003 Psinの向こう側へ
(^ω^)精進します。
始業式から一週間が経過した。
アメリカで170件、ヨーロッパで140件、アジアで130件。Psin行方不明者の増加に歯止めがきかない状態だ。
ARnavi.を使用禁止にしているが、御構い無しに増加している。
ここまできたらARとか関係無いのではという意見も散見されるが、原因がわからない以上少しでも効果のありそうな手段を講じる他無い。
ごく一部の人はテロの可能性も考えていたが、犯行声明も要求も無いので呆然としている。
だが、少し前から変化が起きていた。
人類の不安を具現化した様な靄や霧が、世界各地で多発し始めたのだ。
例年に無い異常気象で徐々濃くなる霧に、世界の終わりだと叫ぶ特殊な民衆が出始める。
日本は濃霧警報を陸上にも適応し、交通死亡事故多発警報を出した。
路面が湿気て滑りやすくなっているので、事故を防ぐために外出を控えるよう呼びかけている。
そんな日本の、束京近郊の高級住宅地にある邸宅の一室で、VRnavi.を使用しながら少女が横になっている。
VRnavi.はピーピーというアラートを鳴らし、LEDランプが点滅していて、10時間以上の連続運転を示していた。
しばらくすると音と点滅が止み、少女はVRnavi.を外すと大きく息を吐く。
「行方不明者に共通する決定的な物証は無し、か。唯一は共通のアクセス記録だけ。でもこれに手を出すと……。」──Psinに捕まるか?
そんなことを呟くのは朱だった。
朱はネットを調べていた。
緊急時の情報収集は必須であるが、今の朱は気が気でなかった。
何故なら朱の友達が三人とも行方不明であり、そしてそれだけに留まらず、クラスメイトの何人かも消息を絶っている。
この一億人以上いる日本で、何故こうも親しい人達が消えていくのかと愚痴を言いたい心境だった。
「navi.か。」
ネット上の情報では、VRやARに興味のある学生を中心に消えているらしい。しかしそれだけでは理由が弱い。
辿れない。
「もう一度だ。」
朱は不安で泣かない、落ち込まない。そんな暇があったら友人を捜す事を優先する。
再びVRnavi.を被り、朱は情報の海へ飛び込んでいく。
その日から、警告音を聞かない日は無かった。
※
数日が経ったある日、久しぶりの晴れ間が見える。
この日、学校は授業をする事にした。
何故、学校は授業再開を決めたのか?
それは引きこもっていた人々も行方不明になっている者がいて、家にいても安全では無いこと。
昼間にPsinと遭遇した事例が少ないこと。
そして薄暗い日が続き、外出できなかった生徒のメンタルケアを兼ねていることなどが挙げられる。
理由は弱いかも知れないが、泉英高校の校長のモットーが「生きるならば、明るく楽しく元気で在れ。」ということも関係している可能性がある。普段はかなり陽気で巫山戯た校長だが、今回ばかりは頼もしい。
朱は一人登校する。
まだ湿気が残る中、閑静な住宅地を進んでいく。
どこも変わった様子は無い。いつも通りの表情で、いつも通りの調子で歩き、学校へ登校した。
校舎の階段を上がり、教室に入って何事も無かった様に席へ着く。そして──寝た。机に突っ伏して、小さく寝息を立てて寝た。登校して5分も経たないうちに熟睡である。
皆はそれを咎めない。朱の人とナリがそうさせる。
そんな、皆はというと。
不安で眠れない者もいた。悲しみで枕を濡らす者もいた。不眠不休で手掛かりを探している者もいた。
誰一人例外無く、睡眠不足で隈ができている。
だが、少し様子の違う生徒もいる。
例えば田中屋。彼は彼女を誘拐した犯人に怒っていると同時に、自分の無力さに苛立っていた。
何故彼女がこんな目に、そして自分は何一つ出来ていない。そんな行き場のない荒々しい感情が渦巻く。
田中屋裕理と言う生徒は、普段は大人しい。しかし、気が弱いわけではなかった。何方かと言えば直情的な態度を見せる事が多い。
辛い目にあうと、溜め込まないのは良い事ではあるが、発散の仕方に注意しなくてはならない。
そんな中。朱の行動は田中屋にとって呑気な、何も悲しんでいない様に映る。映ってしまう。
普段の彼ならば絶対にそうは考えないし、行動にも移さないだろう。しかし、沸点の低くなった彼の苛立ちは朱へと向かってしまった。
誰も田中屋を責めることはできない。
朱がああ見えて、友人が行方不明になってから今日まで徹夜続きで捜していることなど、転校してきたばかりの田中屋に分かるはずもない。
剣呑な目で朱を睨みつけながら、田中屋はゆらりと席を立つ。そしてふらふらと歩いて行き、朱がいる席の側で足を止めた。
誰も止めない。まるでこれから起きる事から逃げる様に、席を立って離れる。
朱の人気からして誰かが止めそうなものであるが、止める者は居ない。この不自然さも、精神がおかしくなっている田中屋は気が付かない。
この数日、一人で家にいた彼は、周りが見えないほどに歪んでしまった。それほど彼女が好きで、大切に付き合っていたのだろう。
「おい。」
腹の底に響く様な苛立ちと怒りを込めた濁声で、朱に声をかける。
だが反応は無い。
「おい。起きろよ。」
不安を感じず深い眠りについている朱に、田中屋のフラストレーションが更に溜まっていく。そして。
「おい! 一人気持ちよさそうに熟睡するな‼︎ 」
田中屋は強引に朱の肩を掴み、引き起こして揺する。
それでも目を開けない朱に。
「起きろよ‼︎ 」
朱の右頬を、拳で殴りつけた。
朱は机や椅子を盛大に巻き込み、教室の壁に激突する。
ガゴゴッ、という物が移動した音が静まり、教室の騒めきも無くなった。
鼻息荒く立っている田中屋は、どこかやってやったという顔をした。そして大義名分を作る様に、苦々しげにこう言った。
「皆が不安でどうにかなりそうだってのに、呑気に寝てるからだ。」
少しおさまった心で、振り返り自分の席に座ろうと歩き出した。しかし席の側に来た時、朱の起き上がる音で足を止めた。
そして、怪訝そうに振り返った田中屋は見る。
自分が起こした悪魔の姿を。
※
田中屋を止めなかった理由。それは何か?
答えは、朱を起こさずに田中屋を収める自信が無かったから。
いつもの三人の友人や神沢や緒方は居ない。そして白根澤は田中屋の気迫に押されたため、止める事ができなかった。
この理由は、石和と入学式からの付き合いであるクラスメイトが、とある情報を石和から得てわかった事によるものだった。
それは"朱を起こしてはならない"というもので、朱が寝た時は自ら起きるまでそっとしておくこと。それが最善かつ平和。
だが、普段の生活がしっかりしている朱が、学校で寝る事など普通はありえない。
それでも、念のために言った石和は賢いのだろうか? 賢いと言えば賢いがどちらかと言うと、そう、例え1パーセントでも可能性が有るのなら、回避行動を取るほどに恐れていたのだろう。実体験済みと見て間違いない。
クラスメイトには田中屋が朱を起こす、ここまではまだ予想できた。
起きた朱がどんな行動に出るか興味が少しあったし、石和がいつに無くビビっていたため、田中屋もこれで止まってくれるだろうと思っていた。
正直、石和の尋常では無い汗の量を見て、田中屋を止めている最中に朱を起こしてしまうと、何かが危険に晒されそうな感じがしたのだが、それをはっきりと自覚する者は少なかった。
が、いきなり殴るに及ぶとは考えていなかった。
そして今に至る。
フラつきながら、朱は立った。
朱の瞳は瞳孔が開き、異様な光を帯びて黒色に黄色が混ざった様な色をしている。そして表情の抜け落ちた様な、能面のような生気を感じさせない顔で、田中屋を見ていた。
田中屋に殴られて、口の端を切ってしまったのだろう。舌で小さく舐めた。
……何というか、元々の朱の美貌と合わさってある種、人外の様な雰囲気を放っていた。
田中屋は少し驚きつつも言った。
「おい、少しは目が覚めたか?」
対する朱の答えは。
「──行方不明者を分析した結果。Psinとは自然現象に近い物であると判断。事件の起きた条件を精査し、PsinはVR・ARの世界に適性がある者の前に現れると推測。推測の根拠はPsinの選定基準、共通のアクセス記録──」
朱は矢継ぎ早に淡々と語る。
そしてゆっくりと田中屋に近づいていく。
一歩一歩踏みしめる様に。
「──Psinというネットワークがあるのでは無く、Psin事件があるから、インターネット上にPsinと呼ばれるモノが発生したと推定。Psin事件初期に、同様の靄が局所的に観測された場所が、行方不明者のARnavi.と最後に通信した送受信器の座標と一致し、且つ、全てにおいて同様のノイズパターンを検知──そして霧が晴れつつある今、残された時間は僅か。これ以上の情報収集は不可能と判断し、今夜Psinとの接触を図る予定。万全を期すため体力回復に努めるも、妨害が入る。よって妨害した者を排除すべきと判断し、戦闘不能にする──」
朱に圧倒され、クラスメイトは絶句している。
田中屋も途中から少し正気を取り戻し、冷や汗を流し始めた。
あれ? 何かまずくない? えーと、俺が自分で彼女を救う機会を逃した感が半端ないんですけど‼︎ ……と思うも、後の祭りである。南無三。
「ちょっ‼︎ 」
田中屋が何かを言う前に、朱はゴキッと肩を鳴らし──田中屋に肉薄した。
五、六歩ほど離れたところから滑らかな動作で一瞬で間合いを詰められ、朱の顔が目の前に来た田中屋は呆気にとられる。
そして相手の右フックをなんとか左腕で防ぎ──強烈な右の中段蹴りを腰に喰らって吹き飛ぶ。身体が押し上げられる嫌な浮遊感。
箍が外れた朱は、体のリミッターも外れていたようで。
ガシャン!!
窓硝子が割れ、田中屋は外へと投げ出された。
忘れている人も居るかも知れないが、この教室は校舎の三階にある。地面に頭から行くと最悪即死、良くて骨折。地面が柔らかかったり、何かに引っかかれば軽傷。
花壇や植え込みがある事を祈ろう。
不意を突かれて吹き飛ばされた田中屋は、頚椎捻挫、所謂むち打ち症になりつつも何とか堪えたが、窓にぶつかった衝撃でバランスを崩し、地面に背中を向ける格好になってしまった。背中や頭は痣ができるかと思うほど痛い。
気持ちの悪い落下の感覚があり、背後から死神が迫る様な冷たい風と悪寒が田中屋を襲う。
徐々に風が強くなり、覚悟した田中屋は目を瞑り──
気がつくとゴミ袋を集めたコンテナに突っ込んでいた。
幸運にも、落下した所に有ったゴミ捨て場のゴミ袋がクッションになったようだ。
しかし、着地した時咄嗟に力んだ両腕の指の何本かは、変な方向にぐにゃりと曲がっており、一部のゴミ袋から飛び出ていた鋭い棒が左太腿を貫いていた。
貫通した棒の根元から血が滲んで制服を汚し、腰にも激痛が走る。
「いってぇ……。」
埃が舞う中、田中屋は顔を歪め無意識のうちに額に手を当てて、空を力無く眺めていた。
※
Psinの選定基準は、検索したwebページの種類。
特にMMORPGの攻略サイト等のVR内の動きに関するものや、古参プレイヤーが出入りする類の物である。
朱が未だに行方不明者に入っていなかったのは、そのようなページをあまり好まなかったからだ。
さて、先に述べた通り。ネットのPsinが現実に影響を及ぼしたと考えるより、行方不明事件の原因がPsinと言う氷山の一角として現出したと考える方が現実的であり、受け入れやすいだろうと思う。
又、Psinの本体は怪電波を発する。そしてそれをノイズとして受け止めるARnavi.は、Psinの入り口を見つける上で必須である。ここで断っておくが靄や霧イコールPsin本体とは限らない。Psin本体と靄や霧の因果関係は有ると思うが、本体では無いと考える。何故なら屋内に退避している人々の中にも行方不明者がいるからである。
各国が講じていたARnavi.禁止令は、Psin本体の忍び寄る魔の手を避ける上で逆効果だったというわけだ。
少し特殊ではあるが、一介の高校生である朱が調べられたのだ。海外の警察組織や情報部はまず間違いなく把握している。
断言できる根拠は、朱が手に入れた情報の中には警察のサーバにも、お邪魔して収集してきたものもあるから。……非常事態です。
しかし、今の所政府はPsinについて何も言わない。 対処のしようが無い為、パニックを起こさないよう努めているのかもしれない。手遅れだと思うが。
Psinは何故、人を飲み込むのか。適性は何のために必要なのか。
朱は、Psin本体と接触したらわかるだろうと考えている。
サラッと流していたが、今夜決行である。
朱は情報を整理し、目覚めた。
目覚めると朱は机に突っ伏していた。
耳だけ傾けると辺りが騒がしく、サイレンの音も聞こえる。
右脚がジンジンと痛むが、無視だ。どうせまた、誰かが無理矢理起こそうとしたんだろうと結論付ける。
……どうやら被害者が昔からいたらしい。例えば幼馴染とか。
そんな慣れた様子で、やり過ごそうとした朱の元に当人がこっそりやって来た。そして小声で声をかける。
「起きてるよね? 寒気がしなくなったからわかるよ。」
石和の言葉に朱は微動だにしないが、ポツリと一言。
「二度寝する。」
朱は安らかな寝息を立て始めた。
──────────────────────────────────────────────
朱は結局起こされなかった。
精神状態が不安定であることを学校が主張したり、朱と仲が良く事情を把握している小屋敷家も警察にそれとなくお願いしたりして、他のクラスメイトから軽く話を聞くに止めたからだ。
皆が、特に田中屋の精神異常を強調して話す辺り、流石朱のクラスメイトと言う所だろう。まあ、幾ら何でも八つ当たりで女子を殴るとか引くわー、みたいな意思の統一が自然となされたのだ。
過剰防衛? なにそれ? 美味しいの? と言った様子である。
病院で頭を抱えて後悔する、田中屋の哀れな姿が目に浮かぶ。流石に本人も、八つ当たりしてしまった相手が不味かったと思った様だ。まあ、八つ当たり事態不味かったと思わないあたり、まだまだ精神が不安定なのだろう。
逆に微笑ましい光景は、朱が暴れた時に教室の隅でうずくまりひっそりと震えていた金野の姿だった。本人はバレてないと思っているが、皆はわかった上でそってしている。
明日から生暖かい目で見られることだろう。
終礼で起きた朱は、さっさと家に帰ると準備を始めた。
──Psinと接触したらどうなるかわからない。でも、容易に帰る事が出来ない事は確かだ。だから出来る限り備える。
朱の父の趣味の一つである登山用品から拝借する事を決めた。
大きな登山用リュックに、水は1.5Lのコップ付き水筒一つと500mLペットボトル3本、固形タイプの非常食10日分、サバイバルナイフ、ペンライト、ランタン、寝袋、レジャーシート、タオル、方位磁針、双眼鏡、マッチ、ロウソク、虫除けに医療キット。
あとはファイアスターターなる着火用具やシリコン製の折り畳み式バケツ、伸縮性のスコップ、発煙筒や発炎筒を拝借。
あとは……テレビでちょっと便利だと聞いた事があるケミカルライトや無香料のトイレットペーパー。
カラビナとスリングとかいう奴も便利だ、と朱の父が言っていたのでリュックの外に引っ掛けておく。ついでに御守りとしてペンギンのぬいぐるみストラップも。
──少し多いか? でも、これくらい無いと……
朱はリュックを少し持ち上げてみた。
──重さは大丈夫。あとは向こうでどれだけ水や食料があるか。服は……別に無くても良いけど、衛生面から下着を数枚入れとく。トイレは、羞恥心をかなぐり捨てればいけるな。携帯、トランシーバーは論外。連絡できれば行方不明とかになって無いし。
問題は服装だね。うーん、接触していきなり自分の消滅は勘弁して欲しいが……よし、ポジティブに行こう。山、森……砂漠や海、雪山に放り出されたら嫌だなぁ。まあ、何処に行っても長袖長ズボンは基本だけど。
登山のオールシーズンの格好で行こうかな? 兎に角、沢山来て行くか。
父が友達と登山に行ってハマったから、私たちの分も買ってたのは丁度良かった。
そうこうしていると、窓の外に夜の帳が下りていた。
朱は調べていた、リュックに効率良く詰める方法で手際よく準備を完了した。
──さて、問題は両親に何て言おうか。
そんな事を思案しつつ、荷物を持って階段をゆっくり下りる。
そして書き置きを残すことに決めた、その時。
「行くのか?」
そんな声が聞こえた。
朱は階段を降りた所の玄関で振り返ると、目の前の廊下に両親が立っていた。朱は動じること無く答える。
「うん、ちょっと友達が迷子らしいからね。探しに行ってくる。遅くなるかも。」
軽く、ちょっと出掛けてくる様な口調で話す。バレているかもしれないが、いや、間違い無く父は分かっているので、誤魔化さない事に決めた。
「そうか、決めたんだね?」
孝の優しい問いに、朱ははっきりと頷く。それを見て、孝は溜息をつく。
「家族として心配しているし、本来なら止めるべき所だろう。」
孝は続けてはっきりと語る。
「しかし、一方で、子供の意見を尊重したい自分がいる。さて、朱の本音は友達を助けるだけが目的じゃないんだろう?」
孝の言葉に朱は微笑み。副音声で言うと、もし皆んなが亡くなっていても、めげずに生きろと言ったところか。
「流石お父さん。はっきり言うと、向こうに何があるのか知りたい方が大きいかな。みんなは心配だけど、簡単に生きる事を諦める人達じゃ無いし。それに。」
ニヤリと笑って続ける。少しぎこちないのは、強がっている所があるからだろうか。
「ノンフィクションのMMORPGソフトを一本作ろうかなと。」
「買った。」
孝は即答した。そして朱と同じ冗談交じりの笑顔を浮かべ、続けて言った。
「朱、少し早いが社長命令だ。最高の一本を創って来い。企画倒れは許さん。」
「了解しました。」
朱は戯けて笑顔で応える。不器用な親子だと思う。
希子はおっとりと微笑みながら、二人を見ていた。
「朱、私からは一つだけ。」
「何?お母さん。」
「生きて帰ること。」
「はい。必ず戻ってきます。」
朱は希子に微笑み返す。
「えー、こほんっ。そんな朱の無事を祈って。」
孝が急にそんな事を言った。
朱は不思議そうに首を傾げて、孝を見る。
「小屋敷家から餞別だ。護身用に持って行きなさい。」
そう言って、足元に置いてあったアタッシュケースを朱に渡す。
朱は小屋敷家の名前を聞いて、察した。
「使った事無いんだけど?」
「小屋敷のおじさんから、四人に護身術やら防具の扱いは教えたって聞いたけど?」
孝はニヤニヤしながら首を傾げた。イラっとくる。これはからかっている顔だ。
「どんな危険があるかわからないし、対抗できる力があると便利だと思うよ?」
「いやいや、手に余る力は自分を危険に晒すとも言う。」
朱と孝はギリギリとアタッシュケースを押し付け合っていた。笑顔で。
「いやー峰倉家で手に余る力か、そんな物があったらお目にかかりたいね。」
「いつかその傲慢さで滅ぶ時が来るんじゃ無いかな? お父さんは一度痛い目を見たら良い。と言うか、見ろ。」
アタッシュケースが壊れそうだ。頑丈さが売りなのに。
急に孝は真顔になった。
「お父さんは痛い目に遭っても良いが、朱には遭って欲しく無い。」
「はぁ、これで自分が本当に痛い目に遭っても良いと思って言ってたら、どれだけ良いか。……わかった、持ってく。」
朱は溜息をついて、やれやれと首を振るオーバーリアクションをした。
渋々受け取った朱は一歩下がり、背筋を伸ばして二人を見た。
「行ってきます。」
「「行ってらっしゃい。」」
朱は玄関を開け、外に出た。
※
外は靄が出ていた。だが、捜索に支障は無い。
朱はARnavi.を装着し、捜索を開始した。
「事件は夜に起きている事が多い。それも人通りの少ない狭い場所。Psinが発する怪電波のパターンは登録してあるから、近くに来れば光で示してくれるはず。」
朱は暗闇に沈んだ住宅地を進む。
「へぇ、よく見ると細かいPsinの入り口が疎らに開いてるんだ。」
ARnavi.に映る光景は、光の球体が浮遊している幻想的なものだった。
──球体? へぇ、周りに実体を持った霧が出てるね。
ただ、人が入れるほど大きなものは近くに無い。
しばらく歩いていると、路地の行き止まりそれを見つけた。
──眩しい。
白く発光した球体が幾つも合わさって、まるで大きさが不揃いの丸いサボテンが、所々ズレながらも重なって、タワーの様な塊を形成している状態だった。
朱はARnavi.外して見た。
発光体のあった場所だけ、僅かに風景が歪んでいた。普通に歩いていたらわからない程の小さな歪みだった。
──ふむ、入り口がわかりにくいね。Psin本体が原因で発生したであろう靄は、人が消えるのを目撃されにくくしてる。
朱は歩いて歪みに近づいていく。勿論ARnavi.を掛けたまま。
「峰倉さん。」
突然、背後から声が掛けられた。
朱がゆっくり振り向くと──白根澤がいた。
「……どうしたの?」
朱は世間話をするように問うた。努めて明るく、だ。
白根澤は黄色のワンピースに突っ掛けのサンダルを履いた、夜に出るには少し寒い格好をしていた。
「行ってしまうの?」
声が震えていた。
白根澤の声は普段の強気な態度とかけ離れ、弱々しい。しかし、それがはっきりと聴き取れるほど静かな夜だった。
「ちょっと散歩のついでに、迷子を捜して来ようかと。」
白根澤は唇を噛んだ。
「貴方のそういうとこ、嫌い。」
白根澤は朱から少し目線をズラした。そして少しの間だけ下を向き、気を取り直して朱を見た。
「私も一緒に行く。」
「駄目。」
即答された白根澤は言葉に詰まるが、何とか声を絞り出す。
「どうして?」
「圭子には、こっちでクラスのみんなが無茶をしない様に見張って欲しい。」
朱は出来ればそうしてくれたら嬉しいな、と言う感じだった。それに、圭子が取り巻きと協力すれば何とか場を治められるかも、とも思ったりする。
白根澤は驚いた。
白根澤が"峰倉さん"と呼ぶ様に、朱もさん付けで"白根澤さん"と呼び方を合わせていた。白根澤が少し距離を置く様に、朱も距離を置いていた。先程までは。
今、朱は圭子と呼んだ。それだけ普段とは異なる、大切な要件なのだろう。そしてその内容が、仲間を見張ること。この二つが白根澤にとっての驚きだった。
「みんなが無茶をするって、可能性があるの?」
白根澤は恐る恐る聞いた。
「うん、圭子がここに来たってことは、色々喋っちゃったみたいだし? 形振り構わずPsinに接触する人が出るかもしれない。」
返ってきた答えは肯定だった。『少々大きな寝言』を言ってしまった自覚はあった。
朱があの時話した中で、特に焦りに拍車をかけそうな情報は、Psinが開いている時間はあと僅か、という所だろう。
「そう……私が行っても足手まといになりそうだし、わかったわ。」
白根澤は渋々了承する様に言う。少し手から血が滲んでいた。そして続けて。
「……必ず帰ってきて。」
「うん、わかった。」
朱はサムズアップして、Psinの方へ振り向いて歩き出した。そして手前まで来ると、もう一度振り返る。
「じゃ、任せたよ。」
「……任せなさい!」
片手を挙げて挨拶した朱に、白根澤は弱気な心を振り払うように気丈に返した。
朱は再びPsinへと歩き出し。歪みの中へと消えた。
──さて、鬼が出るか蛇が出るか。何も無かったらそれまでだけど。
朱はクスリと笑って見せた。
────────────────────────────────────────────────
チチチチチチチ
ピヨロロロロ
風が頬を撫でる。虫の音や鳥の声が聞こえる。暖かい陽射しが体を包み込み、体の芯から温めてくれる。
朱は思った。
──寝たい。このまま寝たい。
とても呑気な感想だった。そして朱らしい感想だ。
寝そべっていた朱はゆっくりと起き上がり、辺りを見回す。
「うん、砂漠や雪山じゃなくて良かった。」
朱は森の中の、草が生えた小高い丘の上にいた。
色とりどりの木々が生え、空には鳥も飛んでいるし島も飛んでいる、清々しい青空が広がっていた。
朱は立ち上がり、背伸びをする。
「うん、良い天気だ。……島が飛ぶって何だ?」
朱は再び空を仰いだ。
空には正八面体を宙に浮かせた様な、山が漂っていた。
「うわぁ、空島だ。ファンタジーだ。」
朱は呆然と見上げる。
少し遠くにあるので霞んで小さく見えるが、エベレス卜に迫るのでは?と思うほどだ。エベレス卜は写真でしか見た事無いが。
空島は雲を纏っていた。それはそれは雄大な景色だった。私は心のシャッターを切る──何処かの作品にそんな言葉があった気がする。
朱は空島を見ていて、違和感を覚えた。
そう、それは──何かあの鳥、縮尺おかしくない?──と。
「……待てよ?」
朱は素早くウェストポーチから、双眼鏡を取り出して構える。
そして先程まで眺めていた鳥を見る。
朱は口をあんぐり開けた。
「……下級竜種」
ファンタジーの世界でお馴染みの、ドラゴンである。
鳥だと思って眺めていた陰は、実はドラゴンだったのだ。
ワイバーン。正統な、ドラゴンと呼ばれる生物と厳密な区分はないが、小型で尾に毒を持ち、沼地に生息する一対の翼と一対の脚が生えた竜種。
小型と言っても、両翼を畳むと10トントラックの太さ、大きさぐらいになりそうな程巨大。
飛んで火を噴く10トントラックである。
「……確か、下級竜種って伝承では目が良かったな。このままこんな開けた所にいるのは不味いかも。」
朱はそう言いつつも、焦る事なく反対側を見る。
「わお、こっちにも山があった。」
朱は嬉しそうにそう言った。
その山脈は大きく、広かった。
空高く雲を貫き、頂きは見えず。山脈の終わりは地平線の向こうに消えていた。
──ゾクゾクして、心の底から何かが湧き出してくる感覚。うーん、武者震いかな?
朱はそんなことを考えながら荷物を持って、山脈に向かって歩き出した。
やーっと、異世界転移しましたわ。
事前に申しますと、閑話とかで朱が居なくなった後の世界の方でも書こうかなと。ではまた!
・ARnavi.
・登山の服装
・大きな登山用リュック
・1.5Lのコップ付き水筒一つ(水)
・500mLペットボトル3本(水)
・固形タイプの非常食10日分
・サバイバルナイフ
・ペンライト
・ランタン
・寝袋
・レジャーシート
・タオル
・方位磁針
・双眼鏡
・マッチ
・ロウソク
・虫除け
・医療キット
・ファイアスターター
・シリコン製の折り畳み式バケツ
・伸縮性のスコップ
・発煙筒
・発炎筒
・ケミカルライト
・無香料のトイレットペーパー
・カラビナとスリング
・ペンギンのぬいぐるみストラップ
・アタッシュケース(5/1改稿……ただ単に忘れてた。)