一
深夜。アイヘルム地方獣人保護収容所。
何も知らされずただ、その時がくるまで。生きるでもなく死ぬでもない、人間達によって管理された緩慢な生を送る、獣人達の墓場。
そこで暮らすものの既に半数が、そこで生まれ育った子供達だった。
外の世界を知らない彼らは要らぬ知恵を付けられぬため、親や外部から捕らえられてきた者達と区別し隔離され、まさしく獣同然の生活を強いられてきた。
彼らは皆、夜と月を見たことがなかった。
日中は健康維持のため外へ出て運動することを許されていたが、月が出る前には光の差し込まない収容所の檻に閉じ込められてしまっていたから。
しかし今日初めて、濃紺色の空に映えるその黄金色の輝きを目にする。
「なんだ今のは! 地震か!?」
静かだったはずの夜に突如響き渡った轟音と石壁の箱を揺るがす大振動。職員達は慌てふためき、獣人達は恐慌した悲鳴を上げる。
「馬鹿。同胞を驚かせてどうする」
「音を立てないで壁を壊すなんて無理だっての」
「まあ、そりゃそうだが……」
そんな話し声と共に薄い明かりが石の割れ目から差し込んだ。
しかし言葉のわからない獣人の子供達は、防衛本能に従い檻の隅に固まって震えている。
やがて最年長らしい一人の少年が、この時間には無いはずの光を恐る恐る覗き込んだ。
その瞬間、再び大きな音が響き渡り、少年は泡を食って飛び退く。
光に照らされた土埃の向こうから人影が現れた。
「おっと。すまんな、驚かせてしまったか?」
大柄の人影は頭の上にある耳を掻いて苦笑気味の声を上げる。
「ここに居るのは……子供ばかりのようだな」
首を傾げるのはその隣の影。大柄の人影はうんと頷くと耳をぴくりとそば立てる。
「大いに結構、子供の救出が最優先だ……と、もう来たみたいだ」
「ちっ、早いな。俺が行ってこよう、ここは任せた」
「おう、任されましたよっ、と」
隣の影が薄闇の向こうに消えると、大柄の影は少し腰を屈めて自分たちが開けた石壁の穴を潜り、檻の中へ入ってきた。
子供たちはわけのわからないそれを怯えたように見上げる。
「おまえ、だれ!」
先ほど飛び退いた少年が自分の後ろに隠れる仲間たちを代表するように聞きかじりの人間の言葉で誰何した。
大柄の影は友好的に尾を振るとゆっくりとしゃがみ込んで、少年たちが今まで見たことの無かったとても暖かな笑みを浮かべる。
「はじめまして。月の光だよ」
言葉通り月光に青白く照らされた優しい顔。その大きな手を子供達が取るまでに、そう時間はかからなかった。
フュブルの月の野宿は厳しい。
去年は例年に比べてかなり暖かかったおかげでまだ過ごしやすかったのだが、今年はその反動のように身に染み入るような寒さが続いていた。
冷たい地面の温度が伝わらないように厚めの布を敷き、着られる服という服を着込んで毛布に包まっていてもまだ身体が震えてしまう。しかし野外ではこれ以上暖の取りようも無い。
すると、必然的にこうなる。
「リュイ、リュイ。朝だよ」
毛布の中を覗き込みながらライゼが呼びかけると、その腹の辺りでとぐろをまいていたリュイがもぞもぞと動いた。天幕の隙間から差し込んだ朝日が軽く持ち上げた毛布の中に入り、亜麻色の髪が金色に透ける。
ライゼの方は大分前から目覚めていたが日が昇り少しは気温が上がるのを待ってからでないと、蛇人の宿命か、低血圧のリュイは起き上がることができなかった。この寒さでは尚更なのだろう。
二人はこうして、夜風が冷たくなる頃から一緒に寝るようになっていた。
寒さしのぎに体を寄せ合うのは基本だが、リュイとこうするのはまた格別に暖かい。……と感じるのはライゼ特有の感覚だろうか。
しばらく呼びかけ続けてようやく、寝癖を付けたリュイの頭が上を向く。冬の薄い陽光すら眩し過ぎるのか小さく呻くと、ぼんやりとした眼つきで目を擦り、大きな欠伸を噛殺した。
「……朝?」
「そろそろ出発しないと。今日こそ宿の寝台で寝るんだろ?」
「ん……」
聞こえているような、いないような返事をしてリュイは体を伸ばす。
それを見てライゼが毛布を取り去ると短い悲鳴が上がった。
「さっむい!」
「昨日はたくさん星が出ていたから、今日は晴れてすぐに暖かくなるさ」
ライゼは苦笑して言い、さっさと起き上がって支度を始める。冬の朝のお決まりのやり取りだった。
カドゥゴリ暦五三六年フュブルの月。
先頃停戦調停を結んだニケフォニアとの戦争はなんとか敗戦だけは免れたものの、その戦費は帝国財政を限界まで圧迫し、おまけに植民地を一つ失うという大打撃を残していった。
割譲したワルリスに輸出するはずだった小麦は行き場を失い大量に売れ残りってしまったおかげで大暴落して市場に出回り、安く買い叩かれて食うに困った農民たちは仕事を求めて続々と町に集まる。
そうなると割を食うのはライゼ達のような放浪の者も同じだった。
旅の資金はどこからとも無く沸いて出ているわけではない。以前は盗賊やら詐欺まがいのことをしてそれなりに稼いでいたため一人で食う分には困らないどころかちょっとした蓄えまであったものだが、二人になってからは要らぬ恨みを買って追っ手を差し向けられるのを避けるため真っ当な稼ぎに切り替えている――たまに、ちょっと手の出ないような高価な本を失敬するくらいのことはしていたが。
しかし真っ当な商売でしかも短期となると、いくら若く健康で愛想が良かろうと、何処も人手が余っているのでろくな仕事にありつけず、路銀は減る一方。しかも目ぼしい安宿はその出稼ぎ労働者たちの一冬の仮宿と化しまったため、町に着いても三回に一回は満室で断られ、二回に一回は料金を釣り上げられる始末だ。
戦争が勃発してから今後の先行きに備えて節約していたのが功を奏し今は何とかなっているが、そろそろ本腰を入れて稼がないと不味い、というのがライゼの懐具合の実情だった。
だが、早起きの甲斐あって昼前に辿り着いたこの町も例外では無いらしい。
まずは暖かく眠れる場所を確保すべく宿という宿をあたっているが、一向に空きが見付からなかった。仕事のありそうな大きい町であることが原因だろうか、少し質の高い宿すら入り込む余地が無い。
リュイはというと、町に入ってから瞳の色がばれない様に包帯で目を隠し、ライゼに手を引かれながら延々歩き回るという慣れない行動のせいでかなりくたびれてしまった様子だ。気を遣っているのか弱音は吐かないが、疲労感は目に見えている。
もう夕暮れがせまっているが今日もまた冷え込みそうだった。すっかり冷たくなってしまったリュイの手を握り直しながら仕方無しにライゼは提案する。
「リュイ、今日は木賃宿でもいいか?」
「……って、何?」
「他人と共同で借りる大部屋形式の宿」
普段二人が使っている宿は主に個室の自炊制。こちらも確かに格安なのだが、木賃宿というのはそれよりも下級の、つまるところ壁と床板のみを提供する宿だ。
独りで旅をしていた頃はその辺りの頓着が薄かったのでよく利用していたが、リュイを連れるようになってから使うのは初めてだった。
利用者の持ち寄った燃料で火を焚いたりもしているので、この厳寒の中野宿するより暖かさは断然保障されるのだが、如何せん何もしきりが無いのが二人にとっては痛いところだ。
「他の人間もいるから目隠しは外せないんだけど……大丈夫か?」
リュイはちょっと考えるように首を傾げる。
「……ライゼは一緒にいてくれるんでしょ?」
「勿論」
「じゃ、平気だよ」
本当なら全く歓迎できないことのはずのなのに事も無さげに笑ってみせるリュイが健気に見えて、ライゼは思わずその頭を撫でた。
「ごめんな」