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第三話

        《 三 》



 ――…そこは、まるで、広大な花園だった。

 一面に咲き誇るのは、水仙の花。

 ほのかに香る、高貴で可憐な花々は、汚れを知らない純白色をしている。

 風もないのに、無数の白い花弁がゆらゆらと揺らめく様は、何とも幻想的で、夢の景色にも思えた。

 兄は、腰を屈めて、一輪の水仙を手折った。

 その瞬間、ざあっという小さな音と共に白い花が黒く変色して落ちていく。

「……腐っているのか?」

 見渡す限り、美しい花々の楽園。

 しかし、それはただの幻にすぎない。

 よく見れば、どの花にも葉がなく、地面に根を張っていない。まるで、棒を突き刺すようにして生えているのだ。これでは、花とは呼べない。

 そんな偽物の花園のなかに、一人の少女が立っている。

 黒髪の和服の女の子。弟が楓と名付けた、座敷童。記憶と寸分も違わない愛らしい姿に、思わずほうと溜息が漏れた。

 その吐息に気づいたのか、楓がこちらを見た。

「――…ふむ、ぬしが来たということは、雪智は死んだのじゃな」

 その声に、哀憐の情はない。当然だ。神は、感情を持たない。自分の役目をこなせれば、それでいいのだから。

 よって、座敷童である彼女は、棲みついた家を栄えさせなくてはならない。そう、他でもない、兄の家を。

 兄は、座敷童の無感情な言葉に笑み、血に濡れた手を差し出した。

「ええ、愚弟は始末しました。これで、本来の家に戻れるのです、お座敷様。さあ、共に帰りましょう」

 しかし、兄の汚れた手を、少女は取らなかった。

 それどころか、くるりと背を向け、一見すると美しい花畑の中央にある、場違いな廃屋を目指して歩いて行く。

「お座敷様? どちらへ行かれるのですか」

 慌てて兄もそのあとを追う。

 楓の足がとまったのは、廃屋の近くにある、小さな祠の傍だった。その周囲一メートルほどには花がなく、やけに冷たい空気を放っている。

「…この祠は、何なのですか? というか、この空間は、一体――」

 兄の声に、楓は淡々とした声と表情で応じた。

「――ここは、神域。神の住処とでも言うべきかの」

「――神域…? ここが、神の住処なのですか? おお、何と素晴らしい!」

 心が沸き立つのを感じる。

 神域に入れる人間など、おそらく存在しない。ということは、自分は地上でただ一人、神に選ばれた人間ということになる。

「ふ、ふふっ」

 思わず、口元が緩む。笑いがこらえられない。

「――様を見ろ、雪智め!」

 座敷童は、あの愚弟ではなく自分を選んだのだ。

 そう考えるだけで、勝ち誇った笑いが込み上げてくる。

「はーっ、はっはっはっ!」

 ふんぞり返るようにして笑う兄を一瞥し、楓は言う。

「…のう、おかしいと思わぬか? この地は神域だというのに、何故、ただの人間にすぎぬ主がここにいられるのか」

「何故…? それは、もちろん、お座敷様が呼んでくださったからでしょう?」

 その答えに、楓はきょとんとした。

「呼ぶ、じゃと? 何故、我が主を呼ぶのじゃ? 呼ぼうにも、その名すら記憶にないというのに」

「……は…?」

 楓の言葉に、兄はぽかんとした。

「…お、覚えていないと仰るのですか? 三枝家の当主である者の名を?」

 愕然とする兄を冷ややかに見つめ、彼女は訊く。

「ならば、問うが――主は、すれ違った人間すべての名を覚えておるのか?」

「――何…?」

「我にとって、主はその程度の存在にすぎぬということじゃ。雪智と違ってな」

「! 雪智、だと?」

 何故、あの男の名前を覚えているのに、兄であり三枝家当主でもある優秀な男の名を知らないと言い張るのか。

 カッと、恥辱で全身が熱くなる。

「あのような出来損ないの愚弟と比べないでもらいたい!」

「そうじゃの。主のような愚兄と比べてよい雪智ではあるまいて」

「! どういう意味ですか、それは!?」

 怒鳴る男から視線を外し、彼女は祠の前に立った。

「――雪智には可哀想なことをした。じゃが、あれをここに連れてくるわけにはいかなかったのじゃ。何故なら」

 楓の細い指が、木の祠に触れた。

 きい、と寂れた音を立てて扉が開いたかと思うと、その奥から何かが飛び出した。

「――…蝶…?」

 それとも、大きめの花びらだろうか。

 飛び出した白い何かは、楓の周囲を舞い、すうっと、彼女の白い指にとまった。

 楓は、その指を動かせて、すうっと兄へ向けた。

「…??」

 何だろうかと不思議がる兄を前に、彼女は言う。

「――この地には、神がおらぬ。それには、ちょっとした理由があっての」

 ちらりと指にとまる蝶らしき白い物体を見つめ、

「…この地を治める土地神となったのは、人柱となった人間の娘なのじゃ。それ故か、この地は血を求めやすい傾向にある。じゃが、一番の問題は、この神使なのじゃ」

「……神使?」

 神の使い、いわば、神の世話係のようなものだと兄は把握している。

 二人分の視線を受けながらも、白い蝶は、少女の指先で呑気に休憩している。

「本来、人間は神にはなれぬというのに、どうやってか、人柱の娘は土地神となり、神使を得た。しかし、下僕であるはずの神使を制御しきれずに、喰い殺されてしまったのじゃ。まあ、それも道理やもしれぬ。人間は、神の世界の規定など知らぬからの。じゃが、神殺しの神使は、神を殺して神力を得ながらも、新たな土地神にはなれなかった。所詮、その器ではなかったのじゃ。それから二百年もの間、神使は何もできずに、この地に留まり続けた。それは、何のためじゃと思う?」

「――…」

 気のせいか、心臓の辺りに冷たい刃の切っ先を押し当てられているようだ。

 楓は、相変わらず無垢な少女の姿をしていて、その声にも表情にも悪意はない。逆に言えば、彼女は無表情で無感情すぎた。

 話し声は単調なリズムを刻み、その瞳は、鏡のように冷やかに兄の姿を映している。

 楓は、静かな表情で、さらに言葉を紡ぐ。

「――…神使はの、待っておったのじゃ。新しい神がやってくるのを。神を殺し、その力を食らい続ければ、いずれは土地神になれる。そう、信じておったのじゃ」

 まるで、機織り機みたいに織り込まれていく言葉の一つ一つに、えもいわれぬ恐怖を感じる。

「じゃが、そんなことはできはせぬ。生まれついての神である我には、どう足掻いても勝てぬのじゃ。それこそ、神使の定めじゃからの。それを悟った神使は、今はこうして、我に従おうておる」

 ひらひらと、白い蝶の姿をした神使が、少女の指先で羽を揺らす。

 生きもののようでいて、ただの布きれのようにも見えるそれは、ゆっくりと楓の指先を離れて、飛び立った。

 ゆらゆら、ひらひら、と。

 舞うように揺れながら、こちらに向かって飛んでくる。

 兄は、事態が呑み込めず、茫然と神使を見つめるしかできなかった。

 楓は、淡々と告げる。

 神らしく厳かに。

 しかし、どこか、悲しげに。

「我は、もっと大きな力が欲しいのじゃ。今の我では、雪智を幸福にはできなんだ。神として、あまりにも矮小すぎたのじゃ。しかし、土地神になれば、それが叶うのじゃ」

 伏し目がちな瞳に、わずかに、感情の火が灯る。

 ちらちらと揺れるそれは、悔恨か。それとも、希望の光か。

「――雪智だけなのじゃ。座敷童である我が、幸福にできなかった人間は。神でありながら、我はあまりにも無力じゃった。故に、探しておったのじゃ。神のいない、神域を。待ちわびておったのじゃ。我が新たな神に生まれ変わる、今日という日を」

 楓が、こちらを見つめている。

 その小さな唇に、澄んだ瞳に、ほのかな笑みが零れる。

「――な、何だ…?」

 兄の視界を妨げるようにして、白い蝶が近づいてくる。

 ひらひら、ゆらゆら。

 大きく広げた純白の花びらみたいな羽を動かせてやってくる、神使と呼ばれる何か。よく見れば、それは、優美さからはかけ離れた造形をしていた。

 こちらに近づくたびに巨大化していく体躯は、昆虫のそれではない。人間の肉体を細く捻じったものでできており、羽と本体部分を繋ぐのは、人の手足だ。薄いとは言い難い白い羽には、いくつもの人の顔が浮かび上がり、どれも苦悶の表情を浮かべている。

「――我は、土地神にならねばならぬ。そのためには、新たな生き血が必要なのじゃ。この地は、流れる血と魂によって清められ、守られた神域じゃからの」

 楓は、暗に、兄の死を願っている。

 そう察したときには遅く、迫りくる神使からは逃れられない。

「っっっ、ひっ――」

 声が引き攣る。逃げ出したいのに、足が動かない。

 見やれば、水仙の花の茎部分が兄の足を絡め取っている。

「!!!!」

 咲き誇る花々は、ゆっくりと頭をもたげ、こちらを見つめてきた。

 花弁に包まれた奥深くには、人の顔がある。それらは、声もなく、恨みがましい瞳でこちらを凝視している。

 その視線を感じるたびに、どろりとした不快感が喉元まで込み上げる。

「ひっっ、たっ、助けてくれっ! お前は、家人を守る座敷童だろうが! 雪智が死んだ今、お前の飼い主は俺だぞっ!?」

 上擦り、枯れた声に、楓は目を閉じた。

「――主がどうなろうと知らぬわ」

「っ! き、貴様っっ! たかが、家神の分際で、当主である俺を殺そうというのかっ!?」

「…まったく、主は、何を聞いておったのじゃ」

 楓は、ゆっくりと瞼を上げて、

「――我が認める家主は、雪智ただ一人。あれを幸福にすることが、我の役目じゃ」

 冷酷に言い放つ。

「っ、雪智は、死んだんだ! この俺が、殺してやったんだ!! もう、お前の家に住めるのは、俺しかいないだろうが!!」

 吐き捨てるように言う兄に、楓は、穏やかな声を返した。

「人間は、いずれ生き返る。新たな肉体を得て、雪智は我のところへ戻ってくるのじゃ。それまでこの新しい住処を守るため、我は、この地の神とならねばならぬ。じゃからの、人間――主には、死んでもらわねばならんのじゃ」

 心臓を、氷柱で貫かれたような気がした。

 楓の言葉が、明確な殺意となって襲ってくる。

「! な、何故だ? 俺が雪智を殺したからか?」

 問いたくても、視界に楓の姿は見えない。

 神使の身体は巨大なドームになって、目の前に迫っている。

 白亜の壁のように視界を覆う羽には、無数の苦悶に歪む人の顔が浮かび。

 それらの表情が、己の行く末を暗示していた。

「――くっ、来るなっ!」

 怒鳴って、自由になる腕を闇雲に振り回すが、何の意味もなさない。

 迫りくる、死という名の恐怖。

 それから逃れらない無力感と運命を呪いながら、兄は見た。

「あ、ああああああああああああああああああああ」

 羽に浮かぶ顔が、叫んでいる。

 まるで、今の自分を映したように、恐怖に顔を引き攣らせて。

 絶望に心を食い荒らされて。

 それでも、心のどこかで救いを求めて。

 じわりと溶けだすようにして、白の世界が、視界を覆う。

 甘ったるい香りが立ち込め、全身を包みこむのがわかる。

 これは、何の香りだったか――。

 懐かしさと恐怖が入り乱れて、何が何だかわからなくなる。

 自分という存在が、じわじわと解体されていく。

 痛みはないが、得体の知れない恐怖に肉体が引き裂かれ、意識が散漫になっていくのがわかる。

 指は、どこにあっただろうか?

 腕は、身体のどの辺りにくっついていただろうか。

 足は?

 足は――…何をするためのものだったのか。

 そもそも、身体とは、何だろう。

 頭のなかには、何がつまっていて、目玉は何を見てきたのか。

 わからない、何も、わからない。

 自分が何故、無駄なことばかり考えているのかも理解できない。

「あ、ああ、うう…」

 次第に、声も言葉も消失して、何もかもが意味を成さなくなる。

 自我も、記憶も、疑問も、恐怖も。

 すべてが白に融けて、人間だったことすら忘れてしまう。

 あとに残ったのは、ただの白。

 それ以外に、何もない。



「……ふむ。これで、我はこの地の神となったわけじゃな」

 楓は、そっと自分の手を見つめ――ふと視界の端に映る白銀の髪を、ちょいと指先でつまんだ。いつの間にか座敷童の象徴だった美しい黒髪は失われ、身に着けていた紅色の着物は、死に装束のような純白に変わっていた。

 その白は、清楚で、可憐。しかし、どこか生臭い。

 よく見やれば、着物の袖には、ところどころ、鮮血を思わせるような朱が散っていた。まるで、罪の証のように。失われた生命を忘れないように、警告するかの如く。

「…しかし、神となる儀式に生贄が必要とは、難儀なものじゃ。しかし、これで、ようやく、願いが叶うのじゃな」

 ひらひらと、蝶が舞う。小さな姿に戻った神使は、花飾りのように少女の髪にとまり、リボンのようにゆらゆらと揺らめいている。

「――雪智よ、安心するがよいぞ。新たな住処は、我が用意しておくからの」

 そう呟いた少女の手には、雪智の描いた絵図がある。

「主は、ただ、帰ってくればよいだけじゃ。何度生まれ変わろうとも、必ず我の元へ帰ってくるのじゃぞ。我らの新しい、この家に」

 少女の声に反応して、ふわりと絵図が宙に舞い上がった。

 そして、そのまま地面に落ちて、溶けていく。

 それが形を失った瞬間、ざっと一陣の風が通り過ぎ、視界が一変する。

 一面を埋め尽くしていた水仙は消え、代わりに、甘い芳香を放つクチナシの花々が清楚に咲き誇り始める。白い花々に紛れこむようにしてあるのは、こじんまりとしながらも立派な家だ。もちろん、そこは無人で、帰りの遅い家人を待って、玄関が開け放たれていた。

 楓は、落ち着いた足取りで新しい家に向かって歩いて行く。

 いつ、雪智が帰って来てもいいように。

 いつでも、おかえりと言って、出迎えられるように。

 それまで、この新しい住処を守り続けなくては。

「――楽しみじゃの、雪智。再び出逢える、そのときが」

 わずかに微笑み、楓は屋敷へ入った。その瞬間、ぴしゃりと玄関が口を閉じて、それと同時に、世界が閉じられる。外の世界と神域を分ける結界が発動する。

 その結界のせいで、神域であるにもかかわらず、人間たちには、ただの草むらと廃屋にしか見えない。それでも、不思議とその土地に手をつけるものはなく、気づけば、数十年が経過していた。


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