンで休憩を挟む。ここからは根気勝負だ。
俺たちというよりは、こいつがもつかどうかだ。顔も知らない爺ちゃんの形見に、静かに祈るのだった。
峠は流石に車も少なく、山の頂点近くまでくると、一面に星空が広がった。路肩の休憩所に、スクーターを止める。
「すっごく綺麗。私、本当に小さい頃以外、千葉から出た事なくて、星空なんて見られなかった。すごいね」としきりに感動していた。
千葉でも、松戸辺りに住んでいたら確かにあまり星は見られないだろう。 俺も、こんなにプラネタリウムみたいな星空を見たのは初めてだと思う。
「あれが、デネブで、アルタイルにベガ」
一際大きく光る三つの星を絵里が興奮気味に指差した。
いまいち、わからないが三角形になっているらしいので、あれとあれとあれなんだろうと、おおよそあたりをつける。
「星に詳しいんだな」と俺が言うと「歌で覚えただけだよ」と絵里は笑った。
「おおー静岡に入ったー」楽しそうに絵里が叫んだ。
「また、神奈川に入って、もう一度、静岡に入ったら、そろそろ山梨が見えてくるぞ」 そういうと絵里が 「私たち、流離ってるねー」と笑う。
思わず「さーすらおーう、こーのせかーいじゅーうをー」と奥田民生の名曲を口ずさんだ。
「ころがりつづけて、うたうよー」と絵里が続けたのでしばらく二人で熱唱した。
甲府という標識が見えてくる頃には、既に空も白んで来ていて、藍の空に浮かぶ明けの明星が燦然と輝いていた。
絵里は器用にも俺にもたれかかったまま眠りに落ちており、起こさないよう静かに運転を続けた。
その時、空に一筋の星が流れた。 何か、願い事をしようとして……見当たらない。 俺は、一体何がしたかったんだっけ。
過去のいろんな場面を思い浮かべてみるも、それは灰色をしていた。 夢とかあったら、俺の人生も少しは違ったのかな。
そんな事をぼんやり考えながら 「雨宮が幸せになれますように」 とだけ小さく祈った。
「おはよう」 と絵里が目を覚ましたと同時に、感嘆の声をあげた。
目の前には河口湖と大きな富士山が望んでいる。 天気は快晴、雨男の俺にしては上出来だった。
「着いたよ、お疲れ様」と労うと、感極まった絵里はいきなり俺を正面から抱きしめた。
運転中はずっと後ろからホールドされていたとはいえ、何故か気恥ずかしく思えて、そっと抱きしめ返した。
「小さい頃はね、お父さん殴ったりしなかったんだ」
山梨名産のほうとうを食べながら、並んで湖を眺めていた。
「河口湖でね、大きな花火大会があってね。連れて行ってくれたんだ。あの頃は何もかも上手くいってたな」絵里は遠い目をして笑った。
「なんでなんだろ。会社が倒産しちゃったからかな。でも、別にお母さんと私はそんなことじゃお父さんの事、嫌いにならなかったのに」
ずるずるとほうとうを啜りながら、俺は相槌を打った。
「わかんねえよな。親のことって、あいつら何も教えてくれねえんだもん」それは心の奥から溢れた声だった。絵里はうんうん頷いていた。
「少しくらい分けてくれれば良いのにね。一人で勝手に背負って、勝手に潰れて、それで滅茶苦茶されてもどうする事も出来ないのにね」 今度は、絵里のその言葉に俺がうんうんと頷いて返した。
一息ついて、俺は横目で絵里を見た。長い髪が風に煽られて水面のように波打っていた。 その表情は、楽しいような、悲しいような、曖昧だ。
「すっげえ、暗い話だからさ。覚悟があれば聞いて欲しい。こんな話、誰にも出来なくてさ」 俺は俯きがちに言う。
すると「聞くよ、なんでも」と少し真剣な表情で絵里が返した。
「小学六年生の時、家に帰ったら父さんと母さんが死んでた。銃で撃たれてさ」 絵里は少し驚いているものの、すぐに俺の目を見つめ直した。
「父さんは警察官だったんだ、だから銃を持ってた。母を撃ったのは父さんで、父さんを撃ったのも父さんだった」 絵里は「お父さんがお母さんを殺して、自殺したってこと?」と尋ねるので、俺は頷いた。
「なんで、とかどうして、とか色々あったけど。一番に思った事は、寂しいって気持ちだった。なんで、俺のこと一人にしたんだよ、馬鹿野郎って、やり場のない怒りは今でも残ってるよ」
ボロボロと涙が頬を伝った。 それが情けなくて、思わず顔を抑える。
「なんでだよ、なんでなんだよ」 意味のない、反芻を繰り返しながら、涙を流していると絵里が俺を抱擁した。
「寂しいよね、私も寂しかった、ずっと。痛いし苦しいし、誰にも助け求められないし。何が悪いとか、どうすれば良かったとか、考えてもわかんないし」
絵里は涙をこらえるような声色で、絞り出していた。
「いっそ、生まれてこなければ良かったのにって何度も思った」 俺は思わず、絵里に体を寄せた。そうして、しばらく二人で泣きじゃくった。
「これからどうしようね」
白鳥ボートの漂う湖をぼんやり眺めていた時だった、巡回していた警察官がこちらを見て何かを合図した。
そろそろと二人組みの警官がこちらへ向かってくる。
俺が「逃げるぞ」と慌てて絵里の手を引くも、彼女は笑いながら首を横に振った。
「楽しかったから、もう大丈夫だよ。これ以上は、酷い目にあっちゃうかもしれないし。私のせいで、博くんが何年も刑務所に入ったら嫌だから。ありがとう、ごめんね」 ぼろぼろの笑みを浮かべながら、俺に頭を下げて背中を見せた。
「強がるなよ、ひどい笑顔だぞ」と呟いた声は、恐らく届かなかった。 絵里が背の高い警官にパトカーへ乗せられる。入れ替わりに、痩せ型でメガネの警官がこちらに来た。
「とりあえず、署で話を聞くだけだから、大丈夫。今すぐ逮捕って訳じゃない」 そうして、俺たちは連行された。
「そっか、千葉県から来たんだ。あのスクーター大分ガタが来てたよ。峠で故障してたらどうするつもりだったの」
優男風のメガネ警官は、田荘さんというらしい。
田荘さんに話を聞くと、八王子の時点で既にナンバープレートが割れていて、nシステムで追跡されていたようだ。
「どうもこうも、本当に何も考えてませんでしたから」 俺がぼんやりと、あの鏡ってドラマの相棒が正しければマジックミラーなんだよな、と部屋を眺めていた。
「無謀だね。若さゆえかな」 田荘さんも遠い目をしている。
「自分には何もないからですよ。黒子のバスケ脅迫事件の犯人も言っていたでしょう。無敵の人は怖いって。何もないから、どんな無謀な事だって出来る」そう呟くと、田荘さんは首をかしげた。
「君は、まだ若いし、未来があるでしょう。何もなくはないんじゃないかな」 と心底不思議そうな顔をした。
「さあ、少なくとも、未来が希望だと思えた事はないですよ」 と答えると「そうなのか」と柔らかい返事をされた。
少しして、取調室のドアがノックされると新しい警官が入って来た。男性は相沢というらしい。
「井伏君だね。井伏幸太郎さんの息子か、大きくなったね」 相沢さんの口から突然飛び出た親父の名前に、狼狽した。
「親父の知り合いですか?」
その問いに 「ああ、君が知らないのも無理はない。会ったのは、君がまだ赤ん坊の頃だったからね。先輩には随分お世話になったよ」と答えた。
相沢さんは、元は東京都で警察官をしていたが、色々あって山梨へと飛ばされたらしい。
偶々、調書で俺の名前を見かけて、本来はいけない事だが、どうしても、と話をしに来たみたいだ。
「それにしても、正義感からだろうけど誘拐なんて真似して……まあ、無謀な所は先輩似かな」 と相沢さんは怒るでもなく笑った。
「彼女。雨宮絵里さんはまだ16歳だからね、未成年者略取の罪に問われるかもしれない」
「え」
その時、初めて俺は彼女に年齢を詐称されていたことに気がついた。 しかし、もはやそんな瑣末な事はどうでも良かった。
「そんな事はどうでも良いんです。絵里は、親に酷い虐待を受けていて、お願いです。絵里を両親に返さないでやって下さい。親が来ても、追い返して下さい」
俺は、机に頭を何度も打ちつけながら懇願した。「落ち着いて」脇に控えていた田荘さんが慌ててそれを制止する。
「君たち二人は似た者同士だね。雨宮さんも、私が唆したんです。博さんは全然、悪くないんです。むしろ、私を助けてくれたんです。捕まえるなら私にして下さいって泣きじゃくってね」
後ろで田荘さんが「まずいですよ」と小さく相沢さんを窘めたが、どこ吹く風といった調子だ。他者の聴取を漏らすのは、厳禁らしい。
「雨宮さんが虐待を受けているらしいのは、婦警の話で何となくわかったよ。全身に痣や火傷の跡があったみたいだからね。それで、おおかた未成年二人が、スタンドバイミーみたいな大冒険を繰り広げたんだろうって」
その言葉に一瞬表情が緩んだが、相沢さんの顔つきは鋭いままだ。
「でも、僕たちは警官だからね。適切な手続きを踏まなきゃ、彼女を保護する事も出来ない。それに、法を犯した以上は罪を償ってもらわなければならない。理不尽だし、悲しいことだけれどね」
そう言った相沢さんの表情は沈痛だ。
「それは良いです、覚悟はありましたから」 相沢さんはしばらく俺を見つめ、それから手元の資料を集めて、立ち去る準備をした。
「そうだ。最後に父のことだけ教えてくれませんか」相沢さんは怪訝な表情をした。
「何をしりたいんだい?」 俺は率直に尋ねる。
「父はどうして、母を殺してしまったんでしょうか。何か知ってますか」 相沢さんは、暗い顔をした。
「知らない方が良いかもしれないよ……なんていうのは無粋だったね。覚悟はできてる表情だ。話そう」
そういってぽつりぽつりと絞り出すように言葉が紡がれていく。
「幸太郎さんは愛妻家だったよ。惚気話が鬱陶しいくらいにはね。君のお母さん、純子さんの事をとても愛していた、それは本当だよ」 相沢さんの言葉に思わず
「じゃあ、何故父は?」 と疑問が漏れる。
「純子さんはね、過ちを犯してしまったんだ。幸太郎さんを裏切ってしまった。……浮気だよ。それを知った、幸太郎さんは、キツく問い詰めた。そして、堰を切ったように、二人は隠していた胸の内を曝け出しあい、大喧嘩し、後は君の知っての通りさ」
その話を聞いたとき、初めはしょうもないな、と思った。 そんな事の為に、俺はあんなに辛い幼少期を過ごしたのか。 深くため息が出た。
「話してくれてありがとうございます」 俺が頭を下げると、相沢さんは首を横に振った。
「でも、僕から見た幸太郎さんは良い人だったよ。それは事実だ」 相沢さんのその目に嘘はなさそうだった。
きっと、本当に父は良い人だったのだろう。ただ、間違えただけだ。 そこで考えが変わった。
「なんか、良くも悪くも、すごく人間らしいなって思いました。親だからとか、大人だからとか、警察官だからとか、そんなのあまり関係ないですよね」
結局は完璧な人間なんて居ない、それだけの事だろう。 そう思った。
平穏な家庭で、平穏に愛されたかった、それは子供の勝手な期待だ。 子供には子供の、そして親には親の、それぞれの事情がある。
そして、みなが意思を持った人間だ。 正しい、とか間違い、とか人の感情はそんな風に簡単には区切れるようには出来ていない。
そして、それを他人の視点から裁く、そんなことに果たしてどれだけの意味があるだろうか。 今の俺には、まだ何もわからない。
わからないが。 とにかく、俺は俺なりに正しいと思った生き方をするしかないのだ。
それがどうだったか、なんてことは後で悩めば良い。どうせ誰にもわからないのだから。 多分、生きるとはそういうことなんだろう。
「僕からは何も言えない。だけどね、少なくとも君が間違ったことをしたとは思わないよ」 相沢さんのその言葉がやけに心に残った。
留置所に二週間ほど滞在したあと、絵里の証言やら何やら色々あり結果、無罪放免された。
沢山手続きがあったが、いまいち覚えていない。 一番ショックを受けたのは、留置所内では名前ではなく番号で点呼される事だろうか。 何だか、人間扱いされていないようでおぞましかった。
高校は、一ヶ月の謹慎処分が下されたものの、何とか退学にはならなかった。
祖母には沢山迷惑をかけたが、叱るよりも先に心配してくれたのは素直に嬉しかった。 しかし、老体に鞭打って、山梨まで車で迎えに来てもらったのは、本当に申し訳なかったと思っている。
そうして、一ヶ月ほどでめでたく元の日常に戻った。 絵里はどうしてるかな、ちゃんと両親からは逃げられたのだろうか。 そんな事を考えていたころ、一通の手紙が届いた。
" 井伏 博さんへ。お元気ですか、と私が言うのは何か違う気もしますね。
嘘をついてしまった事、迷惑をかけてしまったこと、本当にごめんなさい。
あの後、私は勇気を出して父と母の虐待を訴え、今は避難シェルターで暮らしています。
現在、私は定時制高校に通いながら、大学へ進学することを考えています。 毎日バイトと勉強ばかりで大変ですが、草を食べて過ごすよりはマシかなあと前向きに暮らせています。
それもこれも、あの日、博さんが罪を背負ってまで河口湖を見せてくれたお陰です。 あの日の思い出があれば、この先もきっと強く生きていけそうです。
この度、バイト代で新しくスマートフォンを購入し、LINEを導入したので下の方にIDを書いておきます。 もし、私とこれ以上関わるのが嫌でなければ連絡くれると嬉しいです。 雨宮 絵里 "
読み終えた後で、すぐにIDから友達検索をした。
そして、すぐに 「久しぶり。手紙読んだよ。雨宮が幸せそうでよかった。俺は元気」 と、フリック入力でメッセージを送る。
すると、数分で既読がつき返信がきた。 「わっ、お返事が来た! 嬉しい!」 という短い文章の後に、ハートを飛ばすうさぎのスタンプが貼られる。
「えっと、これからもLINEしていいですか?」 という、問いに「もちろん」と答え、それから暫く、日常の他愛もない会話をした。
十八の夏は憂鬱だ。それは、これからも生きている限りずっと続く憂鬱なんだろう。 しかし、憂鬱は共に乗り越える人がいれば青春に変わる。
僕らの青春を大げさにいうのならば、きっとそういう事なんだろう。 そんなことを、返信が来るたびに、にやける面で考えていた。
まずは、最後まで読んでくださった一人一人に礼を言いたいです。ありがとうございます。
この作品は、出川哲朗さんが充電する場所を探しながら旅をする番組を見ている時に思いつきました。色々と脚色してますが、登場人物と大体似たような経験をしたことがあって、あの時何処かへ逃げられたら……みたいなifでもあります。本当はもう少し掘り下げて、長めに書くつもりでしたが、辛くなってしまったので短くまとめてしまいました。もし、この文章を読んで、何かしらの感想を抱いて貰えたなら嬉しい限りです。