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SEELE-久遠の約束-  作者: 綾瀬 綾
第二章
10/34

 



 少年は初めてそれを目にしたとき、海だ、と思った。

 あのファンドラ平原の草を全て水に置き換えたように見渡す限り流れは続いており、対岸は霞んで見えない。

 夜になると降り注ぐ火山灰のせいか多少川の色は濁っているようだったが、そんなことは関係無しに力強く、全てを押し流していく。

 海はまだ見たことが無かったが、きっとこれに水の味を塩辛くしたらそうなるのだろう、と想像を掻き立てられるほどの大きな川、アクイラ大河。

 男が言うにはこの大河の先にスメラギ大公国という、獣人だけが暮らす国があるのだという。

 俄かには信じ難い話だった。そこでは昔から獣人が自立した暮らしを営んでおり、国の指導者も勿論獣人。このカドゥゴリ帝国とも対等に政治をおこなっているらしい。

 自分達カドゥゴリの獣人とは随分な違いだった。自分達には歴史や文化などは一切無い。知識も持たず、あるとすれば言葉、人間達と同じカドゥゴリ語を話せるくらいのものだ。そして、それが普通のことだと思い込まされている。

 もし話が本当だとしたらきっと自分はそこで色々な事が出来るのだろう。一人だけで生きていく術を学ぶことができるのだろう。

 ひとりだけ。

 少年は目深に被ったフードの下から前を行く男を盗み見た。

 馬を降り廃墟となった建物の間を、少年の歩きやすいように瓦礫をどけながら進む男の後姿。

 もう今日で、この後姿を追うのも最後になるのだ。この廃墟の何処かに身を潜めている仲介人を探し出して、夜になるまで待ったらそれで終わり。

 スメラギの話は本当だろうし、この人なら自分のために本当にしてくれるだろう。

 これから先のことに、不安は何一つ無かった。

 この大河を渡ってスメラギに行き、幸せに暮らす。

 それが、自分のことをあれほどまでに想ってくれる男への、恩返しになるはずだ。

 初めて会ったあの日、そしてこの間の帝都での騒動。彼が自分の幸せを願ってくれているのはもう、疑いようが無かった。

 であるからこそ少年は亡命の話を聞かされた時から、再び心を閉ざしたのだった。

 自分の心に特上の嘘を吐いて、その願いを叶えるために。叶えたいがために。

 唯一つだけ悲しいのは、いつか本物の海を見る時、その隣にはきっと誰もいないこと。

 これまでずっとひとりだったのに、ただそんなことだけがとても、悲しかった。





 


 人の立ち入りを拒むように無残に横たえる朽ちた石柱。手入れを全く感じさせないぼろぼろの家屋の跡。

 元はそれなりに大きな街だったのだろう。アクイラ大河を利用した流通の拠点として栄えた商業都市だったのかもしれない。

 しかしそれも、戦火に巻かれてどれくらいの時が経ったのか。再建される目処は立たず、歴史書にのみ名を残し地図上からは姿を消した。

 エルピスと、言ったそうだ。希望の名を冠する町。自由を掴もうと訪れる亡命者とその仲介人が逗留するには似合いの名だろう。

 初めて亡命に関する話を耳にしたのはほんの偶然から。仕事の帰りの酒場で酔っ払いに絡まれて聞かされた愚痴からだった。

 スメラギに獣人を亡命させる組織がある。酔っ払いの身分は労働者で、そのせいで動力不足が解消されないのだと嘆いていたが、愚痴に付き合ったライゼにとっては僥倖だった。

 それを元に各地を回り情報を集めてみると、成る程、そういった話は各地で噂になっていたが、その真偽は何者かに巧妙に隠されていて雲を掴むようにはっきりとしない。

 帝都に情報を求めて赴いたのはある種、賭けだった。

 本当に亡命の組織は実在し、その意思に基づいて真偽が隠されているのだとしたら、真実の鍵を握る人物は人の最も集まる場所から意図的に情報を流しているのではないか、と。

 灯台下暗しとはよく言ったものだ。賭けに出て、ある情報屋に破格の料金を支払ったライゼの手は当りを引いた。

 情報屋に引き合わされたのは何処にでもいそうな人間の男だった。

 それなのに眼光だけが異常に鋭く、一筋縄ではいかない雰囲気を漂わせており、思ったとおり話を聞きだすのに相当の時間を要した。

 しかし、ライゼが思い切って少年の話を打ち明けると、男は話を聞き終えた後おもむろに握手を求め、言った。

『お前なら信用できる』

 そして次は自分が信用される番だと、懐からライゼが情報屋に支払ったのと同額分の金貨が詰まった袋を取り出して渡し、エルピスの場所の詳細と亡命の舟が出る日時を示した。

 自分を信じてくれるなら返したこの金でその少年を導いてやってくれ、と。

 男が嘘を吐いている可能性も無いわけではなかった。

 ライゼと少年をエルピスまで誘き出し、少年を攫って売ってしまえば情報料など問題にならないほどの金になる。

 だがこの国に何人もいるかわからない、獣人を亡命させようと考える人間を騙すためにあそこまで大掛かりな罠をはるはずがないし、何より自分を信用すると手を差し出してきたあの瞳は自分のそれと良く似ている気がしたのだ。

 かくして心を決めたライゼは男のもたらした情報を信用し、エルピスまで少年を導いた。

 あとは仲介人を探すだけだった。

 しかし、どうしたものか。降り積もった粉雪のような火山灰を踏みしめながらライゼは廃墟の町を見回す。

 エルピスに入って随分経つが、仲介人は影も形も見当たらなかった。

 もしかしてスメラギへの渡しが出される期間はもう過ぎてしまったのか?

 男は火山灰が降り落ちる期間中なら希望者のいる限り毎日でも舟を出していると言っていた。

 ライゼと少年が辿り着いたこの日は、その話でいくと微妙なところだった。例年では季節はもう過ぎている。

 今年は降り出すのが遅かったからまだ間に合うだろうとも言っていたが、少年を連れた旅路はどれだけ差し迫っていても急げるものではなかった。

 とりあえずどこかで少年を休ませてもう一度探し直してみるか、とライゼが踵を返しかけた時だった。

「動くな」

 耳元で低く囁かれた、と思うと直後、ライゼの喉元に鋭い刃が当てられる。

 少年とライゼが同時に息を呑んだ。

 ライゼの背後から腕を回し見慣れない武器を突き付けるその人物は、少年とライゼを交互に見比べると唸るように言う。

「見慣れん奴やな。ここに何の用や」

 奇妙な訛り混じりのその声は、男のものだった。ライゼは少年に近寄るな、と手で指示してからゆっくり口を開く。

「あの子を亡命させたい」

 背後の男がぴくり、と反応を見せた。その瞬間、ライゼは目の前に回されていた男の腕を引き掴んで捻り上げ、後ろ手を回してその襟元に掴みかかると渾身の力を込め、背負い投げる。

 虚を突かれたらしい男は反応する間も無く地面に叩きつけられ、もうもうと灰を散らして背中を付き、その姿を現した。

 その男はライゼと同じくらいの長身にして巨体、鳶色髪で黒い瞳の、獣人だった。

「あんたが仲介人か?」

 少年を背にして剣の柄を手に男を見下ろしながらライゼが問いかける。

 男はしばらく呆然としたように空を見上げていたが、突然むくりと起き上がると体に付いた白い灰を払いがははと豪快に笑いながら言った。

「この俺を投げ飛ばすたぁやるやんか、人間! その通り、スメラギとカドゥゴリの橋渡し、亡命の仲介人のシュウさんたぁ俺のことよ!」

 そんなことをそんな大声で名乗って大丈夫なのか、というくらいのでかい声でシュウと名乗る男は言うとライゼの肩を馴れ馴れしく叩き、改めて二人を無遠慮に眺め回す。

「ほぅ、蛇人の子か。珍しいな、この子一人かい」

「ああ、他にはいない」

 ライゼが答えるとシュウは、ふぅんと曖昧に頷き、何気ない所作でさっと周囲を確認すると踵を返して歩き出す。付いて来い、ということだろう。

 少年においで、と呼びかけてからライゼは一人ずいずいと進んでいくシュウの後を追った。

「柱が崩れてきてんから気ぃ付けてや」

 元は町の集会場か何かだったらしい大きな建物の入り口を、大きな体を屈めながらシュウが潜り抜けていく。

 玄関口を通り抜け奥の部屋に入るとシュウは二人が付いて来たのを確認してから、土ぼこりと灰を被る古びた絨毯を捲り上げた。

 絨毯の下から出てきたのは、床石を丁度一枚分外して作られたような大きさの地下通路の入り口。

「秘密の地下室や」

 シュウは楽しそうに言って二人に降りるよう促した。

 ライゼが耐久性を確かめるように慎重に降りる後ろに少年が続く。

 奥にぽつぽつと明かりが見えるだけの薄暗い道だったが、獣人である少年は危なげない様子で付いて来ていた。

 むしろそれを気遣って何度も振り返るライゼの方が足を踏み外しかねない勢いで、それが面白かったのかシュウはまた豪快に笑うとおおざっぱに入り口を閉じて二人を追った。


 


 『秘密の地下室』は狭い通路の先に大きな広間のような部屋があり、十余人の獣人とそれに紛れた数人の人間が固まるようにして床に座っていた。

「お前ら運がええな。今夜は今年最後の渡しや。まあそこら辺に座っとってや。腹が減ったら食い物の用意もあるからよ」

 シュウは言うと部屋の奥で一人だけやけに離れた場所で待機する獣人に話しかけに行ってしまった。彼も組織の関係者で、亡命希望者が増えたことを報告しているといった感じだ。

 二人は促されるままに壁際に腰を落ち着ける。

 相変わらず、両者の間に言葉は無かった。あとは別れの時を待つだけ。

 ここまま終わるのだろう、俺の旅も。これで良かった、はずだ。

 その顔を見たら心が揺らぐ気がして、ライゼは少年を見ることが出来なかった。

 諦めるような心境で片膝を抱え、他の亡命希望者の集団に目を遣る。

 狐人の子供と女、そして人間の男が親しげに会話をしていた。

 子供は無邪気に男の膝に入り、楽しそうに声を弾ませていたが、それに耳を傾ける男女の瞳は何処か物悲しげだった。

「ありゃあ、家族や」

 いつの間にか隣に来ていたシュウが声音を低めて言う。

「亡命希望者には二種類がおるんや。一つはこの国の有志と俺らスメラギのもんが協力してはぐれの獣人を探し出し、保護された奴ら。もう一つがお前らみてえに自力でここを見つけ出してきた奴ら」

 シュウは懐をごそごそと弄りながら続ける。

「あの家族もそうや。あの子の目ぇを見りゃわかるやろけど、あの子は混血。しかもあの二人の子や。まあ詳しい話なんかは聞いてへんけど、魔力が似とるからまず間違いないやろ。せやけど、あのお父ちゃんは今晩でお別れや。スメラギは獣人は同胞として受け入れとるが、人間は受け入れてへん」

 あった、とシュウが取り出したのは小さな棒の付いた飴だった。

 シュウは少年のところへ歩み寄るとその飴を差し出しながら言う。

「そうとはわかっとっても、お母ちゃんや子供に自由をやりたかったんやろな。奴はお前みてえに俺を投げ飛ばしたりはでけへんかったが、そらもう必死に二人を守ろうとしとったわ」

 シュウの鷹のように鋭い瞳が、眩しそうに細められた。

 少年はシュウを見上げるとしばらくその顔をじっと見つめていたが、やがて手を伸ばし飴を受け取った。

 シュウは満足そうに頷いて、今度はあの親子のところへ向かう。混血の子供も飴を貰ったらしく、はしゃぐように礼を言っていた。

 混血人、初めて見たが、本当にいるんだな。

 年は恐らく、少年よりももっと幼いのだろう。可愛らしい狐の耳をぱたぱたと動かし、貰った飴を舐めている。

 父親は今頃、我が子のその姿を可能な限り鮮明に目に焼き付けようとしていることだろう。よく見えるよう、涙を堪えながら。

 人間と獣人であっても、想いは通じるのだ。あの家族のように。

 自分の想いも、いつか届く。今は受け止めてもらえなくても、いつかわかってくれたらそれでいい。

 それだけで、満足だ。

 そう思った時不意に、床についていた手に何か暖かいものが触れた。

 それは小さく震える、少年の手のひらだった。

 ライゼは驚いて思わず、少年のほうを振り向く。

 少年はシュウから貰った飴を片手で握り締めながら膝に顔を埋めて震えていた。

 恐る恐る、その肩を抱き寄せる。ライゼの手はしかし、拒まれることは無く、少年はライゼの肩に身を預けた。

 久しぶりに触れた少年の体温は、少し熱いくらいだった。


 


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