8−1
どうやら本当に寝入っていたらしい。嫌な夢を見てしまった。昔の夢を。
隆二は体を起こし、小さく伸びをした。
あたりはすっかり夜になっている。
『おはよ』
隣でマオが小さく微笑んだ。
「おー。夜だけど」
くすぐったそうに、マオが笑った。
「マオ、大丈夫か?」
『何が?』
「腹減ってないかってこと。食べないと消えちゃうだろ、お前」
『ああ、うん、大丈夫。昨日、食べたばかりだから』
「ならいいけど。俺の精気をあげられたらいいんだけどな。人間じゃないからどうなるかわかんないしな」
『そっか。だから、嫌がったの? あの時』
「んー? ああ、まあ普通にほいほいあげるもんじゃないとも思ったしな」
『……そっか』
マオは何かに納得したかのように頷いた。少しだけ笑っている。
『うん、そっか、ならいいんだ』
「なにが?」
『なんでもない。隆二は大丈夫? お腹空いてない?』
「ん、あー、別に食べなくても平気だから」
ここのところ三食ちゃんと食べる癖がついているけれども。
まったく、余計な出費だったあれは。マオの正体が最初からわかっていたらあんなことしなくてよかった。普通の人間のフリ、なんて。
『隆二も、ひとでなしだったんだね』
「まあ、普通にひとでなしなんだがな」
人間じゃないし、道徳的な存在とは言い難いし。
「さって、これからどうするかな」
なぁ、マオ? とマオの方を見る。
マオは何故か、大きく目を見開いて驚いたような顔をしていた。
何をそんなに驚いている?
『隆二、後ろっ!』
マオが叫ぶ。
慌てて振り返る。
銃声。
「っ」
肩に走る痛み。
『隆二っ!!』
マオが叫ぶ。
おろおろと、隆二の肩に手を置く。けれどもその手は何の意味もなさない。
肩から血が流れ落ちる。
『ああもう! どうしてあたしはこんなときに何にも出来ないのよっ!』
悲鳴に近い声でそういうと、それでも手は必死に隆二の肩を押さえていた。そうすれば、傷が消えるとでも言いたげに。
『隆二、大丈夫? 痛い? ごめんね、ごめんね。あたしのせいで、ごめんね』
「平気だって」
一度大きく息を吸い、痛覚を遮断。持っていたハンカチで止血。ここまですれば、あとは放っておいても傷口は塞がる。
自分の体だ、長年の経験で知っている。
「ええ、平気でしょうね、あなたなら。U078、神山隆二」
銃声の主、エミリが無表情のまま言った。
「いきなり撃つか、ふつー? しかもこの暗闇で」
「何故あなた相手に警告してから撃たねばならないのですか? ネオンがあるから、だいぶ、明るいですしね」
黒い夜の空に、赤い服と金色の髪がなびく。死神の孫は、死神と同じように無表情で立っていた。
マオを背中に庇い、エミリを睨む。
「よくここがわかったな」
エミリは黙って指先を上に迎える。空。
「……何?」
「衛星で」
「……相変わらず、おたくらぶっとんでるねー、規模が。バカじゃねーの」
当たり前のように言われた言葉に、鼻で笑う。
「なんとでも言ってください。それよりも」
エミリは隆二の後ろで隠れるようにしているマオを見る。マオはびくり、と体を震わせると、隆二の背中にしがみついた。
「渡してください、G016を」
「嫌に決まってんだろ巫山戯んな」
「巫山戯ているのはあなたの方です。一体、どういう了見で、ソレを庇い立てしているのですか。わたしたちに逆らう気ですか?」
「一度だって俺があんたらの言うことを聞いた事があったか? 言う事を聞くふりをして、寝首をかくチャンスを虎視眈々と狙っていた、なら否定しないけど」
エミリは少しだけ顔を歪ませた。多分、不快の感情表現。
「マオは渡さねえよ。うちの居候猫なんだからな」
もう二度と、失ったりはしない。失うわけにはいかない。
右手を後ろに伸ばし、マオの手を掴む。少しのためらいの後、マオが握り返して来た。
もう、一人の生活には戻れない。戻りたくない。
また、同じことを繰り返したくはない。
「もう一度だけチャンスを与えます。G016を渡してください」
「嫌だ」
即答。それも幼い子どものように舌を突き出すおまけ付き。
エミリは小さく、わざとらしく、芝居がかった動作でため息をついた。
「それではしょうがありませんね」
「そんな、玩具みたいな銃で、俺をどうにか出来ると思っているのか?」
「いくらあなたでも、頭をふっとばされれば、そうそうすぐには動けないでしょう」
そう言ってエミリ銃を構え、隆二は身構える。
先ほどは油断していたが、きちんと注意していれば避ける自信は十分にある。
なにせ、無駄に発達した身体能力を持っているのだから。かつて、生物兵器として使われるための、無駄に発達した身体能力。今使わなくて、いつ使うのか。
マオの手をしっかり握っていることを確認する。
一つ息を吸う。
注意していれば避ける自信はある。
でも、その後はノープランだ。
ならば、エミリが引き金をひく、その前に。
膝に力を入れて、後ろへ跳躍。
「へ?」
エミリが少し間抜けな顔をして、慌てて銃口を動かすのが見える。でも遅い。
『隆二っ、落ちるよっ!』
マオが悲鳴をあげながら右腕にしがみついてくる。
距離感覚は間違っていなかった。
飛んだ先に床はなく、そのまま落下。
『隆二っ! 危ないよぉ』
泣きそうなマオの声。
まあ、確かに無駄に高いこの建物からそのまま落下したら、いくら隆二でも直ぐには動けなくなるだろう。足、折れる。
だから、
「っと」
ぎりぎりのところで、途中の窓枠に左手の指先を引っかける。
撃たれた方の肩だから、少し力が入りにくい。
急に体重をかけたから、しばらく動かないかもしれない。でも、駄目にするなら利き手じゃない方がいい。
下を見る。
この高さからならば、怪我せずに降りられるだろう。
そう判断し、手を離そうとしたその耳元を、何かが横切った。
「え?」
何かは街路樹の根元に突き刺さった。
『やだぁ……』
マオが怯えたように呟く。
上を見る。
エミリが銃を構えてこちらを見下ろしていた。
いやいやいやいや、普通、撃つか? こんなところで?
人通りの少ない道でよかった。
エミリの指が引き金にかかる。
「やべ」
慌てて窓枠から離れると、地面に着地。
マオを連れたまま走り出す。
もう一発撃った気配がする。
だから普通は撃たないだろうこんな町中で。
細く入り組んだ路地に滑り込む。
これでとりあえずはエミリの視界からは外れただろう。
『……どうするの?』
マオが囁くように尋ねてくる。
「とりあえず、逃げる」
躊躇わずに告げると、路地裏を選びながら走り出した。
『……逃げるのかー』
マオがちょっとだけがっかりした口調で言う。
「何?」
『年上のほーよーりょくみたいなこと言ってたから』
「包容力な」
『もっと画期的な解決方法があるのかと思った』
「三十六計逃げるに如かずって言うだろ。逃げるが勝ちさ」
『誰が言うの? こーめー?』
「こーめー?」
『この前テレビで見たよ、こーめーの罠です! って。フリフリ着たおねーさんが言ってた』
「ああ、諸葛亮孔明。……いや、どんなテレビ見たんだよお前よくわかんねーよ」
軽口を叩きながら走る。緊迫感が足りない会話だが、マオの手が震えているのがわかる。
これで少しでも安心してくれれば、いいのだが。
「あー、マオ」
『え?』
慌てたようなマオの声。
だからなんで名前呼んだぐらいで怯えるのか。
抜本的な解決方法がなかったからって、見捨てるわけないのに。
「手、走りにくい。おぶされ」
『……いいの?』
「何で駄目かと?」
『……ん』
手を離すと、マオの両手が後ろから首筋にまわされる。
「よし」
走る速度をあげる。
上体は隆二にしがみついたまま、マオの足は宙を浮く。
『……隆二』
「んー」
『肩、痛い?』
「痛覚切ってるから平気」
『……それ平気じゃないよね。痛いのは体のサインだって、テレビで見たよ』
「どんだけテレビっ子だよお前」
『ごめんね、あたしのせいで……』
「大丈夫だってば、いつものことだし」
『でも……』
「あーもー、ごちゃごちゃうっせーな」
思わず吐き捨てるように言った。
『ごめんなさ……』
「だから怯えるなつーの。拾った猫の世話は最後までちゃんと見るんだよ、俺は。テレビと俺、どっちを信頼するんだお前は」
沈黙。
それから、
『……隆二』
耳元で小さくマオが言った。
「だろ?」
唇があがる。
ああ、そうさ。
もう失わない。無くさない。誰にも渡さない。一人になんて、もうならない。
マオをあの家に受け入れたのは、幽霊だからだ。人間みたいに自分より先に死なないからだ。成仏することがあっても、理不尽な別れがないからだ。
置いて行くなと頼んだら、きっと本当に置いて行かないでくれるからだ。
だから、こんなところで失わない。
あのときとは違う。
ちゃんと、連れて帰る。あの家に。