10話 黒い子猫
外は雨が降っていた。パレットが帰りに買ってきた夕食をテーブルに広げていると、窓の鎧戸をカリカリとひっかく音がした。パレットが鎧戸を開けると、黒い毛玉が張り付いている。
「お帰りミィ。びしょ濡れじゃないの」
「みぃ、みぃ……」
パレットが黒い毛玉を救出すると、それは甘えたように鳴いた。
「もう、ミィは甘えん坊さんね」
パレットは黒い毛玉を床におろすと、身体を拭く布を探した。
パレットがこの黒い毛玉と出会ったのは、月の花の蜜の採取から帰ってきた日の夜だった。
パレットが疲れた身体を休めようとベッドに横になった時。窓の鎧戸をカリカリとひっかく音がしたのだ。パレットが住んでいるのは、古い集合住宅の一階だ。安さだけが取り柄であり、窓に高価なガラスなどはめられているわけもない。ゆえに木の鎧戸から隙間風が吹き込む部屋だ。しかし風の音にしては妙だと思い鎧戸を開けると、この黒い毛玉が張り付いていたのだ。
パレットは驚いてそれを見た。
「おまえ、迷子なの?」
黒い毛玉はまだ両手の平に乗るほどに小さく、体毛もポワポワと柔らかい。まだ赤ちゃんなのだろう。頭の上の二つの耳は丸っこい形をしており、尻尾の先が房のようになっているのが特徴的だ。見た目猫っぽかったので、野良猫だろうとパレットは考えた。
「ここにきても、エサはないわよ?」
野良猫だったら、もっと豪華な家を狙えばいいのに。そう思ってしばらく眺めるも、その野良猫は窓からどかない。根負けしてパレットは、野良猫を取り上げて迎え入れた。
「確か干し肉が余ってたわね」
パレットがまだ荷解きをしていないバックから、干し肉を取り出した。そして野良猫に差し出すと、それは夢中でしゃぶりついた。
「みぃ、みぃ……」
野良猫のおねだりするような視線に負けて、パレットは朝食用に買っていたミルクまでやってしまった。お腹が一杯になったのか、野良猫はごろんと床に寝転がる。
「おまえ、野良のくせに警戒心がないのね」
ごろごろをと転がり腹を見せる野良猫に、パレットは笑いがこみ上げてきた。なにやら、つい先ほど分かれたばかりの誰かさんを思い出した。
――ジーンも、なんだか野良猫っぽいわ
最後の別れ際の、ジーンの子供っぽい笑顔が思い出された。
「おまえのせいで、思い出しちゃったじゃないの」
「み?」
その夜、結局野良猫はパレットの部屋に居座った。
次の朝、パレットが窓の鎧戸を開けると、野良猫はするりと出て行った。
「もう迷子になっちゃダメよ」
朝の光の中を去っていく野良猫を見送った。
この野良猫を、一晩だけの奇妙な客だと思っていた。しかし野良猫は夜になるとまた窓から現れた。それを数日繰り返し、パレットはあきらめた。
「おまえの名前は、ミィね」
「みぃ!」
野良だった猫は、ミィという名前になった。
ミィはパレットが朝出かける時に一緒に出ていき、夜帰ってしばらくするとミィも帰ってくる。その間に何をしているのか、パレットは知らない。しかしミィはすっかりパレットの部屋を寝場所に決めたようだ。
ミィとの同居生活を初めて、二カ月が経過しようとしていた。
パレットが現在暮らしているアカレアの街は、マトワール王国の東にある海に面した港町だ。街の住人には船乗りが多いため、陽気な性格の者が多かった。
そんな街の雰囲気とは対照的に、いつもしかめっ面をして眉間に皺を寄せていることが多いパレットは、非常に浮いている存在だった。外に飲みに行くこともせず人付き合いも希薄で、なにを考えているのかわからないというもっぱらの評判である。
それに加えて、文官という仕事は基本男性が就く職である。領主の館でただ一人の女性文官であるパレットは、他の文官たちによく思われていなかった。なので妙な嫉妬を向けられることもあるが、そんな自分の評判を気にするようなパレットではない。周りの視線には一切関知せず、いつも机に積まれた書類を黙々と片付けていた。
――この仕事に就けたのも、昔父さんに仕込まれた書類作成と計算のおかげね
いつものように淡々と業務をこなし、家に帰ればミィの相手をする。そんな風に、他人から見れば退屈な、本人としては充実した毎日を送っていたある日。パレットは領主様に呼ばれていると上司に告げられた。
「私をですか」
この状況は以前にもあったな、とパレットは思う。
「いいから早く行け」
上司に追い立てられて向かった領主様の執務室は、実に森から帰ってきた報告をした時以来に入った。
そこでパレットは驚きの命令をされた。
「王都、ですか?」
「そうだ。王城へ大事な書類を持って行かねばならない。それをぜひ、パレット・ドーヴァンスにという指名がきた」
アカレアは港町であるので、外国の船も停泊する。外国の船を受け入れた際の取引や他国の情勢の話などを、領主様は定期的に王城へ報告しなければならないらしい。パレットはこのことを今領主様から話を聞いて初めて知った。それを王城に持っていく役目を、パレットが指名されたというのだ。
指名されたと言われるも、一体王城の誰がパレットの存在を知っているというのだろう。パレットが首を傾げていると、領主様がにんまりと笑った。
「いつかの騎士様に、しっかりとご奉仕したようだな」
領主様の言葉に、パレットはぎゅっと眉間に皺が寄る。パレットをジーンについて行かせたのは、他ならぬ領主様だ。
――おかげで、すっごい危ない目にあったんだけど!
であるというのに上司も領主様も、パレットの苦労を全く理解しようとしなかった。それどころか、
「どうせいい思いをしたんだろう?」
と下世話なことを言い出す始末だ。おかげでパレットは、特別手当を貰い損ねている。
「今回もしっかりと、売り込んでくるのだぞ?」
ニヤニヤと笑う領主様を殴りたくなる拳をぐっと握りしめ、パレットは頭を下げた。
「……了解しました」
ただ不満がありありと浮き出た顔を取り繕うことはしなかったが。
それから王都行きの準備を整えろということで、パレットは仕事を上がった。正直、王都になんか行きたくない。しかしこれは命令だ。しかも王城からの指名なのだ。
――仕事だ、仕事
胸に湧き上がるムカムカを、パレットはそう考えることで紛らせていた。
夜、帰ってきたミィを胸に抱いて、パレットはベッドに寝そべる。
「みぃ?」
首を傾げてパレットを見上げるミィの背中の毛を撫でる。あれからミィの毛は生え変わり、ポワポワとしたものから、光沢のある毛になっていた。よく見れば、黒い毛皮に灰色の斑点のような模様が入っている。それでもまだ子供らしい、丸っこくて柔らかい手触りがする。撫でているうちに、荒立つ気持ちが少し和らぐ気がした。眉間の皺が緩むのが自分でもわかる。
「ミィ、私王都に行かなきゃいけないんだ。ミィも来る?」
「みぃ!」
わかっているとは思えないが、ミィがタイミングよく鳴いた。
パレットは王都から一人、乗り合い馬車に飛び乗った時のことを思い出す。
――あの時と違って、一人じゃないし
小さな温もりを持ち上げて、顔に近づける。
「よしミィ、私と一緒に王都へ行こう」
「みぃー!」




