五
今宵も月が明るい。路線延長工事の労働者を現場から町まで運ぶ馬車を降りたライゼは仕事仲間の誘いを例によって丁重に断り、独り町外れを歩いていた。
昼間は行き交う労働者で賑やかなこの町も夜になると寂れた雰囲気に変わる。動力の配給が止まってから使われることのなくなった街灯が月明かりに照らされてぼんやりと立ち並ぶその道はどことなく不気味な雰囲気が漂っていた。
ふと、何かの気配を感じてライゼは立ち止まる。建物の間、暗がりの奥に人影がちらついたのだ。
反射的に腰の剣に手をかけた。誰何しかけて、通りの向こうから数人規模の軍靴の音が響き一瞬そちらに気を取られる。
直後、暗がりから伸びてきた手に強く腕を引かれライゼは建物の間に引きずりこまれた。
すぐに剣を抜こうとするがそれより早く柄を押さえ込まれてしまう。何者かはライゼの口に手を当てると、姿勢を低めるよう無言で命じた。
不意を突かれたせいもあって反発しかけたが、よくよく見れば相手に戦意は感じない。ライゼは相手の言うとおり、暗がりに身を隠すように体を屈めた。
すぐ後ろを兵装の男達が何事か騒がしく通り過ぎる。こちらには気付いていないようだった。
それらが行ってしまったのを見計らってからようやく影の者はライゼから手を放し、身を起こして口を開く。
「ご協力感謝します」
顔を上げたその人物はライゼよりも若いくらいの男だった。豊かにうねる金色の長い髪を几帳面に首筋で結んだ、一見育ちの良さそうな風貌の青年。目は緑だった。
「追われているのか?」
ライゼも立ち上がると、憲兵に追われるような質には見えないその青年に尋ねる。
「ええまあ。面倒をおかけしてすみませんね、貴方に見られていると憲兵たちにばればれでしたので」
「視線が気になってつい」
「ああ、すみません。それもこちらの過失です。今日は偶然が重なる日だなと思って」
肩を竦めながら訳の解らないことをいう青年。ライゼが眉を寄せるとくすくすと小さな笑声を上げた。
「そうだ、面倒ついでに、その長外套を貸していただけませんか? お礼はしますよ」
ますます訳がわからないライゼは訝しむような顔をして見せた。すると青年はやれやれといった風に背後に軽く手を回す。
「僕はまあ、こういう者でして」
その手に軽く握って見せられたのは、黄金と黒に染め分けられた縞模様の毛。いや、やや短いがそれは紛れもなく、虎の尾だった。
予期せぬ混血人の男との遭遇にライゼは内心驚きつつも、表情を変えずにその顔を見遣る。
「……成る程ね。しかし、何故? 俺は人間だぞ」
憲兵に追われていて、その証を隠すために長外套が欲しいのはわかる。しかしだからといって人間に正体を明かす理由にはならない。勿論ライゼの方に青年をどうこうするつもりは無かったが、彼の方はどうだかわからない。
しかし警戒するようなライゼの反応に青年はちらりと首を傾げた。
「あれ、意外と察しが悪いな。まあ、覚えていなくても無理はないか」
言いながら尾を離すと小さく呟き、改めてライゼに向き直る。
「僕は一年程前ある場所で貴方を見かけているのでね。貴方が獣人に害意を持っていないのは知っているんです」
そこまで言われて、ようやくライゼも気が付いた。確かにライゼにもこの青年に覚えがあったのだ。去年の春、スメラギへの亡命の地、エルピスの隠れ家で。
「シュウの……仲間か」
ライゼが俄かに目を丸くすると青年は満足気に頷く。
「そんなところです」
ライゼは長外套を脱ぎ青年に手渡した。一時とはいえ世話になった組織だ。協力することにやぶさかで無い。
長外套を受け取った青年は小さく頭を下げそれを羽織った。虎の尾はすっぽりと隠れ、全く人間と見分けがつかなくなる。
「助かります。本当は自分のを持っていたんですが、憲兵に取られてしまって。ああ、そうだ。お礼でしたね」
長外套の丈を確かめるようにしながら青年は言うと、周囲をざっと見渡し小声で告げた。
「貴方があの蛇の子をまだ連れているのなら、この町は早めに発ったほうが良い。これからどんどん警備がきつくなると思います。そうなっては出たくなってから出るのも困難になりますから。それに近々抜き打ちで宿への立ち入り調査があるという話です。これは恐らくしばらくの間定期的に、全国規模で、です」
青年の『お礼』。それは最下層獣人のスメラギへの亡命活動を担う組織が帝国各地から収集した極秘の情報だった。
ライゼは愕然とし、息を呑んだ。それはもうすでに一時たりともリュイを独りにしておける状況ではなくなった、ということを示していたのだ。戦争を境に彼らを取り巻く状況は目まぐるしいまでに悪化していた。
話にリュイが絡んだ途端平静な表情を崩したライゼを見て青年は少しすまなそうな顔をするも、打ち消すように冷たい瞳を向けてきた。
「……申し訳無い。こうなった主因は間違いなくアイヘルムの収容所襲撃によるものです。あれは必要と判断して行われたことですが、貴方達を巻き込むような結果になったのは組織の本意ではありません。ただ、二人だけで進むというその道が決して平坦な道ではないということは、貴方も予め理解していたとは思いますが」
「……ああ。そのつもりだ」
青年の言葉にライゼは渋面を浮かべ頷く。そう、全てはわかっていたことだ。
リュイ二人だけで、平穏に、静かに生きていくことなど、できない。それは幻想だと。いくら望んでもいくら努力しても現実はそれを容易く踏みにじる。事実、国家という大きな力の動きに対してライゼは全く無力だった。
ならどうすれば良い?どうすれば根本的な解決に繋がる?その答えは、目の前に佇んでいた。
「路銀等のことでお困りでしたらフェレスハイムという町の『朧月夜』という酒場を訪ねてみてください、お役に立てると思います。長外套もそちらでお返ししましょう。それと……」
青年は猫科の瞳を僅かに細め、付け加えた。
「もし、貴方達がまた違った道を選ぶというのでしたら、いつでも相談に乗りますよ」