8−2
工藤菊の日課は、ベランダから双眼鏡で町を眺めることだ。
もしかしたら何か妖怪がいるかもしれない。幽霊がいるかもしれない。化物がいるかもしれない。都市伝説があるかもしれない。
だから今夜も菊は双眼鏡片手に町を眺めていた。
「はぁ」
切なく吐息を漏らす。
今日も何も見つからなさそうだ。
そういえば、この前の赤い服の少女。あれについては結局なにも詳しいことがわからなかった。
いや、違う。厳密にいえば何となくわかった。ただ、それは菊の望む答えではなかった。
「あ、見た見た。金髪の可愛い子っしょ? なのに服装赤いあれ」
赤い少女についてなにか知らないかと尋ねたら、あっさりと恋人にそう言われた。普段非科学的なものを否定する彼に言われたのは、なかなかの衝撃だった。あと、可愛い子っていうのにも傷ついた。確かに、可愛いっぽかったけど、顔。
「あの服、どこで買うんだろうねー」
「……あたしね、妖怪なんじゃないかなーって思ったんだけど」
「んなわけないじゃん」
笑われた。
「だって見かけたの俺だけじゃないよ。太陽とか椿とかも見たって言ってたし、あ、桜子さんも見たって言ってたな。あまりの赤さに眼科行くか悩んでてうけた」
「そんなに……」
「大学の連中、普通にナンパしてたし。振られてたけど。なんか人探ししてるんだって」
「……そういう妖怪じゃなくて?」
「違うって。……菊さ、いい加減認めなよ。世界にはそんなものないって」
そこからいつもみたいにちょっと喧嘩になった。
それも思い出して、ますます溜息。
それだけ大量の目撃情報があるものの、特になんらの被害情報も無く、しかも普通にナンパされているし、どうやらあの赤い少女はファッションセンスがぶっとんだ普通の女の子と結論づけるしかできなかった。
あのファッションセンスのぶっとび具合はそれだけで、奇怪といえば奇怪だが、着ているのが普通の人間であるならば菊の守備範囲外だ。
「……どこにいるの、あたしの助けを待っている幽霊は……」
もうこの際、なんでもいいから現れてくれないだろうか。
そう思っていると、なにか屋根の上をはねるように動く影が見えた。
「ん?」
あわててよく見ると、それは人のようだった。
素早い動きをしているが、その姿にはなんとなく見覚えがある。
影はこちらに近づいてくる。結構速いスピードで、まっすぐに。
「あ」
影はお向かいさんの屋根にまで来ていた。
「常連さんっ!?」
完全に視認できたその姿に、菊は思わず叫ぶ。
それは最近見かけなくなったと思っていた、バイト先の常連、ちょっとくたっとした感じの青年だった。
「っ! コンビニのぉぉっ」
相手も菊に気づき、驚いたような声をあげたが、丁度それは跳躍の瞬間。踏切に失敗して菊の家の屋根に届かない。
「ひっ」
思わず悲鳴のような声が漏れる。
落ちて行く青年が、やけにスローモーに見える。
ぎゅっと目を閉じる。
かっしゃん、っと金属音がすぐにした。
ああ今の落ちた音落ちた音ですか? 神様。
半泣きになりながらそう思うと、
「あーちょい、失礼」
青年の声が案外近くからした。
目を開けると、ベランダの手すりに片手で捕まる青年の姿があった。
青年は菊に声をかけてから、片手だけで器用にベランダ内に侵入する。
それをぽかんと口を開けて見つめる。
え、何? 何があったの? っていうか無事なの? 無事ならいいけど。
青年が困ったような顔をして、菊の前で人差し指を立てた。
「出来れば、静かにして欲しい」
言われて、慌ててこくこくと頷く。声なんて出そうもなかったけど。
よく見たら青年の左肩は赤く染まっていた。
青年はどこまでも困った顔をして、菊を見つめ、外を見つめ、自分の肩辺りを見つめた。
「いや、まあ、ドジはドジだけどさ」
そうして肩に向かって小さく何かを呟く。
思い出す。
あの赤い少女に会った時。倒れていたと少女に起こされた時。あの時、気を失う直前に見たのは、この常連の青年ではなかっただろうか。
彼は屋根の上を走っていた。着地に失敗した後のリカバリーは普通の人間とは思えない動きだった。
肩が血のようなもので赤く染まっているが、痛がるそぶりもないし、なによりもそっちの腕でさっきベランダに掴まっていた。もしかしたら彼の血ではないのかもしれないし、彼の血でも回復したのかもしれない。血が垂れている様子はないし。
何よりも青白くってそれっぽい!
「あのっ」
菊は青年の両手を握ると、
「もしかして、吸血鬼とかそういう系統の方ですか!」
今年一番の笑顔で、目を輝かせて尋ねた。




