9−3
『ありがとう。楽しかったから、もういいや』
マオは早口で告げる。
『そんなけがまでして、守ってくれなくてもいいよ。拾った猫がまた、元の飼い主のところへ戻っただけだと思って』
エミリの方を見る。
『あたし、行くから。帰るから。だから、もう隆二のこと傷つけないで』
「……もう、逃げませんね?」
ゆっくり吐き出したエミリの言葉に、マオは小さく一つ頷き自嘲気味に嗤った。
『何処に逃げたらいいのかわからないから』
それから再びやけに無表情で自分を見る隆二の方を振り返る。
『隆二、怒ってる? その、ごめんね。散々巻き込んで置いて。どうせなら、もっとはやく、あたしがこうしていればよかったよね。そうしたら、隆二がけがするなんてことなかったのに……。ごめんね』
隆二の頬に手を添えた。
『ありがとう。楽しかった』
そういって隆二の唇に自分の唇を重ねる。食事の意味を持たない、初めての行為。
隆二が、ほんの少し驚いたような顔をした。それがおかしくて少しだけ笑う。
そのまま、隆二の頭を抱えるようにして抱きついた。
『あのね、隆二。最初にね、会ったとき、本当はとても怖かったの。最初は、あたしのことを見える人がいるんだ! って素直に嬉しかった。でも、すぐに怖くなってしまった。気づかれるんじゃないか、あたしがまだ存在して少ししか経たない未熟者だと、本当は存在していてはいけない者だと』
隆二の耳元で、囁くようにして語る。隆二からの返事はない。
それで、構わなかった。
『そして、……これが一番怖かったんだけれども、また名前をもらえないんじゃないかと思って凄く怖かった。あの人達は、あたしのことを、それとかあれとか認識番号で呼んでいたの。だから、貴方が名前を付けてくれたとき凄く凄く安心して嬉しかった。あたしは「マオ」という存在にはじめてなれた。嬉しかった、ありがとう』
そう言って、少し黙る。あと他に、言いたいこと、なんだっけ?
『あたし、隆二の事、大好き。大好きだから、触れないのわかってても腕組んでみたかったし、手を繋いでみたかったし。大好きだから、もし、隆二がいいよって言ってくれたら、隆二を、食べたかった。男の人、美味しくないの、知ってたけど』
楔だった。
神山隆二という存在は、マオにとって世界とつながる楔だった。離れてしまえば、もう戻れない。そんなこと、わかっている。でも、
『その、後でちゃんとけがの治療してよね』
でも、だからこそ、彼を犠牲にするわけにはいかない。
あの水槽の中で本当は終わるはずだった。
たまたま逃げ出せたけれども、そのあともあのままだったら、きっとすぐに捕まっていただろう。
それを、少しの間だけれども、楽しい日々を過ごせた。隆二が知らないものを沢山教えてくれた。
それだけで、満足だ。
『それじゃあ、ね』
隆二の返事を待たず、隆二と視線を合わせないまま、手を離すとエミリの方へと移動する。
エミリの前に降りる。
『逃げて、ごめんなさい』
「そうですね。研究班はかんかんです。覚悟して置いた方がいいですよ」
そういって歩き出す。その後をマオはゆっくりと追う。