一
「やぁ、いらっしゃい」
人々が日頃の憂さを晴らすように思い思いに一時の歓談を楽しむ場末の酒場。店主はグラスを拭きながら新たに入って来た見慣れぬ客に親しげな笑顔を向けて、カウンターへの着席を促した。
店主は目の前に座ったその客を眺めて胸中で密かに苦笑する。これまで労働者をはじめとして憲兵から詐欺師、主婦に泥棒、殺人犯なんて者まで平等に受け入れてきたこの酒場だが、成る程、子供を背負った青年というのは彼にとって初めての経験だった。しかし最近では母乳の代わりに酒を飲ませる母親なんてのもいるらしいからこんな光景も珍しいものではないのだろうが。そんな思考は職業柄億尾にも出さず店主は客に注文を取る。
「何にするんだい? 大抵の飲み物は出せるが」
「ああ……。アルゴ酒はあるか」
背中で眠っていた子供を隣の椅子に座らせて青年が答えると、店主ははいよ、と短く返事をして棚から取り出した旅人の名を冠する赤銅色のボトルを取り出した。
栓を捻り、西アルゴバラドからディエゴ経由というまさに長旅を経て運ばれてきた、熟成された濃厚な樽の香りが周囲に漂う。
未だカウンターに頭を横たえて眠たそうにしている子供に笑いかけながら、ふと青年は店主に話しかけてきた。
「この間の満月は特に美しかったな」
「そうかい? 俺は朧月の方が好きだがね」
この間の満月の姿など店主は覚えていなかったが、琥珀色の液体を酒杯に静かに注ぎながら相槌を打つ。
「月ならなんでもいいさ。月光の控えめな輝きが良いんだ」
差し出したグラスを受け取った青年はちらりと目を細めると酒精分の高い異国の火酒を一息に飲み干した。
「裏口だ」
店主はにこやかな表情を崩さぬままもののついでのように青年に小さな鍵を渡す。
青年は軽く頷くと代金を置き、子供を起こして何食わぬ顔で店を出て行った。
店の裏口の、木製の扉に据え付けられた錠を外すとその先には獣人でもなければ見通せないような暗闇が広がっていた。
しかし扉を閉めて完全に光を閉ざしてみると床の所々が薄っすらと光を放ち始める。蛍石が埋め込まれているのだ。おかげで人間の目にも、そこが階段になっていることが何とか判った。
やや急なそれを降りていくと最後の段に埋められた白く淡い光の先に再び扉らしき石の輪郭が現れる。
しかし鍵穴はそのどこにも見当たらなかった。蛍石の光が届き切らない闇色の面積が多すぎてその場所が判別できないのだ。
仕方無しに青年は燐棒を擦る。だが小さな炎は一瞬だけ手元を灯したかと思うと不思議なことに、まるで風に吹かれたように掻き消えてしまった。それ以降は何度試しても、小さな火花を散らすのみで火のつく気配さえ見えない。
青年が往生しているとその背後で待っていた少年が包帯を解いた瞳を擦りながら青年の服の裾を引き足元に注目を促す。
見ると、降りて来た時には気付かなかったが丁度少年の靴の真横あたりに、煉瓦一個分ほどの広さにびっしりと鈍く青い光を放つ文字が浮き出ていた。文字は全く見慣れないもので何と書いてあるのかは判らない。その中心には床石と同化するようにぴったりと別の種類の石が埋め込まれているようだ。
それが何なのかを知らない二人は共に首を傾げる他になかったが、兎に角、火を灯すことが出来ない。それなら、と少年は青年の手から鍵を受け取ると獣由来の闇に利く瞳で石の扉を眺め回し、程なくして闇の中から小さな鍵穴を見つけ出した。
そこに鍵を差し込むと果たして、扉は重たい音を立てて独りでに開く。
「こんばんは。ようこそウォルグァンへ」
もう来ないかと思いましたよ、扉の向こうで皮肉っぽい笑みを浮かべて二人を出迎えたのは年若い虎の青年だった。