63話 王子様来訪
ジェームスはパレットとの話が終わると、すぐに帰って行った。ソルディング領への旅支度ができ次第出発らしいので、身辺整理で忙しいのだそうだ。二日後の朝一番の乗り合い馬車に乗って出発するのだそうだ。
――私が家出した時も、同じだったわね。
パレットは玄関からジェームスの後姿を見送りながら、昔を懐かしんだ。
しかし、そうのんびりとはしていられなかった。肝心の客である、王子様を待たせているのだ。その王子様はどうしているのかと、パレットは庭に回って眺める。すると、王子様はミィと木登り競争をしていた。案外上手に登っていく姿に、パレットは関心する。
「……子供は元気ね」
ミィもまだまだ子供であり、案外王子様と気が合うのかもしれない。パレットがぼんやりと眺めていると、ラリーボルトが王子様に近寄る。
「リィン様、休憩にしましょう」
王子様はラリーボルトに声をかけられ、するすると木から降りた。それを見ていたパレットは、ジーンに建物の中から窓越しに声をかけられた。
「パレット、俺の部屋に来い」
「……わかった」
他の子供たちは休憩のために食堂に集まる中、パレットが言われた通りにジーンの部屋に行くと、モーリンが室内でお茶の準備をしていた。パレットが席に着いてしばらくして、王子様がラリーボルトに連れられてやって来た。
「おお、ここが屋敷の主の部屋か」
王子様が好奇心のままに、視線をきょろきょろとさせている。席に着いた王子様の足元に、モーリンがミィのためのミルクを用意した。王子様がミィを気に入っている様子を見たからだろう。ミィは大人しく王子様の足元でミルクを舐める。隣にミィを従えた王子様は、大変ご機嫌だ。
「ジーン、その、こちらの方がいらっしゃると知ってたの?」
パレットはモーリンを気にして、言葉を選んで小声で尋ねる。
「いや、初耳だ」
ジーンはそれに小声で答えるも、苦虫を噛み潰したような顔をしている。そんな二人の様子を目にした王子様が、クッキーに手を伸ばしながら語った。
「そなたと一緒にミィが出かけてしまって、私はすっかり退屈したのだ。するとラリーが、最近貴族の子供が集まる秘密の場所があると、教えてくれた」
クッキーを食べながら話す王子様の服装は、確かに庶民仕様となっていた。正体を知らなければ、高位の貴族の子なのかと思うだろう。事実、屋敷の住人はそう考えたようだ。
今だってこの部屋で給仕しているモーリンは、目の前にいる少年の正体を知らないせいだとはいえ、特に緊張した様子を見せない。この屋敷の住人は、パレットたちが留守にしていた数か月間で、すっかり貴族という存在に慣れたことで、高位貴族相手にも普通に動けるようになったらしい。それに加えて、子供たちの従者を見て学習したのか、モーリンの仕草が洗練されている様子もうかがえた。
一方で、緊張しているのは他の子供に付いてきた従者だ。彼らはさすがに王子様の正体に気付いていた。口にすることはなくとも、なにかあっては大変だと、常に周囲に気配りをしているというのは、後にラリーボルトから聞いた話だ。
「リィン様も遊び相手ができて、とても楽しそうで。ご両親も大変喜んでおられます」
ラリーボルトも笑顔で告げた。どうやら王様公認でここへ遊びに来ているらしい。
「父上も羨ましがっていたが、ここは子供の遊び場だから駄目だと言っておいたぞ!」
胸を張る王子様に、パレットは気が遠くなる思いだ。王様が訪問するなど、パレットたちの心臓に悪いのでぜひやめて欲しい。
「街の外に出るわけではない上に、城の近くですしね。お忍びとしては安全な方だと判断されました」
「安全、ね……」
ラリーボルトの言葉に、ジーンが微妙な顔をする。ここで言う安全とは、身体的なことはもちろん、派閥的な害がないということだろう。
王子様はここではリィンと名乗っているのだとか。そんな彼が今夢中になっていることが、木登りだという。確かにお城で木登りをしていては、どこからか大人がすっ飛んでくるに違いない。
「ここは、子供たちだけの秘密の楽園といったところでしょうか。子供たちはここであったことを、屋敷に帰っても決して親に話しませんからね。もちろんリィン様も、ここで誰に会ったかなどは話されません」
子供たちの秘密保持はできているというわけか。だからこそ、これだけ貴族の子供が出入りしているにも関わらず、ジーンとパレットは派閥争いの影響を、未だ受けずにいられるのだろう。
この屋敷が微妙な立ち位置に置かれていることに、パレットが思いため息をつきそうになる中、王子様が思い出したように声を上げた。
「そうだ、私はもうじき七歳になるのだ。父上が大々的に祝ってくれるそうなので、そなたたちも当然祝いに来てくれることと、期待しているぞ!」
この周辺の国では、子供の七歳の誕生日は盛大に祝う風習がある。そのため、王子様の七歳の誕生日を祝うための、国を挙げての祝宴を開く予定であると、パレットは知っていた。
――祝うにしても、その日は仕事な可能性が高いわね。
大勢の貴族が一堂に集うのだ。王城勤めの文官が暇であるはずがない。
「その際には心より、お祝いさせていただきます」
パレットとしてはとりあえずそう答えたのだが、後日予定は大幅に狂うこととなる。
この日の夕食後の風呂上がり、パレットはジーンに部屋に誘われ、酒を飲んでいた。
ミィはジーンの足元で生ハムを貰い、ご機嫌そうに寝そべっている。この生ハムは、ジーンが帰って来たことを知ったラリーボルドが、酒のつまみにと置いて行ったものだ。さすが貴族の子息は、酒のつまみもいいものを食べている。
二人で酒を酌み交わす中、ジーンがパレットに言った。
「あの坊ちゃん、ソルディアに行くんだってな」
突然話題を振られたパレットは、一瞬グラスを持つ手を止めた。この坊ちゃんというのは、ジェームスのことだろう。
「そうらしいですね」
パレットは感心がないふりをして、この話題を流そうとする。
「なかなか、生真面目そうな坊ちゃんだったじゃないか」
しかし、ジーンが話を続けてくる。パレットが恨めし気な視線を向けてもあちらは堪えた様子はない。
「そうね、真面目に育ってたわ」
流すのに適当な言葉を探っていると、ジーンと目が合った。からかっているのではない、真っすぐな視線だった。
「恨み言を言い足りなかったか?」
率直に聞いてくるジーンに、パレットも流すのを諦める。
「……わかりません。でも、ジェームスに文句を言うのも、違う気がしたんです」
パレットは今の心情を、正直に吐露する。
叔父は絶対に許せない男だ。ソルディアの街でもパレットを危険な目に陥れた相手なのだから。
しかしその息子であるジェームスから、直接的な被害を受けたわけではない。子供だったジェームスは、突然手に入った幸せを意味も分からず楽しんだ。ただそれだけだ。それが憎らしいのもあるが、パレットのこの感情は、単なる妬みだ。
自分が苦しんでいる時に、幸せそうな誰かを見ると憎くなる。これは相手がジェームスだから、持つ感情ではない。他の通りすがりの誰かでも、パレットは同じように憎らしくなっただろう。パレットは己の心の中にある暗い気持ちを振り払おうにも、上手くいかない。
――私こそ、嫌な奴だわ。
こうして、パレットは自己嫌悪に沈んでいく。
「あんたも大概、真面目だな」
真剣に思い悩むパレットに、目の前に座るジーンが、くつくつと喉の奥で笑った。
「人が悩んでいるのを笑うなんて、悪趣味です」
「すまん、ついな」
パレットがムッとして批難すると、ジーンはすぐに謝った。
「けどな、殺してやりたいと常日頃言っている奴に、実際に刃物を持たせて仇の前に立たせると、途端になにもできなくなる。それが人間って奴だと思うぜ?」
心の中の矛盾を端的に言い当てられたパレットは、目を丸くした。
「……そんなものかもしれませんね」
「いい人ぶるな」とか「憎しみを捨てろ」と言わないジーンに、パレットは心が軽くなる思いだった。ジェームスを憎みきれない自分が、過去の自分への裏切りである気がしていたのだ。けれどジーンは、それが当たり前だと言う。
――そうか、ずっと恨んでなくてもいいんだ。
ジェームスを許すのか、許せないのか。そんなことを決めなくてもいい。次に会った時に恨み言を言うのか、笑顔で挨拶をするのか、それはその時に決めることだ。
「ふふっ、私って馬鹿みたい」
パレットは口元に笑みを浮かべ、ぐいっと酒を煽った。
その様子をジーンが優しい笑顔で見ていたのだが、パレットは気付かなかった。




