五
帝都の情報屋がもたらした情報をどう扱うか、考えあぐねながらライゼは所々石板が抜き取られ寂れた雰囲気の裏通りを進む。
闇の帳が空を覆い太陽と月が交替する時刻になってもファンドラーネの道々を行き交う人出はほとんど変化を見せない。
しかしこれだけの人がいてもやはり、獣人の姿はたった一人として見掛けなかった。十五年ほど前に公布された獣人奴隷解放令により、帝国政府が獣人の奴隷使役を禁じたため、それまで街の至る所で家畜以下の労働を強いられていた獣人たちは忽然と姿を消したのだ。
ライゼが幼少の頃家で働いていた獣人もある日突然いなくなった。父母に禁じられながらもこっそりと仲良くしていたライゼは、誰に聞いてもまるで元々いなかった者のように言われ寂しい思いをしたのを覚えている。
一体彼が何処へ行ってしまったのかを知ったのは家を出た後のことだった。当時奴隷として働かされていた獣人は皆、保護収容施設という場所に居を移したのだという。それが真実だと安心するほどライゼはすでに純真ではなかったが。
保護の名の元に獣人を集めたのは限られた魔導機関の動力原材料である魔力を帝国の管理統制の下で効率的に搾り取り研究するためであり、決して獣人を平等に扱うためではない。それに一部の貴族や富豪の間では禁じられているはずの獣人奴隷を当然の権利のように使い続けているということは平民の誰しもが知っている。
カドゥゴリ帝国は獣人と手を取る気など、さらさらないのだ。
入り組んだ街路をさらに奥へ奥へと進んでいくと段々と道行く者の種類が変わっていく。
きぃきぃという耳障りな鳴き声に視線をやると丸々と太った溝鼠が同族の死骸に群がり狂ったように貪り喰らっていた。
月明かりすら届かないその場所を歩くのは、慣れていてもやはり、気分の良いものではない。
それでなくても少年に告げた帰りの時間を大幅に過ぎているのに、依然としてライゼの足取りは重かった。
結論は出ている。選びようもないことだ、しかし……。
ライゼの端正な鼻梁に深い皺が刻まれる。
長年、探し求めてようやく出会えた相手の事だ。理性ではそうすべきとわかっていても、感情が首を縦に振らない。
結局答えは出せぬまま、宿屋に到着してしまった。
何度も修理されて、ついに諦められてしまったがたがたの扉をくぐると無愛想な店主がちらりとこちらを一瞥する。
その視線が妙に気になったが積極的に会話をしたい気分ではなったため、同じように一瞥を返して狭く急な階段を登った。
木の軋む音だけが響く真っ暗な階段を登っていると、堂々巡りを繰り返す思考がよくない方向へ走っていくのがよくわかる。
このままでは少年の顔を見て普段通りに振舞える気がしなかったので、一度立ち止まって心を落ち着けるに努めた。
大分待たせてしまったからな、腹を空かせているだろう。
荷物は置いていったので何か勝手に食べているかもしれないが、そういうなんでもないようなことを考えている方が精神衛生に宜しいような気がする。
ようやく三階まで登り切り、角を曲がって突き当たりの部屋へ。
この時までライゼは異変に気付いてはいなかった。
脳内を駆け巡る思考の渦に鈍らされた勘は、状況の把握を一拍遅らせる。
その部屋には、当然あるべき扉が、無かった。
「っ!?」
ライゼはその様子に息を呑むと室内に駆け込む。
しかしその何所を見渡しても、少年の姿は無かった。
これで扉さえ無事なら、少年はライゼの元を自ら去っていったのだろう、と考えたであろうほど、少年の匂いは消えている。
しかし床に散らばる木片は、いくら思考が麻痺していようとも、そうではないのだと理解させるに十分な蹂躙の気配を漂わせていた。
理解の後に訪れたのは、地の底から湧き上がる紅蓮のような怒り。
すぐさま踵を返すと飛燕の速度で階段を駆け下り、ぽかんと間抜け面をさらす店主の襟首を引き掴み怒鳴り散らす。
「あの子は! 俺の連れていた子供はどうした!」
ライゼのあまりの気迫に店主はつぶされた蟇蛙のような声でまず命乞いをする。
しかしライゼが怒り任せにカウンターの張り板を蹴破ると、油っぽい汗を顔面全体に吹き散らしながら消えそうな程の声を絞り出した。
「し、知らねぇ……! 太った男と背の高い男に連れられて出て行くのは見たが、この宿じゃそういうことを深く詮索したりはせん……!」
よくあることだからな、と店主が付け加えるのと同時にライゼの手が離れる。
首に跡が残るほど締め上げられ床に手をついて咽こんだ店主が顔を上げた時には、ライゼの姿は夜闇の向こうに消えていた。
ファンドラーネの下町を、放たれた猟犬のようにライゼはひたすらに駆ける。
少年を連れ去ったのは十中八九、奴隷商の類だ。
どうして少年が見つかったのかはわからないが、真っ当な軍人や市民があの宿に乗り込んできて扉を破壊していくとは考え難い。
そして、獣人の少年が一人で宿を取ることはまず不可能。とするならば、誰かの連れていた獣人を盗み出したという自覚はあるだろうから一刻も早く人目に触れない場所まで連れて行き、早々に売り飛ばして金にしたいと思うのが犯人の心理だろう。
そんな奴らの心理状況等知りたくもないし考えるのもおぞましいが、今は必要なことだった。
目指すのは城門。帝都の出口だ。
犯人達は少年を馬車にでも押し込め、早々にこの都を去ろうとするだろう。
勿論、この広い帝都のことだ。身の隠しようはいくらでもあるし、帝都の貴族に売り払うという手もある。
本当ならまず取り返すことは不可能だった。
それに、ライゼは店主に『それはいつのことだ』とは質問していない。
連れ去られたのがもう数時間も前の話なら、たとえ犯人達が本当に城門を通り抜け街を出て行ったのだとしてもそれから何処へ行ったのかもわからないのだから取り返しようが無い。
「……っ!」
ぎりり、とかみ締めた歯が唇に食い込む。
まだ、まだ、名前も知らないのだ。お互いに。
その名を叫んで探し回ることも出来ないのだ。
この名を呼んで助けを求めてもらうことも出来ないのだ。
それでも、ライゼは直感していた。まだ間に合うと。信じていた。
この男は、その想いだけを胸に十数年、あても無い旅を続けてきたのだから。