二
町はずれに建てられたその木賃宿はやはり出稼ぎ労働者で一杯だったが、床面積が人で埋め尽くされるまで客を受け入れる。
遅くに入ったせいというのもあるが暖炉の近くは常連が占領しており、二人は火から遠く離れた壁際で一夜を過ごすこととなった。
正直に言うと、とても居心地が悪い。
町を歩く時は包帯に小さく隙間を作っておけば、まったく何も見えないというわけでもないのでまだ楽なのだが、こういう一息付く場所で盲目の少年、という設定の演技をするとなると話は別だ。
中途半端に見えてしまうとぼろが出かねないので、包帯はしっかりと締められている。つまり何をするにもライゼの手を借りなければままならない状態だ。
しかも疲れや寒さを忘れるためか異様に酔っ払いが多く、人だらけの一室に酒臭さが充満している上あちこちで喧しく騒がれるとなると、リュイでなくとも落ち着かないのは仕方が無いだろう。
しかし、我が儘を言っていられない状況というのはなんとなく理解しているため、不満を口に出したりはしない。
もはや定位置となりつつあるライゼの膝の間で林檎を齧っている間はたとえ本が読めなくても仕方の無いことだと思えた。
もう十分すぎるほど足手纏いだというのにこれ以上ライゼを困らせたくは無い。ライゼのことだから恐らく、それでも嫌な顔をしたりはしないとわかっていたが、ここまで来るとリュイ自身の意地というか自尊心の問題でもある。
これを食べたら今日はもう寝てしまおう。
「あんちゃんも、仕事探しかい?」
不意に、隣のほうからしゃがれた声がかかった。
リュイには見えなかったが、くたびれた風貌の初老の男がライゼに話しかけているのだ。
「いや、旅の者です」
ライゼが否定すると男はへらりと笑う。
「俺はこっから南のセーゼンって村から来たんだ。そっちの子は弟かい? 子供連れで出稼ぎたぁお前さんも大変だね」
どうやら男はすでにかなり飲んでいるらしく、ライゼの話など聞いていないようだ。勝手に納得したように頷いて酒瓶を傾け、一方的に話し始めた。
「俺は村じゃあそれなりの畑を持ってるんだけどよ、今年のあれにゃあ参ったね。いつまで待っても買い付けが来ねえと思ったら、前の年の半分以下で買い叩かれちまった。母ちゃんとガキを残してきたが、薪を買う金も無ぇし、今頃ここより寒いようなとこで寝てるんだろうなあ……」
「大変ですね」
疲れきったように溜息を吐く男。ライゼが肩を竦めて相槌を打つ。ここにいる誰もかもが似たような状況なのだろうが、酒に焼けた声でぼそぼそと話すその声は妙に想像を掻き立たせるものがあった。
人間も人間で大変らしい。ライゼと出会い、人としての自由を手に入れたリュイはちらりと考える。
もしや僕は獣人と人間を一緒にしてもなかなか高級な幸福を掴んでいるのではないか、と。
好きな人と共に居られて、好きなことをさせてもらえるというのはたとえ人間であっても皆が必ず手に入れられる幸せではない、らしい。
そもそも人が何にどのような幸せを見出すかはわからないし、比べられるものではないのだろうが、少なくともリュイは今に満足していたし、幸せではなさそうな声色で話すその男を以前の自分に比べれば贅沢な悩みだと切って捨てることも、何故か出来なかった。
何か、労わる様な言葉をかけるべきだろうか、そうまで考えたリュイだったがしかし、再び紡がれた男の言葉を聞いた瞬間、それまでの思考は全て真っ白に消え去ることとなる。
「しかも聞いたかい? アイヘルムの収容所が襲撃されたって話。獣人共がみんな逃げちまってまた動力不足が深刻化とかなんとか。昔は小せえ村にもでっけえ動力塔があって、貧乏の家だって冬でも春みてえに暖かかったもんだが。そうだ、あんちゃん獣人捕まえにいってきなよ。逃げた獣人共がそこらに潜んでるって、兵隊さんらが騒いでるじゃないか。高く売れるって賞金稼ぎや奴隷商人なんかもよく見かけるし」
兵隊やら賞金稼ぎやら奴隷商人やらが……。
急に、冷たい汗が流れてきた。粗末な板塀から吹き込んでくる風が寒いくらいだったはずなのに。
この大勢の人間がいる部屋の誰もかもから狙われている気がして心細く、汗ばんできた手でライゼの服の袖を握り締める。
「リュイ」
背中からライゼの声が聞こえてきた。酷く心配そうな、気遣うような声だ。
「……大丈夫」
ほとんど自分に言い聞かせるようにしながら答えた。すると、男もリュイの異変に気付いたらしく声をかけてくる。
「どうした、具合が悪いのか。ちょっと待ってな、良い物がある」
そう言って差し出してきたのはどうやら菓子のようだった。ライゼが受け取り、軽く会釈する。
男は欠伸をひとつして言った。
「その調子じゃ狩りは無理だな。ガンドフの方で機関車の線路工事の募集をしてるらしい。あっちの方は農村が少ないからまだ人手が薄いんじゃないかな、行ってみたらどうだい」
男から見れば二人は、病弱な弟を連れて彷徨っている兄弟といったところなのだろう。親切心から色々と教えてくれているのもわかる。
しかし、その親切心が怖かった。
自分が獣人だと知れた瞬間、その態度が豹変してしまうことも知っていたから。