六
「へへっ……やけに大人しいじゃねえか」
小太りの奴隷商は相変わらずの下卑た声で言い、少年の顎を持ち上げる。
後ろ手を縛られ跪かされた少年は、そのたるんだ顔を睨み上げつつ吐きかけられた臭い息から顔を背けた。
「諦めたんだろ。こいつらは何処に行ったってこういう運命なんだ」
背の高い方の奴隷商はわかったような口を利いてぞんざいに返した。がたごととうるさい音を立てているのは荷馬車の整理でもしているからか。
確かに、少年は諦めていた。
どうしたってここから逃げ出せる方法は無い。
もしあの男が探してくれていても見つけ出せる可能性はとても低い、ということくらい少年は理解していた。
それに、探してくれる理由も、無いかもしれない。
彼はきっと良い人間だった。自分に自由を示してくれた。けれど、自分はそれを無下にした。
いつまでも心を開かない獣人を獣人でもわかるような低い可能性に懸けて探してくれるなどと、いくらなんでも都合が良すぎる。
「しかし前よりもやけに身体つきが良くなってるよな。さっきまでのご主人様に良いもん食わして貰ってたのか?」
「ナニ食わしてもらってたんだか」
下品な言葉と共に頬を撫でられる感触。ぞわりと全身が総毛立ち、奴隷商達は満更でもない風にひひひ、と笑い合う。
その声に思い出したくも無い記憶が蘇り、少年はその手を振り払うように頭を振った。
「盗賊あがりの奴隷商なんかだったら何処も似たようなもんだからな」
何もかもが元通り、何もかもが今までと違う。
「ま、こいつは一級品だからなあ。商品だろうが手ぇ出したくなる気持ちはわからなくもないぜ」
あのひとは僕を縛ったりしなかった。あのひとは僕をそんな目でみたりしなかった。あのひとは僕にいつも、優しかった。
でももう、今更だ。今更後悔したって遅い。
津波のように押し寄せてくる後悔の念。少年は諦めで自衛する。
涙を出す気にはならなかった。馬鹿な自分のために泣くのはもっと馬鹿だ。
「さてと、場所開いたぜ。さっさと積んでずらかろうや」
「おう」
小太りの奴隷商が少年を物のように持ち上げようとしたその時だった。
「その、汚らしい手を……!」
へ?と奴隷商は間抜けた声を上げる。
その肩口からは鮮血が噴出していた。
「離せ、外道が!」
「うぎゃあああああ!?」
血飛沫の舞う中で少年が男を見たのは、これが二度目だった。
男の緑豊かな草原のような瞳は、見た者の心臓が凍りつくような憎悪の色をしていた。
「な、なんっ……!?」
相方の凄まじい叫び声に背の高い奴隷商が慌てて馬車から飛び出す。
刹那、その脇腹も切り裂かれた。男の剣が二人の奴隷商の血を吸い月光に鈍く煌く。
少年は魅入られたように男の姿を眼で追っていた。
月を背景に血を纏う男の姿は湧き上がるはずの様々な感情以前に、思い起こさせる何かがあった。
初めて出会ったあの夜ではない、何時か誰かと重なる姿。そこに感じたのは恐怖ではなかった。
魂の奥底がざわめく様な既視感に少年はただ呆然と事態の推移を瞳に映していた。
「失せろ」
男が低く、殺気の篭った声で言い放つ。
奴隷商達は互いに血を流しながら這う這うの体で馬車に乗り込み、一目散に逃げ出していった。
少年は遠ざかってゆく馬蹄と車輪の音を聞きながらようやく我に返る。
男はゆっくりと振り返ると、全身の力が抜けたように握りこんでいた剣を手から落とした。
打たれる、と覚悟して少年は体を強張らせ、耐えるようにきつく目を閉じた。
しかし予想に反して男はから受けたのは、まるで縋るように少年の小さな体を包み込む体温。
「良かっ、た……」
耳元で囁かれた声は微かに震え、掠れていた。
「無事で、良かった……」
恐る恐る目を開けた少年は、どうして、という疑問を飲み込む。
そんなことより早く、言わなければならないことがあったのだ。
「ごめんな、さい……」
呟いたその言葉が堰を切り、涙が溢れ出す。
「ごめんなさい……!」
泣きじゃくる少年に応えるように男はその体を強く抱いた。