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SEELE-久遠の約束-  作者: 綾瀬 綾
第五章
25/34


 フェレス・タペータ駅出発から六日後の昼。蒸気機関車はガラ山脈の麓、スール駅に到着した。

 機関部で故障が発生しその修理に丸一日を要し、その後もさらに不調が続いてしまったため予定よりも遅れた到着とはなったが、それでも馬を使うとこの倍はかかる。

 これが魔導機関を利用した列車であればさらに早く着くことを思うとライゼは改めて人の命を燃やして走るその発明の強大さと残酷さを感じた。

 スールはカドゥゴリ領内のガラ山脈でも鉱脈の少ない南側にあり、唯一安定した産出のあった古い銅鉱山も先日ついに廃坑となってしまったこともあって北側の駅に比べるとやや寂れた雰囲気が漂っていた。人気も疎らで建物の端に残る薄汚れた残雪がそれに拍車をかけている。

「さて、ここから険しい山登りですよ」

 貨物車から預けていた馬を引き取ってきたリーリオが億劫そうに顎をしゃくってみせた。

 街の先に見上げる最大標高二〇八〇メイルを誇るガラ山脈の東端の頂ヴラドブクリエはまだ白い冠を被っている。薄青く晴れた空が俄かに春の訪れを告げていたがそれでも気温はやはり平原のそれよりやや低く肌寒かった。

 肌寒いといえばこのくらいの気温だといつもならリュイが腰に巻きついてきそうなものだが。

 そういえば珍しいことに、今日に限ってリュイは白い息を吐きながらも一人でぼんやりと突っ立っているだけだった。

「リュイ」

「ん?」

 何となく気になって声を掛けてみたが反応は普通だった。少し離れた場所で白い頂を眺めていたリュイは出発すると思ったのか目隠しのまま器用に歩み寄ってきた。

「山道に入ったら外しましょう。さすがにそのままでは道を踏み外しかねないから」

 リーリオは言うと、ひょいと馬に跨った。どうやらすぐにホームを目指すらしい。

「この時間から山に入って大丈夫なのか」

「途中から坑道跡に入りますからね。そうなってしまえば昼も夜も関係ありません」

 さっさと案内を終えてエルピスに向かいたいらしいリーリオは早くしろというような視線で二人を促す。

 山を歩いたことの無いリュイを連れて急ぐのは心配だが六日間で休養は十分に取っていたし、本来の任務を優先したいというリーリオの気持ちも納得できる。

 ライゼは特に反論することも無く、リュイを馬に乗せようとその手を取った。

「……っ」

 しかし手と手が触れた瞬間、本当に僅かな反応だったが、リュイが体を震わせたことにライゼは気が付く。

 しかもリュイの手はこの寒さの中にありながら妙に熱を持ち、しっとりと汗ばんでいた。

「リュイ?」

 熱があるのか、とライゼがリュイの額に手を当てようとすと、リュイはそれをあからさまに拒むように手で制してから、慌ててとりなす様に言った。

「大丈夫、もうすぐなんでしょ? 早く行こうよ」

「……リーリオ」

 二人のやり取りをしっかり見ていたらしいリーリオは、ライゼが呼びかけるとすぐにやれやれという風に白い溜息を吐いた。

「……宿を取りましょうか」


 


 宿なんてものは選ばなければどこにでもあるもので、ここスールも例外ではなかった。

 通りから一本入った裏道の小さな宿。無愛想な店主と時折ギシギシと軋む床板、建て付けの悪い窓さえ我慢すれば、なんら今までの宿と変わらない。

 リュイがゆっくり休めれば、ライゼはどこでもいいというのが本音だったが。

 ライゼはリュイに薬をと街に出ようとするリーリオに頼んだが、リーリオはただ笑顔で、君が一緒に居れば治るから大丈夫、と言い残して宿を出て行った。

 全く持って無責任な言葉だとは思いつつも、微かに記憶の端にひっかかる何かが思い出せずに、ライゼはリーリオの背を見送るしかなかった。

 そして今に至る。

 リュイはライゼに背を向け、寝台で丸くなりながら時折何かに耐えるように小さく震えている。ライゼはと言えば、何をする事も出来ず、ただ向かいの寝台に腰掛けリュイを見守るのみ。様子を見ようと近寄る度に怯えたように体を震わせられては、手も足も出せない。

 まるで旅を始めた頃のようだと、ライゼは一抹の寂しさを覚えずには居られなかった。

 刻々と流れていく時間の中、ライゼは微動だにしなかった。

 先ほどひっかかった何かを、懸命に思い出そうとしていた。

 静かな室内。リュイが身じろぎする度に微かな衣擦れの音と、これまたリュイの浅く荒い呼吸の音以外の音はない。

 その音が、唐突にライゼの記憶を甦らせる。どこの下衆の言葉かなんて思い出せない。思い出したくもない。それでも自慢気に話していた話。

 獣人には春に発情期があると。その間は仕事には使えないが別の使い道で存分に楽しめるのだと。

 この話には若干の齟齬がある。確かに獣人には発情期があるが、それが強く現れるのは愛しい者が居る場合に限るという事。しかしライゼがそんな事を知るわけがない。

 ライゼは迷った。リュイを娼館に連れて行くのには色々と問題がある。そもそもこの街に娼館があるかもわからない。しかしかと言って自分が相手になるのは、リュイの生い立ちを鑑みれば有り得ない選択肢だ。例え、自分がどれだけリュイを愛していようと。いや、愛しているからこそ傷付けたくないのだから。

 思考の渦に嵌っているうちにも、リュイは苦しそうに呼吸を繰り返し、時折自らの体を抱き締めている。

 リーリオが残した言葉が木霊する。君が一緒に居れば治るから。あれはどういう意味なのか。まさか……。

 自分に都合よく考えてしまう思考を振り払うように頭を振った。

 ライゼとて男であり、まだ若い。愛しい者を抱きたいという思いがないわけではない。しかしここでライゼの強固な意志が邪魔をする。

 リュイを守る。

 それだけがこの男の意志であり願いなのだ。それを自ら崩す事など、できるわけもない。

 だが、もしも……一縷の希望に縋るように、ライゼは何時間も座り続けていた寝台から立ち上がり、リュイが眠る寝台に腰をかけた。

 リュイの肩が小さく跳ねる。

 それでもライゼはリュイを見つめ手を伸ばし、いつもそうするようにそっと手触りのいい髪を撫でた。

 今度はリュイの体が強張った。それはライゼの決意を揺るがすのに充分な反応だったが、この時のライゼは何故か引かなかった。

「リュイ……俺、好きな子が居るんだ」

 それは唐突に、何の脈絡もなく告げられた言葉。リュイは何も言わなかった。いや、言えなかった。火照る体の奥底が、氷のように冷たくなっていく感覚が、リ

ュイを支配していた。

「その子はね、いつも俺の夢に出てきて、ひとりぼっちで泣いてた。どんなに手を伸ばしても届かなくて、どんなに声を出しても聞こえてなかった。名前も顔もわからなかったけど、俺はどうしてもその子に笑って欲しくて、その子を探す旅に出たんだ」

 知らずに流れ出した涙にリュイ自身も気付いていなかった。

「そして、やっと見つけたんだ。その子を。それはリュイ……お前だよ」

 ライゼからの告白に、リュイの頭は混乱していた。ライゼには好きな人が居ると知った。直前にリュイはわけもわからぬまま失恋したはずだった。しかし今、何故か今度は告白された。混乱したリュイはその感情をそのまま爆発させた。

「なにそれ!? 意味わかんないよ。勝手に喋り出して勝手にっ勝手にっ……!?」

 跳ね起きたリュイは枕を掴んでライゼに叩きつけた。何度も何度も。

 しかしライゼは動じない。振りかざされる枕ごと、リュイを強く抱きしめた。

「ごめん。でも本気なんだ。だからって無理強いするつもりはない。これで俺を嫌いになってしまうならそれも仕方ないと思う。これは俺の我が儘だから。リュイがそれに付き合う必要なんてないんだ」

 腕の中で大人しくなったリュイをそっと解放すると、ライゼはいつもと変わらぬ笑顔でリュイを見つめ、そして頭を撫でた。そのままゆっくり立ち上がると、部屋を出て行こうとする。

 ライゼがドアノブに手をかけた瞬間だった。柔らかいが充分な衝撃を与える何かがライゼの後頭部に直撃した。

 思わず振り返ると、顔を真っ赤にして大粒の涙を零すリュイの姿と、足元には先程自分が叩かれていた枕が落ちていた。

「ライゼのばかっ! 勝手すぎるよ! 言い逃げなんて卑怯だ! 返事も聞けない意気地なし! それから、それからっ……」

 次々とまくし立てられる悪口に、ライゼはただ茫然と立ち尽くしていた。今度はライゼの理解が追い付いていなかった。

 知り尽くす限りの悪口を吐き出したのだろうか。それでもリュイは不満そうに、恨めしそうにライゼを睨んでいた。

 ようやくライゼが正気を取り戻し、足元の枕を拾ってリュイの寝台に近寄る。

 するとやはりリュイは怯えたように身を縮ませた。

「返事、聞かせてくれるの?」

 推定される答えはライゼの中では決まっていた。もちろんノーだ。だからこそ聞かずに出て行こうとした。確かに自分は卑怯な意気地なしだと、微苦笑しながら寝台に枕を戻した。

「……い…………嫌い」

 微かな蚊の鳴くような声で告げられた言葉だった。でもライゼにはしっかりと聞き取れた。それはライゼという人間の心が崩壊するほどに衝撃的な言葉だったが、ライゼはただ奥歯を噛み締めいつものように笑って見せた。そしてそれがまた、リュイを苛立たせる。

「そういうとこが嫌い。大嫌い! いつも無理して、僕に心配かけないように無理して笑ってる。確かに僕は何も出来ないよ。働けないし、一人で外を出歩く事もできないし、ライゼが居なくちゃ生きていられない。でも、でもっ、辛い時に愚痴を聞いたりくらいは僕だってできるのに、何でも一人で考えて解決しようとしてる。僕はお荷物になんてなりたくない! ライゼと一緒に歩きたいからここまで来たんだ!」

 息継ぎも忘れたように一気にまくし立てると、リュイはライゼに飛びつくように抱き付いた。その体はやけに体温が高くてかすかに震えている。そして小さな嗚咽が聞こえた。

「好きだよ……どうしようもないくらい好きなのにっ……自由をくれたくせに、好きって言葉は言わせてくれないのっ?」

 それはリュイの精一杯の告白だった。ライゼは後悔していた。自分の思考で、勝手にリュイの気持ちを決めてしまっていた事に。何よりも大事にしたかったリュイの意思を、踏みにじっていた事に。

「ごめん……リュイ」

 ライゼはリュイを抱きしめ返す。優しく、しかしどこか力強く。




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