三人目
俺は友に聞いた、不思議な図書館の前にいた。見るからに不思議だと、内心思う。勇気を出して、入っていく。
「おや、君は***君の友達だね?」
「***を知っているのか!」
黒髪の男は、友の名前を知っている。俺は思わず、叫んでしまった。
「ええ、前に来てくれましたから。この図書館も、聞いていましたね?」
「………」
「***君は、この本を読んでいましたよ」
それは、金字の装丁がされた赤い本だった。
***
──蒼威空の物語を、読んでみますか?
「おい、空!聞いたか、悠樹が謙吾先輩と同棲した話を」
「ああ、聞いてるから…耳元でそう叫ぶな。うるさいだろ」
いまいち気が乗らない男子と耳元で叫ぶ女子の二人が、薄暗く陽が落ち掛けている教室で見かけられた。一体、どんな関係なのだろうか。幼馴染みかもしれないし、友人なのかもしれない。
「あー、気が乗らねぇー」
そう言って、帰り支度をして帰ろうとする空と、それを阻止する女の子。毎日、同じことを繰り返しているようだ。二人の放つ空気は、まさに重苦しい。
「待ちなさいよ!その気の乗らない態度が、気に食わないのよ!」
「あー、そこ退けよ、邪魔だぞ、由香」
空は由香に言う。それこそ、うっとおしそうな表情をして、その脇を通り抜けようと歩き出す。それでも、由香は頑として通そうとしない。
「だって、悠樹が謙吾先輩と同棲しているのよ!?」
由香は悠樹を男色家と言わんばかりに叫ぶ。彼女は、同性愛について明らかに否定的である。あんな文化なんて、滅びてしまえばいいのよ。と、毎日言い続けているらしい。
「煩い、黙れ。あと、おまえ個人の考えを人に押し付けるな」
空は聞きようにとっては、暴言にも取れる言葉を言う。それほど、由香の考えに嫌気が差していたようだ。彼自身は、そんな文化があっても気にしない。むしろ、今も同性に初恋しているのだから。
「ひ、酷い!!」
「煩い、俺は帰りたいんだ。それに、俺は同性愛なんて文化はあってもいい」
そう言って、空は教室を出た。由香の考えに一番振り回された被害者でもある。だから、由香の考えをぶち壊すことばかりやってきた。
「……酷いよ。私は同性愛なんか嫌いなのよっ!折角の彼氏を男に寝取られたんだからぁーーー!!」
由香は落ち込む。それにしても、まさか彼氏を男に寝取られたとか、どんな体験談なんだよ。それ、どう返事すればいいのか分からないんだが。
***
「雪兎、今…帰ったぞ」
その言葉は、まるで旦那の言う言葉じゃないか。それに、学生のはずなのにやけに雰囲気が似合う。
「あ、お帰りなさい…空」
雪兎はお玉を持って、そう言う。おまえは、新妻か。なんで、おまえはそんなにエプロンが似合うんだよ。
「相変わらず、雪兎はエプロンが似合うな」
空は言う。その目は、いやに雪兎を凝視している。
「お世辞はありがとうございます」
「今日の夕飯は何だ?」
「ふふふ、今日は空の好きなカレーですよ」
「まじか!雪兎、サンキューな」
そう言って、空は居間に行く。その後ろ姿を見ていた雪兎は、しみじみとした面影で笑っていた。
「僕のエプロンは主夫の証」
雪兎は居間に行く。その呟きは、少し寂しさも混じっていた。どうやら、思い出にしようとしているかのような感じ。すると、空は待っていた。
「雪兎、早く食べたい」
「はいはい、判りましたよ。頂きましょうか」
雪兎はそう言って、鍋にお玉を入れた。あらかじめ、お皿に盛っておいたご飯にルーをかける。
「あっ…」
雪兎は言う。何か、忘れたことでもあったのか。しかし、空に気付かれないように平常心を持って、普通を装う。
「はい、空…カレーですよ」
「いただきます」
そう言って、空は食べる。その姿を雪兎は眺めていた。長い間、空の世話をしていたからこそ、愛情を持って接してきたのだろう。
「ふふふ、育ち盛りはよく食べますね」
「雪兎、おかわり!」
「はいはい、分かりましたよ」
雪兎は皿を受け取り、ご飯を盛りカレーを掛ける。空が満足するまで、何回でも同じことを繰り返していた。
「はい、よく食べなさい」
若干お母さんみたいな事を言う。雪兎はよく食べる空を微笑ましく見る。自分の子供ではないけど、それでも可愛いく思える。
「雪兎、さっきな悠樹の話をしてきたんだ」
「悠樹くんの話ですか」
「ーー悠樹が男色家だと言う話だ」
「おや、そんな話があるんですか。でも、聞いただけでしょう?」
「ああ、そうだな」
しばらく、無言が流れる。どちらも口を開かない。静寂がその場を包む。雪兎は笑いながら、空の話を反芻していた。
「さて、空…おかわりはどうしますか?」
「ああ、おかわりするよ」
雪兎は皿を受け取る。空が望むことを、毎日してきた。だからか、何も聞かずに言うまで待つことがしばしばある。
「……ありがと」
「いいんですよ。半ば、押し掛け女房みたいですから」
そう言って、雪兎は笑う。何回も言われていたのか、慣れたような感じで返事を返す。
「雪兎、悠樹の噂はどうするんだ?」
「僕が調べておきますから、安心して下さい」
雪兎は携帯を持って、文字を打ち込んでいた。どこかに、メールをしているようだ。その相手を、空は知らない。知る必要もないのだろう。
「空、早く眠りなさい。気が乗らないでしょう?」
「雪兎はよく俺の事を知っているな」
「空が何もしないから、僕がやっているだけですよ」
「そっか、じゃ、寝るわ」
そう言って、空は二階に上がる。後片付けをしながら、返信が来るまで待っていた。ようやく返ってきたメールを見て、話の詳細と一緒に彼らからの言葉を噛み締める。雪兎は空が寝たあとも、朝食の用意をする。
「空、ごめんね。僕は、どうやらここまでみたい」
雪兎は朝食の用意をしてから、就寝しようとする。しかし、空の世話を出来ないと思うと、仕方ないのかなと。だって、所詮お願いされた身として彼らの言葉は絶対なのだから。
「ふふふ、お休みなさい…空」
雪兎は眠りに入った。明日が最後の仕事になるのだから。精一杯の後始末をしようと思った。
***
「空、早く起きて下さい、学校に遅れますよ」
雪兎は空を起こす。起きるまで、揺らし続ける。それが日課であるから。朝は起きるのが辛い空のために、早起きして起こしに来る雪兎。
「……おはよう、雪兎」
「おはようございます、空…朝食はもう出来ていますよ」
「ああ、分かった」
雪兎は一階に降りる。そして、ポツリと漏らした一言。まさか、その呟きを聞かれていたとは。
「そろそろ、僕の役目も終わりそうですね」
ちょうど降りてきた空は、雪兎の言葉を聞いて叫んだ。長い間世話してくれた人の役目が、終わると知ったのだから。
「役目で何だ!俺を残して消えるのか…雪兎」
「……僕は、空のご両親に頼まれていたんですよ。空が一人暮らしを満足に出来ないだろうと思ったご両親が、僕にお願いしてきたので引き受けたんです」
「だからって、雪兎が居ないと俺は何も出来ないんだよ…」
空の叫びは、雪兎の心を揺らす。本当は、自分も長くいたかったけれど、お願いされた身としては引いておかなくちゃいけない。
「そうだね、空には僕が居ないと駄目ですね」
雪兎は寂しげに言う。それでも、ここには留まれないのだから。自分の仕事を休んでまで、空の身の回りの世話をしてきたのだから。
「……学校に行ってくる…」
空は学校に行った。残された雪兎は、最後の仕事を全うした。
「……空には僕が居てあげないと、何も出来ないんですよね。これは、恋ですか…」
初めて経験した雪兎は、悩んでしまった。まさか、空に愛を抱いてしまうとは。年齢の差があるのだから、決して感じてはいけない。
「恋は、初めて体験したよ…」
雪兎は、どうしようも無いほどに悩み続ける。心は何を想うだろう。
***
「雪兎…居なくなるな」
空は雪兎との楽しい思い出に更けて言う。普段から気の乗らない空が更に乗らなくなっている。空の中で、雪兎はどうしようもないほどの存在に膨れ上がっていた。そんな空に、雪兎の笑顔が心の中で弾けた。
「空、今までありがとう…僕が仕事に戻らないと、皆さんに迷惑掛けてしまいますから」
雪兎はテーブルに夕食のカレーと手紙を置いて出ていく。名残惜しそうに、そして玄関に向かう。
「空、ありがとう…また会いましょうね」
寂しいけど家を出た。空が気付いた時には、雪兎はもういない。
***
『空へ。この手紙を読んでいる頃にはもう、僕はいないでしょう。だけど、悲しまないで下さい。僕は空といられて、楽しかったですよ。僕は、仕事を再開します』
読み終えた空は、かなり暗く落ち込む。大切な人が、自分の前から姿を消したのだから。
「雪兎…居なくならないでくれよ…俺は寂しいんだよ…」
そして、空は何ごとにもさらに無気力になってしまった。そして、壊れたように目が虚ろになり、何も思わない。
「やはり、空は心が弱かったんですね」
***
「……ははは、この花は何だろう?」
元々、気の乗らない空は…死んだような目で、棒読み気味に言う。座り込んだ空の周りには、菫が咲き誇っていた。
「雪兎…」
空はそれだけ言って、ずっとその場に座り続ける。大切な人が来るまで、ここを離れないつもりらしい。それもそう、空は完全に雪兎に依存していたのだから。
「雪兎…」
無気力状態の空は危なっかしい。雪兎が来るまで、何も感じないし思わない。だからこそ、雪兎は空の精神状態を知っていて、ずっと身の回りの世話をし続けてきた。
***
「空には雪兎が居ないと、魂を抜かれたような状態になってしまいますからね」
雪兎は空の後ろに、ずっと立っている。昔からの友人が、空のことを報せてくれるまで知らなかった。まさか、こんな状態になっていたとは。菫の中を座り続ける空に、雪兎は悲しくなる。
「雪兎…、俺を見捨てないで…」
ようやく立ち上がったと思えば、夢遊病のようにふらふらと歩いていく。それこそ、死んだような目に棒読み気味で――。そんな空を見て、秋兎は堪えられなくなった。突然、後ろから空を抱きしめた。
「……空。僕は、何処にも行きませんよ」
「……雪兎、どこにも行かない?」
そう言った秋兎の隣には、雪兎が苦笑していた。そして、耳元で囁く。それは、一体どんな言葉なのか。そして、空は雪兎に抱き付く。
「もう…離さない…」
それだけ言うと、空は眠った。雪兎はしっかりと支えて、背中に乗せる。眠った空を見て、雪兎は苦笑して歩き始めた。
「仕方ないですね。今回も助けるよ。雪兎、しっかり見てくださいよ」
秋兎は、雪兎の前を歩き、菫の中を進んでいく。それは、不思議な光景だった。
「僕は縛られるんですよ…」
突然、雪兎は語り始める。空と云う鳥籠に囚われ、決して永久に解かれない鎖に縛られ、羽ばたこうと、もがき苦しむ雪兎と云う鳥。
「空…どうして僕に依存したんですか?」
雪兎は空をおんぶして、菫の中を歩く。前には、秋兎が道案内をしていた。
「……どうして僕は、空のためにここまで来たんだろうね」
呟きは虚しく、融けていく。雪兎は空の寝息を聞きながら、菫の中を家に向かう。空は雪兎と云う鳥を捕らえて、鳥籠に閉じ込める。雪兎と云う鳥は鳥籠に閉じ込められ、もがき苦しむ。
「帰ったら…シチューにしますか」
雪兎は空を抱えて、歩いていく。もう、離れられないみたい。自責の鎖が、逃さない。
「空を助ける為に、僕はまた秋兎に助けを求めてしまったね…」
咎の鎖は雪兎を逃さずに捕らえ、一生を付きまとう。逃がさないと言わんばかりに。雪兎らは家に着く。
「空、家に着いたよ」
雪兎は空を揺り起こす。まるで、子供を起こそうとするその姿は親みたい。
「んんっ…ゆきとぉ?」
「何ですか?空」
「へへ、ずっと一緒だよ」
幼児逆行してしまった空の返事に雪兎は微笑む。これでは、学校に行かせられるのかな。少し、疑問に思ってしまった。
「大丈夫ですよ、側にいますから」
寝てしまった空に、話しかけるように言う。もう、側を離れられない。
「……何処にも…行かせない…」
空は雪兎の首を絞めながら言う。離れたくないらしい。
「僕は仕事があるんですよ。人のために働かなくてはいけないからね」
雪兎は空の手を離しながら、言う。ずっと休み続けていた仕事を、雪兎は罪悪感に思う。
「……何処にも…行かないで…一人にしないで…」
空は子犬のような目で、雪兎を見る。一瞬、耳と尻尾が見えたような気がした
「空、僕から自立してよ。僕は空の為に、二人に頭を下げてきたんだから。我が儘を言わないでくれないかな?」
雪兎は、空のために言えなかった本音を吐き出す。ここまで、してきた全てを話す。
「空は…いつまで僕を離さないんですか?」
「…死ぬまで…」
空の本気の覚悟。というより、雪兎は先に死ぬよね。雪兎は空に絡め取られ、身動き出来ない。空により、何処にも行けず囚われた鳥籠の鳥。今まさに、雪兎が鳥籠の鳥なのだから。空が離してくれない限り、雪兎は仕事を再開出来ない。何が空を、そこまで追い詰めたか。雪兎には分からない。だけど、分かる事は…寂しいと云う事。空は雪兎に何を見ているのだろうか。
「空…、僕は空にとってどんな存在ですか?」
「雪兎は俺にとって、親のような存在だ」
どうやら空は、雪兎を親代わりとして見ていたようだ。両親がいるのに、空はずっと寂しかった。何もしてくれないから、一人暮らしを始めた。そんな空にとって、親と同じ事をする雪兎は、愛情を与えてくれる存在だったらしい。愛情に飢えていた空は、家族と云う鎖で僕を縛り離さない。雪兎は空の為に離れないと、いつまでも甘えたままになる。明日、空を突き放さないといけない。その日の夜、雪兎は書いた手紙をテーブルに置いて、家を出た。次の日、空は気付くだろう。
手紙の内容に。
『空へ。僕は空の目の前から姿を消します。けれど、泣かないで下さい。僕は空の親には、なれません。たまに立ち寄る事もあります。ありがとう、空』
「Ate logo.(じゃ、またね)、空…」
雪兎はそう言って、仕事先に向かった。空のために、僕は心を鬼にする。いつまでも、僕に依存してほしくないから。
***
「雪兎…」
空は雪兎の手紙を握り締めながら泣いた。学校に向かうけど、何かが変わっていくだろう。雪兎が指し示してくれた、人生の行き先を。
「……この雪兎は、苦しかったんだろ?」
「ええ、このままでは空は堕落するだろうと思って、離れたのに駄目になりましたね」
黒髪の男は、そう言って苦笑している。そして、俺は気が付いた。
「おい、お前が出ていたな。どうして、雪兎はお前を頼ったんだ?」
「雪兎は、僕の友人ですから。その頼みを聞くのも、友人の役目でしょう?」
黒髪の男は、まるで自分が人ではないというような言い方だった。
「秋兎さん、空はどうでしたか?」
「危ないですよ」
***
俺は逃げるように、図書館から出た。そして、友に会いに行く。どこかに、消えてしまったアイツを。見つけたら、思う存分告白してやる。