九
最後の温もりをかみ締めて間も無く、夜がやってきた。
思えば、出会った時も夜だった。
シュウが広間の獣人達に声をかけ、通路を通って外へと出て行く。
それに続く亡命希望者達の最後尾に二人は並んだ。
薄暗い道をライゼが導くように、少年が導かれるように、手を繋いで。
建物の外に出ると、暗い空からちらちらと白いものが舞っていた。
「今日も雪が、自由へ導いてくれよる」
入り口で二人を待っていたらしいシュウがぽつりと言った。
「悪いが見送りは禁止や。舟の前でうだうだやっとる暇は無いんでな。別れは、今ここで」
少年がライゼを見上げる。
何か言いたいが、言葉にならない。そんな感じの様子だった。
「元気でな」
ライゼはそんな少年の頭を優しく撫で、そして繋いだ手を、離した。
これで、これで終わりだ。
俺は上手く笑顔を作れているだろうか。
あの子の記憶の中に残せるような笑顔は作れているだろうか。
「この先は、俺に任せえ。絶対無事に送り届ける」
シュウは気遣うようにライゼの肩に手を置くと、力強く約束し、少年を連れ立って亡命者の集団の後を追う。
倒れそうになるのを堪えるので精一杯だった。
元々小さな少年の背中は段々に小さく、そして、火山灰の雪の向こうへ消えていった。
すっかり灰を被って葦毛のようになってしまった黒いはずの愛馬と、乗り手のいなくなった栗毛の馬を連れ、ライゼは廃墟の町を出る。
頭の中は火山灰に侵食されたように真っ白で、何も考えられなかった。
鉛と化した重たい体を引きずるように動かし、一歩でもここから遠く離れた場所へ行こうと試みた。
これ以上居たら、きっと二度とそこから動けなくなる。そんな錯覚だけがライゼを突き動かした。
アクイラ大河がそれを見守るようにどうどうと流れていた。
その流れは白い灰に阻まれて見えなかったが、今頃少年を乗せた舟はあの大河の上を進んでいるのだろう。
シュウは無事に送り届けると約束してくれた。今日初めて出会った男だが、その言葉を信じさせる何かがあった。
俺のすべきことはもう無い。
灰の雪の中で、馬が嘶いた。
ざく、ざく、と足音が何処からか響く。
自分の足音が二重に聞こえる。漠然とそう感じた。
ざく、ざく。
それともさっきの亡命者家族の父親だろうか。追ってきているようだったが、馴れ合う気にはなれなかった。
「……って! 待って!」
今度は声が聞こえた。少年の声だ。おいおい、幻聴を聞くには早すぎやしないか。ライゼは歩みを止めない。
「待ってよ! 馬鹿!」
怒鳴られた。幻聴に?ライゼはようやく、その重い歩みを止めた。
振り返り見えたのは、息を切らしながら駆けて来る亜麻色髪の少年。
もう見ることは無いと思っていた、信じきっていたその姿。
「……っ!?」
驚きのあまりライゼは引いていた手綱を取り落とし、力が抜け切ったように腕を下ろした。
その間に少年はライゼの目の前まで追いつくと弾んだ息を整えながら吸い込みすぎた火山灰に咽こむ。
間違い無く、正真正銘の、あの子だった。ライゼが十数年間探し続け、自由を見せ、たった今手放したはずの少年。
「お、前……どうして……!」
ようやくそれだけ、言葉を捻り出した。
問われると少年は困ったように眉を寄せ、視線を彷徨わせる。
「どうして……って……わかんないよ、僕だって……」
言い訳を呟くように言うと、一歩ライゼに歩み寄った。
「でも、わかんないけど……あの舟に乗ったら僕は、僕の居るべき場所から離れちゃう気が、したんだ」
また一歩、少年の顔が近付く。髪にも肩にも灰が積もって、白くなっていた。
「一緒に、いてよ……ひとりになるのは、嫌だよ。側にいさせ、て……っ」
少年の声が震える。ライゼは咄嗟に、腕を広げその小さな身体を抱き締めた。
「僕、ここに居たい、よっ……!」
とうとう少年は、ライゼの胸にしがみ付き大粒の涙をぼろぼろと零す。
ライゼは、もう離さない、というように強く強く少年を掻き抱いた。
そして搾り出したような掠れた声で呟く。
「こんな、お前に優しくないこんな国が……お前の居場所だなんて、おかしいよ」
しゃくり上げて泣き続ける少年の髪を優しく、梳いた。纏わり付いた火山灰が落ち、白い地面に吸い込まれる。
「俺が、お前の居場所になるよ。……だから、居てくれるか? 俺の側に。俺が、俺がお前を守るから、ずっと……!」
少年はライゼの胸の中で泣きながら何度も頷いた。
春の雪は暖かく、深々と廃墟の町に降り続ける。
「な、まえ……」
嗚咽しながら少年はようやく言葉を発した。
「名前、教えて」
「俺の、名前?」
その背を擦りながら聞き返すと、少年はこくんと頷き鼻をすする。
「ライゼだ」
「ライゼ……」
噛み締めるように自分の名を呟く少年。
名を呼ばれるだけで心が華やぐのは初めての経験だった。
同じようにライゼは少年に問い返す。
「お前の、名前は?」
「……僕は、無いんだ」
少年は緩く首を振った。
きっと少年は嘘を吐いていた。
これまで奴隷として生きてきて、色々な名前で呼ばれていたのだろう。
しかし少年はそれらは全て放棄したのだ。ライゼと共に、新たな生を歩むために。
「ライゼが、付けて。僕の名前」
そう言って見上げてくる少年と目が合った。
月の下、陽の光の無い場所で見る少年の瞳は美しい緑の色。覗き込むと吸い込まれてしまいそうなほど深く、それでいてとても安心する、自分を含めた全ての人間のものとは違う、愛して止まない深緑色。
「リュイ……」
「リュイ?」
ほとんど迷うことなく呟いたライゼに少年が鸚鵡返しに首を傾げる。
リュイ、何処かの国の古い言葉で、深緑色の宝石を指す言葉。
ライゼにとっての宝に等しい少年の名に相応しいように思えた。
「リュイ」
ライゼはもう一度その名を呼び、涙の滲んだその頬を拭う。
少年、リュイはくすぐったそうに、嬉しそうに微笑んだ。
「なあに、ライゼ」
繋がれた手はもう離されることは無い。
その温もりは暖かく、いつまでも、どこまでも。