四
これまで立ち寄ってきた町や村とは規模が違う。
少年は目隠ししながらでも聞こえてくる段違いの騒がしさやぶつかりそうになる人の多さ、足を踏まれた回数踏んだらしい回数等から率直にそう感じ取った。
通された宿はいつもと同じ冴えない粗末な宿だったが、その部屋の窓から覗く景色は壮観だった。
三階の一室の小さな窓から見えたのは屋根と屋根と、屋根。つまり何処までいっても建物だらけで、草原や森などが覗きもしないほどに密集しているのだ。
通りの方はと見ると、こちらは宿が裏通りに面しているのか人気はそれほどでもなかったが、それでも十分すぎるほどだ。
「この町は帝都ファンドラーネ。この国の皇帝が住む、国の中心にあたる町だ」
知識すら与えられないはずの身分にいた少年だが、皇帝、という言葉の意味は知っていた。
数年前に飼われたことのある貴族にかなりの変人がおり、買い取った彼を人形のようにあれこれと着せ替え遊んだり、時折教師面して何かと教え込まれた事があるのだ。
世間一般常識から食事のマナーまで、正直辟易しつつもいつか役に立つだろうと我慢して教わり、結局あまりの懐かなさに転売されるまでに色々な事を知った。
それに生来の頭の良さの助けもあって、暇さえあれば見聞きしたことに自分なりの解釈をつけていったので、少年は文字を知らないなどの多少の偏りはあれど一般的な獣人奴隷に比べれば大分世間を知っている方だった。
流石に半年も共にすれば男もそれを理解しているらしく、余計な説明までしようとはしない。
「人間が大勢いる町だからな、気を付けろよ」
それだけ付け加え荷物を置くと、再び外出する支度をはじめる。
少年は黙ったままそれを眺めていたが、ふと気まぐれに口を開いた。
「……今日はどれくらいで帰ってくるの?」
その言葉を聞いた途端、男の手がぴたりと止まる。
少年は何か不味いことを聞いたのかと一瞬身を竦めるが、顔を上げた男の表情にはいつもの優しげなものの中に嬉しいという感情が混ざっていることに気が付いた。
「そうだな。わからないが、暗くなる前には戻ってくるよ」
男は言うと剣を差し直し、いつものように寝台横の小机に金を置きつつ通りがかりに少年の頭をそっと撫で、部屋を出て行く。
一人残された少年は呆けたようにそれを見送り、寝台に寝転がった。
久々の寝台は勿論、草の上の何倍も快適だったが、何か妙な居心地の悪さを感じて姿勢が定まらない。
どんなに寝返りをうってもその感覚は一向に消えることはなかった。息苦しいような気持ちの悪さが胸に過ぎる。
ひとこと。たった一言、なんでもない言葉をかけただけであれほど嬉しそうな顔をされるとは思わなかった。
そんな顔をされて、嬉しいと感じてしまうのは何でなんだろう。
そんな顔をされて、悪いことをした気分になるのは何でなんだろう。
矛盾に似た感情に理由をつけられず、少年は痛みを堪えるように顔をしかめる。
一つだけ、その矛盾をいとも簡単に解決する回答を少年は持っていた。
しかしそれは、今までの自分を裏切るような気がして怖く、心の奥底に仕舞い込む。
今まで受けてきた仕打ちを忘れたのか?あのひともあいつらと同じ人間なんだ、信用しちゃいけない。どんなに、優しくたって……。
苦悩する少年は、苦悩したまま、いつの間にか眠ってしまった。
気がついた時には、室内はすでに暗くなっていた。
窓の外の空を見上げるともう夜の色に塗り変わっている。
昼間は賑やかで興味深く思えた町並みは黒く重たい影に隠れ、それに何か寒気を覚えた少年は男が何時もしているのを真似て灯りに火を燈そうと試みた。しかし燐棒が湿気ているのか上手くいかない。
獣人である少年にとって何も見えないような暗さではなかったが、今日はその暗さがやけに不安に感じたのだ。
男は暗くなる前に帰ってくると言っていたが、まだその様子は無い。
いないならいない方が何にも警戒せずにいられて楽だったはずの留守番だったが、今は一人にして欲しくなかった。
少年はしばらく迷った挙句、ついに扉を開け、部屋の外に踏み出す。
心の中でそれを咎めるものも確かにあったのだが、暗闇での孤独に耐えることが出来なかった。
誰か知らない人間に見つかるかもしれない、という危険は頭から綺麗に吹き飛んでいたことが、少年にとっての不幸だった。
廊下にも灯りは無く、周囲は黒い塗料を塗りたくった様に暗い。それでも少年はぎしぎしと古い床板を軋ませながら早足で進む。
目隠ししていたので見覚えは全く無かったが勘を頼りに歩いていると、角の向こうから灯りが近付いてくるのが見えた。
咄嗟に少年は、あの背の高い黒髪の男を思い浮かべ安堵の息を漏らした。
しかし、現れたその姿を見た途端、少年の全身は金縛りに遭ったように凍りつく。
「んん?」
灯りを掲げこちらを確かめるように覗き込む人物は、少年の期待していたその人ではなかった。
さらに悪いことに、知らない人間でも無かったのだ。元奴隷である少年の知る数少ない人間、それは……。
「どうした?」
灯りを持った人物に声がかかる。二人連れ。その声にも聞き覚えがあった。
「なんかよう、餓鬼が……」
間違いない!
少年は金縛りが解けると、足を縺れさせながら全速力でその場から逃げ出す。
一拍遅れて灯りの男が叫んだ。
「ああっ! あいつ! あの糞生意気な奴隷の餓鬼だ!」
そう、男は少年を半年前まで捕らえていた奴隷商の仲間、ことあるごとに鞭を振りかざす小太りの中年男だった。
何でこんな所で!? いや、いてもおかしくない、ここは帝都だ、でも!
混乱する頭で元来た道を駆け戻り、転がるように部屋に飛び込んで扉を閉める。
鍵、鍵をかければ、その間にあのひとが来てくれれば!
わかってはいても恐怖に震える手が言うことを聞こうとしない。知らず知らずのうちに名前も知らない男に助けを求める。
「助けて、たすけて、たすけて……!」
ようやく鍵に手をかけても回らない、方向が違うのか、古びた内鍵はどちらに回しても固く動かなかった。
やっとのことでかちり、と鍵の閉まる音が響いた直後、どたばたとした足音と喚き声が部屋のすぐ前まで迫り、木の扉がぶち割れるのではないかという程乱暴に叩かれる。
「おいコラ! 開けやがれ餓鬼ィ!」
「馬鹿、その腰にぶら提げたもんを使えよ」
助かった、と思った瞬間、そんな会話が聞こえてきた。
慌てて扉から飛び退くと、何か塞げそうなものを探し部屋を見回す。
しかし少年の努力は虚しく、扉と同じく無残に打ち砕かれた。
斧でノブを吹き飛ばされた扉の向こうから覗いた顔は、残酷に光る緑の瞳と下卑た笑み。
「よーう……久しぶりじゃねえか。逃げることないだろ?」
「お前は俺たちの救世主だぜ……。しばらく遊んで暮らせるぞ」
こんな日がくることは、覚悟していた。それでもまさか、自分の手でそうなるとは思っていなかったけど。
あのひとには悪いことをしてしまったかもしれない。そういう時はどうするんだっけ。
そうだ、謝らないといけないんだ。奴隷の時はどんなに強要されても言いたくない言葉だったけど。
ごめんなさいって、謝らないと。
少年は自らを飲み込む絶望の前で、ひたすらに男のことを考えていた。
男といる間の、全てが自由で自ら不自由にしていた時間のことを。