第二話
《 二 》
建物の取り壊しを頼んでから、二十日が経った。
一向に、仕事は進んでいない。というか、それ以前の問題が明らかになっていた。
「……まさか、適当に言っただけなのに、本当にこんなことになるなんてね」
呆れるような、恐れるような複雑な口ぶりで、雪智が呟く。
「――…よほど、この地に触れてほしくないのじゃろうな」
楓が眉を寄せて、雪智を見上げる。
「情けない顔をするでないわ。主は、最初から覚悟しておったのではないのか?」
「…覚悟も何も。まさか、作業に取りかかる直前に、雇った連中が、謎の腹痛だの頭痛だの吐き気だのに見舞われた挙げ句、地震は起きるわ、謎の突風で周囲の家々が被害を被るだなんて、想像できるわけがないだろう?」
そう。雪智が前に村長にほのめかしたように、あの土地に近づく者はことごとく傷病に倒れ、村の家々にも損害が出た。これはもう、神の怒りとしか言いようがない状況だ。
「なあ、楓。もしかして、あそこに神様が棲んでるっていう話は本当だったのか?」
眉唾ものだと思って信じていなかったのだが――楓は、何を今さらという目でこちらを見つめてくる。
「無論、真実じゃ。しかし、あの地に神はおらぬ。いるのは――神使だけじゃ」
「神使…? って、神様の使いって奴か」
「そうじゃ。我のように格の低い神にはおらぬが、おそらく、ここの主は土地神であったのじゃろうな。強力な神気を感じる。我好みの、清浄な香りが漂うておるわ」
「――…ちょっと待て。神がいないのに、神使はいるってどういうことなんだ?」
神使は、文字通り神の御使いだ。神が消えれば、自動的に消失するはずだ。
そもそも、村を祟るほどの強い神気がこの土地に根づいているというのが、まず信じられない。これでも、霊力はあるほうなのだ。それなのに、何も感じないとはどういうことか。
(…楓といることで、僕の霊力はかなり上がっているはずなのに)
多少、他の土地に比べて清らかで静謐としているということくらいしかわからないなんて、おかしい。狐につままれているような気分だ。
しかめ面の雪智に、座敷童は言い聞かせるように言った。
「……主は、雑念が多すぎるのじゃ。よいか、雪智。真実を見定めようとするならば、目を閉じよ。神の声が聞きたくば、耳を塞げ。神と真に寄り添いたいならば、ヒトであることを捨てるのじゃ。さすれば、わかることもあろうて」
謎かけのように告げて、彼女は、ゆっくりと歩を進めた。
その正面にあるのは、荒れ果てた土地。謎多き、神の棲み家。
ヒトを寄せ付けない、聖なる空間。
「――楓、待て!」
咄嗟に手を伸ばすが、触れられない。
ゆっくりと、楓の姿が遠のいていく。まるで、煙が消えるようにして、その姿がふうっと草むらに掻き消える。
「……楓…?」
視界に広がるのは、もの静かな景色。
古びた、廃屋。ところどころ抜け落ちた屋根も、腐った柱も、今にも崩壊しそうだ。
その周囲には、生き生きと伸びた雑草が茂っている。肌を削ぎそうなほど鋭利な青緑の刃は、侵入者を拒み、行く手を阻む。
頭上に広がる空は蒼く晴れやかで、穏やかな日差しは、眠気を誘うほど心地いいのに――一人、取り残された雪智は、真冬の山奥に放り出された哀れな子供みたいな顔つきをしている。
「…楓……」
手を伸ばし、彼女の消えた廃屋へと向かおうとするのに、足が動かない。まるで、足の裏が地面にくっついてしまったかのようだ。
(…楓のことだ。待っていれば、すぐに帰ってくるに違いない)
そう思うのに、今生の別れのように感じてしまうのは何故だろう。
彼女が視界にいないだけで、こんなにも不安になるのは、どうしてなのか。
「――…楓」
動揺で声が震える。我ながら情けないことだが――こればかりは、どうしようもない。
雪智は、馬鹿みたいに呆けた顔で、消えた少女を待ち続けるしかできなかった。
しかし――日暮れ前になっても、彼女は帰ってこなかった。朱色の空が紫がかり、濃紺へと色を変えても、やはり、楓は戻ってこない。
周囲を暗闇に呑まれても、雪智はその場を動かなかった。相変わらず、どんなに入ろうとしても、神域には踏み込めない。前に進もうとしても、身体がそれを拒む。
そして、一睡もできないまま夜が明けたが、それでも、楓が帰ってくる気配はなかった。
やがて空が白み、青みがかって来た頃になって、佇む雪智に黒い影が近づいてきた。
「…おい、そんなところで何をやってるんだ?」
ぽんっと肩に手が触れる。わずかに、肩が重くなった。その程度のことで、張りつめた緊張感が解けたのか、ふらふらと後ずさり、どすんと尻もちをついて座りこんでしまう。
「! おいおい、大丈夫か?」
誰かが心配そうに訊いて、ようやく、雪智は枯れた声で応えた。
「――あ、ああ」
面をあげて、大丈夫だ、と言おうとして、唇が凍りつく。
見つめた先にいるのは、見知らぬ誰かではない。かといって、村人でもない。
その人は――…記憶に残る顔よりも数十年も老けこんで見えた。
「……兄さん…」
掠れた声で雪智が呼ぶ。
呼ばれた男は、深くしわの刻まれた口元を、きゅっと吊り上げた。
見るからに、悪意の満ちた笑顔。そのくせ、瞳には、何故か、安堵したような穏やかな色が浮かんでいた。
「――…よう、雪智。元気そうだなあ。お前の噂は聞いてるぞ。随分と羽振りがいいそうじゃないか。そりゃそうだよなあ、ウチの大事なお座敷様を言い包めて、富を独占したんだから。さそがし、楽しかっただろうなあ、お前は」
「……別に、富みたかったわけじゃない。僕はただ、楓を自由にしてあげたかっただけだ」
無意識に、地面に座ったまま後ずさりしながら言う。
それを蔑むように見下ろし、兄は目をすがめた。
「…まあ、いいさ。俺は、今さら過去をほじくり返したりはしない。たとえ、お前のせいで年老いた両親が自殺し、家は潰れ、その日の暮らしさえままならないような惨めな生活を送る羽目に陥ったとしても、だ」
「――…」
ぐっと言葉を呑み込む。後悔も言いわけも、ないわけではない。だが、自分には何も言う資格がない。
別に、親兄弟に根深い恨みがあったわけではなかった。もちろん、家を追い出されることに関しては少しばかり腹立たしくもあったが、あの重苦しい家の空気を吸い続けるよりは、外での暮らしのほうが性に合うと思っていたから、すぐに諦めがついた。
だが、楓を連れ去ったあと、残された家族がどうなるか、ということまでは気が回らなかった。というより、はっきりいって、興味がなかったのだ。彼らが不幸になろうが、恨まれようが、蔑まれようが、痛くも痒くもない。楓が自分の隣で笑っていてくれるのなら、他はどうでもよかった。
「…なあ、雪智。この七年はどうだった? 家族を犠牲にして得た富は、さぞ甘美だったろうなあ」
ねっとりと粘着質な恨みごとを言われても、雪智の良心はちくりとも痛まない。ただ、思うのは、兄が今さら自分の目の前に現れた理由が何なのかということだ。
由緒ある三枝家を潰した弟に復讐するため?
あり得る。兄は、昔から楓が自分ではなく雪智に懐いているのを不快に思っていたし、自分は三枝家当主として幸福になるべき存在だと思い込んでいたから。
それとも、再び裕福になりたくて、楓を取り返しにきた?
それも、あり得る。一度、富を得た者は、贅沢な生活から抜けられない。何不自由ない生きかたこそが、自らに与えられるべきだと妄信しているから。
(…何にせよ、三枝家の問題に楓を巻き込むわけにはいかない)
三枝の家も、当主も、楓を不幸にしてしまう。せっかく取り戻した彼女の笑顔を、また奪うような真似だけはさせない。
ちらりと、楓が消えた場所を一瞥する。
廃屋とその周囲を埋め尽くす雑草の群れ。そんな寂しい場所に、富の象徴である座敷童がいるとは、さすがの兄でも想像できまい。
心底、隣に楓がいなくてよかったと思う。
おそらく、兄は両親から、座敷童の捕縛方法を教わっているに違いない。そして、代々そうしてきたように、自らの幸福のために楓を監禁し続けるのだ。
雪智は、ふらふらと立ち上がり、実年齢よりもはるかに老いた兄の顔を睨む。
「――…兄さんたちには悪いことをしたと思う。でも、楓を渡す気はない」
強い決意を込めた声に、兄は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ふん、楓、か。お座敷様に勝手に妙な名前をつけて、所有物にでもしたつもりか。とんだ愚弟だ」
「――所有物扱いしていたのは、そっちだろう。楓は、あの家を出たがっていた。外の世界を知りたがっていた。それを妨げる権利は、誰にもないはずだ」
ヒトであろうが、神様であろうが、誰かが本気で一途に願う事柄を踏みにじっていいはずがない。ましてや、楓は神様だ。それを、人間の一方的な都合だけで行動を縛ること自体が間違っている。
しかし、兄は言う。確信に満ちた声で。
「これだから、お前は無能だと言うんだ。利用できるものを利用して何が悪い? 神だろうが動物だろうが、人間様のお役に立ってこそ価値が出るってもんだ。それを、お前は理解していない」
「――…兄さんは、また楓を利用する気なのか」
うんざりする。何年経っても、この胸糞の悪い気質は変わらないようだ。
金と権力にのみ、幸福が存在すると信じている。そして、自分はそれを得るにふさわしい人間なのだと勘違いしている。厄介なのは、それを一片の疑いもなく信じ切っていること。
「…楓は、誰にも渡さない。利用なんかさせない。神様にだって、自由に生きる権利があるんだ」
人間とは違うが、彼女にも、喜怒哀楽が存在する。楽しければ笑うし、悲しければ、うつむいて寂しそうな表情になる。そんな様子を見ていると、人間とさほど変わらないのではないかとすら思う。
だから、雪智は自分の行動は正しかったと胸を張って言える。それだけの自信がある。これまで見てきた、楓の笑顔が、それを証明している。
雪智の迷いのない瞳を忌々しげに見つめ、兄は唇を歪めた。
「――何も反省していないようだな、雪智。お前は、昔からそうだ。父に逆らい、母と兄をないがしろにし、我が家の家宝であるお座敷様を盗んだ。しかも、それだけでは飽き足らず、自らはお座敷様の与える福を貪り、悠々自適な生活を満喫している。この兄や、両親がどうなったかすら考えもせずにな」
「………兄さんにどう言われようと、僕は間違っていない」
神を便利な道具としか考えないような人間の傍に、楓を置いておくことはできない。どんなに恨まれようが、彼女を家から連れ出したことを後悔したことは一度もなかった。
老いた兄の姿を見ても、それは変わらない。
雪智のまっすぐな視線に、ふっと兄の瞳に暗い影がよぎる。
「…昔からお前は、足枷のように重い存在だった。今となっては、足枷どころか、地獄の鬼のようなものだ。お前がいる限り、俺は自由に動けんのだ」
雪智の視界の隅で、何かが光った。
マズイと感じる間もなかった。
それは、白銀の輝きを放ちながら、雪智の胸部へと吸い込まれていく。
ズブ、と。
何かが服を貫き、皮膚を割いて突き刺さる。
痛みより先に熱が走り、遅れて、激痛に襲われる。
「…っっ」
一瞬、痛みで視界がくらんだ。
喉の奥から熱いモノが込み上げて、口内に鉄の味が広がる。あまりにも不快な味に、顔が歪む。
「――雪智、そんなものでお前の罪が贖えると思うなよ」
その声は、地から湧くように低く響いた。
声に込められた悪意が、傷口から沁み込むように体内を巡る。
間近に迫った兄の顔には、下卑た笑顔が張りついていた。
「安心しろ、雪智。お座敷様は、俺が大事に大事に利用してやる。もう二度と逃げ出さないように、暗い暗い座敷牢に閉じ込めて、誰も会えないように幾重にも鍵をかけてやろうなァ」
「っ」
文句を言おうとして口を開くが、声が出ない。代わりに口内に溜まっていた鉄くさい血液が涎のようにぼたぼたと垂れた。
兄は、狂気じみた笑みを口元に刻んで嗤う。雪智の胸に突き刺した小刀を抜き去り、崩れ落ちる弟を蔑みながら。
「…お前を苦しめるには、お座敷様を痛めつけるのが一番効果的だからな。どうだ、死んでも死にきれんだろう? この俺がいる限り」
いい気味だ、と笑う声が、忌々しくて呪わしい。
しかし、今の自分には、恨みごとを言うことさえできない。
惨めに地面に倒れ伏して、必死に眼球を動かせて睨みつける。
思った以上に傷は深く、出血量が多い。
熱い血が地面に吸われていく様は、まるで、生気を吸い取られているかようだ。ざわざわと寒気がして、みるみるうちに身も心も萎えていく。
「……ふん」
兄は、興奮のあまり血走った眼を、雪智から外した。
その視線の先には、今にも崩れそうな廃屋がある。
(――駄目だ!)
あそこには、楓がいる。何よりも、誰よりも、守りたい少女が――。
ざわざわと不安を煽るような音を立てて、風が、伸びきった草を散らして駆け抜ける。
「っっ」
咄嗟に、雪智が手を伸ばして兄の足首をつかんだ。それは、意図的ではなく反射的なもので――…その行動に、兄はぞっとするような冷酷な笑みを浮かべた。
「…ふん、なるほど。お座敷様は、あそこにおられるのか」
「!」
血の気のない雪智の顔色が、ますます悪くなる。
あまりにも迂闊すぎる行動に反省する間もなく、雪智は、持ちうる限りの力を込めて、兄の足にしがみついた。
ここから先へは、行かせない。いや、行きたくても行けないはずだ。
神域は、わずかな穢れをも嫌い、それ故に、欲深き人間を拒む。
それくらい、ちょっと考えればわかることだったのに――楓がいなくなったことで、雪智は冷静さを欠いていた。
何としても兄をとめねばと足掻くものの、どんなに必死になったところで、所詮は、死に損ないだ。
軽く蹴り飛ばされただけで、その手はすぐに解けてしまう。それどころか、その衝撃でさらに出血と痛みが酷くなり、意識が混濁してしまったようだ。目を閉じ、わずかに開いた唇が微かに震えているだけで、すでに何かをできるような状態ではない。
「………」
浅く、荒く。切れ切れに呼吸を繰り返す弟を見つめる兄の瞳は、どこまでも冷酷だった。
兄弟に向けるわずかな愛情すらなく、それどころか、弟の死に対して興味がないかのように、冷えた眼差しを廃屋へと向ける。
「……お座敷様をお迎えに行かねば」
あれは、他の誰の者でもない。三枝家当主である自分のものだ。
兄にとって、それは自明の理だった。
彼の心にあるのは、焦がれ続けた少女の姿。座敷童と呼ばれる、幸運の鍵。彼女のいない人生など、ただ惨めなだけだ。
そう、彼女がいなければ、意味がない。
だから、何をしても取り戻さなくてはいけない。
もはや、一分どころか一秒も待てない。
ふらりと、兄の足が吸い込まれるように動く。
すでに、雪智にそれをとめる術はない。それどころか、すでに意識がない。死ぬのも時間の問題だろう。
死にかけの弟に背を向け、兄はどこか虚ろな瞳で歩き出す。
雪智の入れなかった領域へと――禁じられた地へと、ゆっくりと足を踏み入れる。