6話 月の花と魔獣
確かに満月の夜は魔獣が出ることがあると、パレットは昼間にジーンから聞いた。しかしそれは、出るかもしれないという話で、絶対出るということではないと思っていたのだ。
顔色を青くしたパレットが恐怖で硬直していると。
「満月の魔力を満たした月の花の蜜を喰らおうと、魔獣が出るんだよ」
ジーンはしれっと言った。
「聞いてないわよ、そんなこと!」
言っておいてほしい、そういう大事なことは。そうすればパレットだって、いろいろと心構えが違ったのに。そもそも一緒に森に入らず、宿で留守番していたのに。
「今言った」
しかしジーンはパレットの抗議をさらっと流し、剣を構える。
「獣除けの香は魔獣に効かない。俺が魔獣を抑えているから、お前が月の花の蜜を採ってこい」
魔獣を倒すという言い方をしないジーンに、パレットは嫌な予感がした。
「ジーンは魔獣を倒せないってこと?」
パレットが恐る恐る尋ねると、ジーンはそれにあっさりと答える。
「魔獣を殺すには聖剣が必要だ。俺はそんなもの持っていない」
「持たせてもらいなさいよね!魔獣が出るってわかってたのなら!」
命令で来ているのだから、必要な装備は支給されてしかるべきだろうとパレットは思う。月の花の蜜の採取で、魔獣退治の武器は絶対に一番必要なものだ。
「それはその通りなんだがな。いいからさっさと採ってこい!」
ジーンが急かすようにパレットを泉に向かって突き飛ばした。パレットはどうやら、このための人員だったらしい。パレットは硬直する体をなんとか動かし、泉を覗き込むようにした。
「うう、なんでこんなことに……」
情けなく歪んだ自分の顔が映り込み、パレットは肩を落とす。しかしここでためらっていても魔獣に襲われるだけである。
「ああもう、仕方ないわね!」
パレットは荷物を頭の上に上げて泉にざぶんと飛び込む。躊躇していたらいつまでも動けず、魔獣に食べられそうに思ったのだ。
「冷たっ!」
冷えた泉の水に、パレットは体を震わせる。しかし震えている場合ではない。ジーンがもう魔獣と戦闘を始めてしまった。
大きな猪のような魔獣が、ジーンにのしかかるように襲い掛かる。
「はぁっ!」
それをジーンが剣を使って押し返す。魔獣を殺す武器がないとジーンは言っていたが、それでもジーンは普通の剣で魔獣に対抗している。その調子で、ぜひとも頑張ってほしい。パレットの身の安全のためにも。今のパレットができることとえば、早く月の花の蜜を採って、ジーンと一緒に早くここから逃げる。それが最善であると思われた。
「よし、行こう!」
パレットは気合を入れて、泉を進み始めた。泉は進むにつれて深くなり、すぐに足がつかなくなった。パレットは立ち泳ぎをしながら懸命に中央にある島へ向かう。ジーンの様子が気になるものの、今は振り向かないようにする。ジーンは今、パレットが月の花の蜜を採るのを待っているのだから。
「……はぁ、やっと着いた」
泉を泳いで真ん中の島に着いた時、パレットは息も絶え絶えであった。泳ぐなんてことをしたのは、何年ぶりであろうか。パレットは肩で大きく息をしながら、這うようにして島へと上がる。普段の運動不足が、ここにきて祟るとは思わなかった。まとわりつく濡れた衣服は冷たいし気持ち悪い。しかしそれも後だ。
パレットは泉を渡るのに意外と時間を食ったようで、頭上の月はもう高くに上っていた。
泉に飛び込む前は蕾だった月の花が咲いていた。月の花という名にふさわしく、月光の色に輝く花の色に、パレットは一瞬見惚れる。そしてそうっと花の中を覗くと、虹色に輝く蜜が溜まっていた。
「なんて美しいのかしら……」
しかし呆けて見惚れている場合ではない、とすぐに我に返る。パレットはカバンから買っておいた採取用の小瓶を出した。月の花の茎をそっと持ち、ゆっくりと花を小瓶の口に向かって傾けた。トロリとした蜜が、小瓶の中に滑り落ちた。
「よし!」
蓋をきっちり閉じると、その小瓶をさらに革の袋に入れる。日の光の当ててはいけないと言われたための用心だ。
「採取できたわ!」
パレットが振り向いてジーンに叫ぶと。
「早く戻ってこい!」
ジーンがらすぐさま返事があった。見るとジーンは魔獣と揉みあっている最中だった。
パレットは再び泉に飛び込み、着衣のままの水泳をする。だがパレットは島へたどり着くまでですでに疲れていることもあり、思うように泳げない。
――帰ったら今度から、少し運動しようかしら
いつ何時体力を必要とするかわからない。それを今回思い知ったパレットなのだった。
ようやく岸へ上がったときにはパレットはくたびれ果てていて、動くことも話すこともできない状態であった。それでも小瓶を入れたカバンだけは頭上に上げて守ったのだから、自分で自分をほめてやりたい。
「ようし、よくやった!」
ジーンが魔獣と戦いながら叫んでいるが、パレットには反応するどころか、立ち上がることもできそうにない。でも今から逃げなければならないのだ。パレットはとてもではないが、走るなんてことはできそうにない。しかし逃げなければ、魔獣に食べられて人生が終わってしまう。
パレットが懸命によろよろと立ち上がったると、ジーンが魔獣から距離をとった。
「グルルル……」
目を赤く光らせた魔獣が、ジーンを再び襲おうと態勢を整える。
――ああ私もうダメかも……
自分は逃げられるような状態ではないと、パレットが絶望した時。
ジーンが懐から筒状のものを取り出し、手に持った。そしてそれを、魔獣に向かって投げ放った。
バチバチッ……!
突如強烈な光が現れたかと思うと轟音が響き渡り、魔獣が悲鳴を上げた。魔獣のみならず、パレットも強烈な光と音で目がチカチカする上耳鳴りがした。
いろいろなショックで立ち尽くすばかりのパレットは、しかし急な浮遊感に見舞われた。
「え、なに!?」
パレットは現状がわからず、混乱しつつも手足を動かそうとするが、なにかに拘束されて動けなくなる。パレットはさらに混乱が増して、パニックになりそうになったが。
「逃げるぞ!」
パレットの耳のすぐそばでジーンの声が聞こえて、パレットは動きを止めた。いつの間にジーンがこんなに近くにいたのだろうとパレットは驚く。だがだんだんと視界が回復してくると、自分の今の状況に唖然とした。ジーンがパレットを荷物のように肩に担ぎ上げていたのだ。
――え!?
状況が飲み込めずに混乱するパレットに構わず、ジーンはそのまま全速力で走り出した。今まで魔獣と戦っていたというのに、まだこんな体力が残っていたらしい。
――待って!この態勢苦しいから!
パレットは声を出して抗議したいが、絶対に舌を噛む気がする。それに降りて自分で走るなんてことはできそうにない。ゆえに仕方なく、パレットはこの苦しみに耐えるのだった。