序章
宵闇の中、喪服の男は墓前に跪き、そっと指を組み祈りを捧げる。
眼前の真新しい小さな墓は一晩で用意した簡素なものであったが、丁寧に整えられたそれは決して寂しい見た目には映らず、その下で眠る者の飾り気の無さを象徴しているかのようだ。
男は祈る神など持たず、むしろそういうものとの対極に君臨していたが、もう何時間も動かず、そこでそうしていた。異界の地でついに息を引き取った彼が迷わず故郷へ還れるようにと、心から。
いや、正確には少し違う。彼の魂だけはとうに故郷に還っているはずだったから、これはこれまで連れ添った彼の肉体を眠らせてやるための儀式なのだろう。男が別れを告げているのはあくまでそれだけのはずだった。
気が付くと遠くに望む稜線が白く光を帯び始めていた。紫の空から星々が薄れ消え、青の色が見えだすと、男の身体に変化が訪れる。ようやくこの時が来た。
陽光が肌を差すとたちまちそこから焼け爛れ、炭化していく。もう再生する力は残されていないから、それが徒に長引くこともない。不思議とそれほど苦痛も感じなかった。
約束の終わりの刻にまた再び交わした約束。最期に見せてくれた笑顔に報いるために、残された生を全て費やした。それでも結局何一つ手掛かりを得ることは叶わず、途方もない計画が成就する可能性は限りなく無に近いまま。しかし、男は不思議と確信していた。迷いも不安も無い。
ただ、自分の最期の瞬間がこれほどまでに心穏やかで満ち足りているなどとは、思ってもみなかった。
黄金色の朝日が男の全身を照らすと、一陣の風が吹いた。
男は最期に、やはり小さな笑みを残し、消える。