第一章
鎖に繋がれた狼人の男。悲嘆に暮れる一角人の女。牢獄の隅に蹲る熊人の子供。
誰もかもが死んだような眼をして、絶望の生活を送っていた。
檻の前を歩いていくのは、緑色の瞳を値踏みするように向けてくる人間達。
蔑みや優越感すら感じない。当たり前か。家畜を相手にそんな感情を抱く者の方が珍しいのだから。
……やめろ。僕をそんな眼で見るな。僕をこいつらと一緒にするな。僕の居場所は、ここじゃない。
咆えついてやりたいような思いを堪え、少年は唇を噛む。
手に握っているのは錆付いた鉄格子。
夢や希望など無く、ましてや誰かの手の体温などでもない、冷たい鉄の感触。
それが彼の現実だった。
すっかりと秋風が冷たく感じられるようになった、オットブーレの月の終わり。
商業都市クヴェレでは農村時代から恒例の収穫祭も終わり、人々は年末への準備に向けて今日もあくせくと働いている。
先日のニケフォニアとの国境争いで流通が阻まれ一時は騒然としたものだが、終わってみればなんのことはない、いつものカドゥゴリ帝国の一都市としての風景に戻っていた。
街の中心部に置かれた魔導機関はこの原料不足の時勢にあってもごうごうと規則的な音を鳴らし、クヴェレの豊かな都市生活を支えている。
勿論ここでもエネルギー削減政策は実施されており、全盛期の半分ほどの供給量でしかなかったが、それでも供給が完全に停止した田舎の町などに比べれば全くましといえる状況だった。
南部最大のターミナル、クヴェレ駅では次々と貨客列車が発着し、人と物が無限に行き交う中で、もうもうと煙を吹き上げるのは蒸気機関車。
原料不足が深刻化の一途を辿る魔導機関に代わって登場したこれは、動力原料の面では魔導機関よりはるかに優れているが、性能や排出する蒸気の酷さ故にすこぶる評判が悪い。
しかしほんの十数年前まで全国で利用されていた魔導機関車は、高騰した運賃のおかげで今では専ら軍人や貴族のお歴々専用の車両として使われており、金の無い庶民はいくら揺れが酷かったり身体に有害な黒煙にまかれたりしようとも、今更これの無い生活に戻ることは出来ず、蒸気機関車に頼らざるを得ないのが現状だった。
蒸気機関車の排気を避けるように遠くに作られた魔導機関車のホームに、美しく整備された黒金の馬が停車すると、歓声を上げる子供たちに混じり昔を懐かしむ労働者達が羨望の目を向ける。
駅員はそれを少し誇らしげに眺めながら、到着した帝国貴族たちに恭しく傅いて案内をするのだった。
「今日は妙に貴族様が多いねえ」
薄汚れたつなぎを着た中年の労働者が羨望と諦念の入り混じった声で蒸気機関車の運転士に声をかける。
「ああ、今日はあれの日だからな」
運転士は肩を竦めると貴族たちが案内されてゆく要人専用通路の方に顎をしゃくった。
通路は三月に一度使用され、地下を伝いクヴェレの裏街へと続いている。
両脇をしっかりと護衛で固めた貴族が悠然と歩くその先は、商業都市として豊かに賑わうクヴェレのもうひとつの顔、盗賊街アカントゥス。
盗品を買い取る質屋や悪質な金融屋が並び、喧嘩と盛りが絶えないような酒場が点在する、中世の盗賊王の名が由来のならず者どもの街。
行き交う者全ての脛に傷があるようなこの街の存在を帝国貴族は嘆かわしげに悪罵しながらも、その表情には何故か、喜色が滲み出ていた。
道を見ると、似たような面持ちの紳士淑女がぽつぽつと見受けられる。
そう、今日は三月に一度のアカントゥスの名物市が開かれる日なのだ。
広場に並ぶ商品を夜に開催される市のために次々と下見に訪れる、盗賊街の名に似つかわしくない豪奢に着飾った人の群れ。
悪名高い盗賊たちもこの日ばかりは、貴族たちの持つ巨大な権力や屈強な護衛の前に尻込みし、なるべく騒動を起こさないというのが暗黙の了解となっている。
自らの権力を笠に着て言い知れぬ背徳に高揚しながら街を闊歩する貴族連中に反して、町の本来の住民たちは酷く冷めた目でそれを遠巻きに望んでいた。
まだ夕刻に届かない時刻から道端に酔いつぶれて横たわる怠け者を、長い足で軽く跨ぎながら道を行く青年がいた。
豊かな漆黒色の髪を風に揺らし、颯爽と歩くその姿はおよそ賊という身分に相応しくない、上品な雰囲気が漂う。
端正な面立ちも相まって身なりさえ整えれば、それこそ此度の市の客かその護衛にでも間違われることだろう。
もはや歩き慣れているはずのその道を、時折何かを探すように視線を彷徨わせる様子がそれを手伝っている。
いや、彼は実際に何か探していた。
幼い頃から胸中に渦巻いて消えることのない違和感の正体を。
俺は、探さなくてはいけない。
何を?誰を?
わからない。
手がかり以前のものすらもたないその衝動に、彼は忠実に生きていた。
家を出て十数年。カドゥゴリ中を彷徨い歩き、それでも見つからない何かを求めて。
擦り切れたブーツの爪先に何かが当たり、青年は足を止めた。
それは一枚の金貨。低く跳ねて目の前をくるくると回り石畳に転がる。
緩慢に飛んできた方向へと目を向けると、化粧の濃い女を侍らせ趣味の悪い仮面をつけた貴族の男が口元を歪ませてこちらを見ている。
しかし下賎な盗賊にすぎないはずの青年は金貨に手を伸ばさぬまま、ただ奇妙に鋭い眼光を向ける。
仮面の貴族は一瞬怯んだ様な様子をみせたが、そうしている間にたった一枚の金貨の音を聞きつけた通行人やそれまで熟睡していたはずの浮浪者達が青年の足元に殺到し、場が俄かに騒然とするのを見て満足そうな笑声をあげた。
青年は一転して哀しげに瞳を伏せると、足元の騒動を避けるようにしてその場を立ち去る。
カドゥゴリ帝国。かつて大アルゴバラドと並ぶ二大強国として名を馳せた故国。
かつて。そう、今は斜陽の国だ。魔導機関に依存し発展した文明はその衰退とともに徐々に崩れ始めている。
滅び行く栄華にしがみつく腐敗した貴族、絶対の忠誠という題目の元に自我を無たぬ軍人、暮らしに不満を持ちながら日々の生活に追われ諦めとともにそれを享受する民衆。
そして、それら全ての足元に敷かれただただ搾取され続ける存在。
縦列に繋がれた馬の群れを引き連れた男達が通りを横切る。
「貴族連中に売りつけようと思ったんだがよ、聞く耳も持っちゃくれねえ」
「この間の戦で拾ってきた傷物の駄馬ばかり。売れるはず無ぇだろ」
とくにあても無く歩いていた青年はそれが通り過ぎるのを待ちながら目を細め、正面を仰ぎ見た。
アカントゥスの広場。まるで祭りのような華美な装飾が立てられ、市の準備に紛れて旅芸人や行商人の類が露店まで広げている。
その奥に並んでいるのは鉄の檻。入れられているのは猛獣などではない、人だ。
今日の市の商品はその身体に祖先たる獣の特徴を残す異種族、獣人の奴隷達。
優れた身体能力と人間の持たざる力、魔力を持ちながら、数の力の前に敗れ去り人としての尊厳を剥奪された種族。
鎖に繋がれた狼人の男。悲嘆に暮れる一角人の女。牢獄の隅に蹲る熊人の子供。
檻に入れられた皆が皆、光の無い目をしている。
数百年も前から家畜同然の暮らしを強いられ、親から子へ伝えるものも無く、抗うという行動を選ぶことすら知らないのだ。
自分がこうして歩いている街も、着ている服も、飲んだ水も齧ったブレッドも、元を辿ると彼らの犠牲の元に出来ている。
誰もがそれを理解しながら、理解していなかった。
青年もまたその一人だったのかもしれない。
今この瞬間までは。
乾いた風が一陣、盗賊街にひゅると吹きつけ、黒曜石の耳飾りがかちりと揺れた。
砂埃が巻き上がり、咄嗟に瞳を閉じる。次に開いた瞬間、彼は見た。
暗い檻の中で、紅く揺らめく、強い意志を秘めた眼差し。
見つけた。
その感情は青年の脳に白く稲妻を打ち落とし、焦がれた想いは全身に広がる。
夜。手足の反応が鈍くなるような寒気の中、少年は痛みに目覚めた。
背中に泥臭い革の靴底を強かに打ちつけられたのだ。
少年はわざと欠伸をかみ殺すようにして感じていない風に起き上がるといきなり蹴りつけてきた小太りの中年男をちらりと睨み上げる。
「やぁっと起きやがったか。全く、ふてぶてしい餓鬼だ。顔と尻しか価値の無ぇ糞餓鬼。ようやく厄介払いが出来るってもんだぜ」
「……それでも一番高く売れるんでしょ? 大切な商品を足蹴にしたら怒られるんじゃない?」
少年は目も合わせないまま皮肉るように呟いた。
その生意気な言い様に中年男はこめかみに青筋を浮かべると、再び少年を蹴りつけ、革の鞭を振り上げる。
「ああ!? なんか言ったか下等種族!」
「おい、やめろよ。今からじゃ治してる時間ねぇんだから」
が、檻の外にいた仲間が肩を竦めてそれを止められ、男は怒りを押し殺し腹いせのように咳き込む少年に唾を吐きかけた。
「ちっ……あの餓鬼、下手に小知恵があるだけにすーぐ口答えしやがる。むかつくんだよ」
少年は無言でそれを拭うと、悔しげに唇を噛み締めながら視線を下ろす。
悔しい。何もかもが。この状況も、こんな奴らに屈するしかない自分も。
僕の居場所はこんな場所じゃないはずなのに。
「ほら、立て! 客がお待ちかねだ!」
首に付いた鎖を強引に引かれ、抵抗する間もなく檻の外に連れ出された。
爆ぜる松明の下、薄汚れた服を剥ぎ取られ、一糸纏わぬ白肌にぬるま湯浴びて乱暴にふき取られ、商品の準備は整う。
あまりの寒さに歯の根が鳴る。いや、これは怖れからくるものだろうか。
これから始まる責め苦に対する。
「皆様、お待たせしました! 本日の目玉商品の登場です!」
裸身の少年が舞台に現れた瞬間、正装の客達がざわめいた。
あれは人間ではないのか?
いや、目が赤いぞ、蛇人だろう。
少年は余りにも無遠慮に好奇の視線をぶつけてくる人の群れに血の気が引くほど怯えていたが、そんな内心は絶対に表に出さぬよう努めて背筋を伸ばし冷めた表情を作る。
もしそれを顔に出してしまおうものなら一層彼らの嗜虐心を刺激し、悦ばせてしまうことになるからだ。
「お目が高い! そう、この少年は正真正銘の獣人、めったに奴隷市に出回らぬ稀少品・蛇人にございます」
司会の男はまず少年を紹介すると、彼の首輪に繋がる鎖を受け取り、じゃらりと加虐的な音を響かせながら舞台に跪かせ、その顎をつと持ち上げる。
「ご覧ください、下等種族ながら整った聡明そうな顔立ち、この細やかな美しい肌にルビーのような瞳。蛇人は肉体労働には向きませんが……」
男の手が少年の下肢に厭らしく伸びた。
屈辱に震える少年はきつく目を閉じ、こみあげる吐き気を抑える。
少年にとってこれは初めてのことではない、しかし耐え難さは変わらなかった。
獣同然に、衣服を纏わぬ姿を観衆の前に引き出され眺め回される恥辱は、この国の獣人にあって珍しい少年の自尊心を酷く傷付ける。
しかしそんな彼の心中など顧みられることは無い。抗っても強引に舞台に腰をつかされ、両脇から太腿を持ち上げられて観衆の前に全てを暴きたてられる。
「観賞用、もしくは男娼になど、いかがでございましょう?」
司会の男のねっとりとした売り言葉が客の妖しい熱気に火を点けた。
開始値が掲げられると、あれを我が物にしたいという欲望に目の眩んだ貴族達が一斉に値段を競い始める。
自身の身体につけられる値打ちを遠くに聞きながら、少年はただただひたすらに耐えた。
こんな扱いは今に始まったことじゃない。物心ついたときからそうだったじゃないか。
いままで何人の人間に買われた?その度に逃げ出したってこうして捕まってまた売られての繰り返し。
いっそ何も考えられなければいいのに。
しかし、幾度となくそんな思いに至ろうとも、そうあろうと努力しても、拭えぬ違和感は少年の心の底にあり続けた。
僕の居場所はここじゃない。ここじゃないんだ!
その時ふと、観衆の背後、広場の先に夜目の利く茜色の瞳が何かを捉えた。
狂気じみた声を張り上げる誰もが気付いていなかった。石畳を激しく叩く、無数の馬蹄の音に。
満月の夜に高く響く馬の嘶き。
突如、広場に密集した貴族達の群れに、暴走する馬の群れが乱入する。
悲鳴と怒号を上げ逃げ惑う貴族達。
舞台上の奴隷商人達は状況を飲み込めず硬直していた。
少年もまた、その光景に目を疑う。
先程まで権力を示しあうように値を張り合っていた貴族達が地面を転げ回り、無様に駆け回っている。
「奴隷が逃げたぞ!」
舞台裏からそんな声が響いた。
と同時に、長い布を纏い顔を隠した武装の集団が広場に踊り出る。
商人達もついに逃げ出し、逃げ出した先から武装の集団に斬り殺され、その返り血を浴びた少年は独り舞台に取り残された。
広場の隅で爆炎が巻き起こった。晩秋の寒気を炎の熱気が押し出し、焦げ臭い匂いと生物の焼ける匂いが取り巻く。
逃げないと、逃げないと逃げないと!
頭では分かっているのにしかし、身体が動かなかった。
赤く染まった眼前に、黒い影が飛び出す。
舞台の向こうへはけていった馬群のそれとは違う、美しい鬣を靡かせた漆黒の馬影。
その騎上から少年に向かって腕が伸ばされた。
少年は咄嗟に、その腕に縋る。
再び爆ぜる炎の柱。轟音の中で、二人は無意識に呟いた。
見つけた。やっと、逢えた。
混乱する奴隷市場を背に、少年は意識を失い、黒馬は闇の中へと消える。
『たとえそれが、砂漠の砂の一粒を探すようなことであっても。俺はきっとお前を見つけ出して、迎えにいくよ』
青年は寝台に横たわる少年を満ち足りた表情で見下ろしていた。
アカントゥスの奴隷市に盗み出した馬の群れを放ち、大混乱の中から連れ出してきた獣人の少年。
豊かな亜麻色の髪、白い肌、伏せられた長い睫毛、無防備な寝顔。今日初めて会ったはずの少年の全てが愛おしい。彼は二十余年の生の中で感じたことの無い幸福を感じていた。
青年の名は、ライゼ。家名はとうの昔、この長い長い旅に出る時に捨てている。
ライゼは幼い頃から繰り返し、ある夢を見ていた。
暗闇の中で蹲りたった独りで泣いている少年の夢。
『きみはだれ?』『どうして泣いているの?』
問いに答えは無く、俯いたその顔が上げられることもなかった。
その答えを求めて彼は旅に出た。捨ててきた全てに一切の未練はなく、まるでそうすることが唯一の正解であると信じ切っているという程に、彼は一途に求め続けた。
しかし、ああ、俺は間違っていなかった。この少年こそが、彼なのだという確信があった。そしてこの少年を見つけることこそが、自分に課せられた使命、埋まらない違和感の正体であったのだと。
ライゼは目覚める様子の無い少年の頬を名残惜しむように優しく撫でると、ついに体の限界を感じて隣の寝台に身を沈める。
本能の赴くままに行動したせいだろうか、慣れない幸福に満たされすぎたか、酷く疲れていた。
重たい瞼を閉じ、次に聞いた音はしゅるりと剣が鞘から引き抜かれる音。
どのくらい眠っていたのだろう。いつの間にか目を覚ました少年は、二つの寝台の間に無造作に立て掛けておいた剣を手に取ったようだった。
慎重な足運びでこちらに近づく音が聞こえる。静かなその息遣いは幼い殺気が満ちていた。
予想は出来ていたことだった。
恐らく少年は憎き仇、人間である自分を殺そうとしているのだ。
そこまでわかっていながらライゼは、目を開けようともそれを制止しようともしなかった。
全く穏やかな心のまま、ただ一言ぽつりと言う。
「それでお前の気が済むのなら、そうしろ」
その言葉に、剣の柄を握り締める少年に動揺が走った。
全てわかっていながら尚、微動だにしないライゼに紅の瞳が惑う。
満月だけが照らす狭い安宿の一室で、そこだけ時が止まったような静寂という名の騒音が支配した。
「なん、で……」
やがて押し殺したようなか細い声が少年の口から零れる。
「でき、ない……嫌だ、何で……?」
自分の感情が理解できない少年は嗚咽しながら力無く剣を下ろした。
それはライゼは勿論、他の誰にもわからない。
ただ少年は、憎いはずの人間を殺すことが出来ず、泣き喚いた。
「お前なんて、人間なんて、大嫌いだ! 全部全部滅茶苦茶にした! 僕は僕のものなのに! だから、全部取り返してやりたかった、のにっ……!」
ぽろぽろと流れ落ちる涙を、ようやく起き上がったライゼが拭い、そっとその肩を抱き寄せる。
少年は一瞬怯えるように身体を震わせたが、拒むことはしなかった。
「なんで……だよっ……どうして殺しちゃ駄目、なの……?」
悲しい少年の独白。ぴたりと触れ合う体から乱れた鼓動が伝わってくる。
ライゼは宥める様に少年の髪を撫でながら、きつく眉根を寄せて呟いた。
「ごめんな」
長年捜し求めていたその面影はその小さな体では受け止めきれないほどの世の不条理を受け、悲憤の色で塗りつぶされていた。
このままではきっとこの先も、この体は不条理に蝕まれ続けるだろう。
先刻まで殺されても構わないと本気で思っていたライゼは、嗚咽する少年を抱きながら自らの間違いに気付き、その気持ちを静かに変化させていた。
この子を護ってやれるのは俺だけだ、と。