剣の理合
### 体術の参照点
格闘術の奥義を示した例として、「合気道・ロシアンシステマ・肥田式強健術」には注目できる。システマの英語版のWikipediaページは、内容が削除されているようだ。2022年からのウクライナ戦争に関連するロシアの悪魔化に付随して、システマの名声も消されたと考えることができる。ただ、ミハイル・リャブコ(Mikhail Ryabko、1961-2023)などが紹介したシステマは、1代で形骸化した面がある。合気道では、創始者である植芝盛平(うえしば もりへい、1883-1969)は、実力を伴う多くの弟子を育てた点で立派だ。ただし、時代の要請や商業的な棲み分けもあって、3代目程度から極めて形骸化したと考えられる。肥田春充(ひだ はるみち、1883-1956)の肥田式強健術については、実力は伝承できず個人的な現象として周縁化されたと言える。
合気道は、剣の理合だと言われる。理合とは、技の本質的な仕組みといったような意味である。日本刀の特徴として、両手で持つ剣であり、硬く切れ味が良いということがある。また日本では西洋のような甲冑は発達せず、安定した江戸時代(1603-1868)が続いた。そのため、力に力で応じる有効性が低く、相手の攻撃の位置と方向とタイミングを良い解像度で感じ取って、常に相手の間合いの限界を移動し、強力で有効な一撃によって勝負を決める必要性が高かった。このことは、体格にまさる相手も想定しなければならない実戦的な格闘術に通じており、システマの技巧的な発達にも相関している。
### 逆腹式呼吸法という当たり前
「合気道・ロシアンシステマ・肥田式強健術」に共通するのは、リラックスの重視だ。不合理な力みや精神的興奮は、伝統的な日本の武術でも「居着き」(いつき)と呼ばれ蔑まれてきた。また、呼吸が重視される。合気道や肥田式強健術ではまた、臍下丹田における「中心力」が重視されることがある。これは基本的には、「逆腹式呼吸法」による腹圧の形成によって、体幹の力の伝達を補強する操作だと言える。
しかし、厳密に言うなら、「逆腹式呼吸法」の原理によって腹圧を形成して運動することは、人間が何らかの重量物を操作したり、押したり引いたりする際には常に自然に行われていると言うこともできる。また、現代では正当防衛の成立要件なども限りなく厳しく、成立が現実的ではないため、「万が一の状況のための格闘術」や護身術などと言っても、かなり空想的な仮定の話となる。もしも人間に無限回の人生があり、なおかつPTSDにならない精神があったなら、仮に毎日日本刀で殺し合えば、「中心力」など、ほとんどの人が若年期に高度に習得すると考えることができる。つまり極めて自然な原則なのであり、歴史上、現代のほうが特殊な面がある。
### 現代のゆがんだ身体観
「合気道・ロシアンシステマ・肥田式強健術」が説いた「本質的に正しい身体の使い方」は、それらの歴史的な名人の域にまで達する場合でなくても、事実としてあると考えられる。しかしそれは、身体的で多くの要素からなるために、「中心力」といった意味不明の言葉で表現するか、「リラックス」といった一面的な理屈で指し示す以上には、言語化のしようがないものだ。しかしすでに空想したように、日常的な実戦によって毎日のように人を刀で殺していれば、自然と身につく面が大きい。防具を装備していない人間を日本刀で殺害することは、両手と全身を使い、体重を合理的に運用する技術の訓練としては、ほとんど理想的だと考えることもできる。
一方で、現代の格闘術は、軍隊格闘術、試合格闘技、ボディビルディングという3要素によってゆがんだと考えることができる。現代の軍隊は非常に非対称な力関係の運用を伴っているため、優れた武器を用いて先手を取って容赦なく攻撃してしまうといった、精神的な共感性の麻痺を重視する側面が強い。また、試合格闘技は、同体重なら過度な打撃力よりもスピードが大事になり、また安全な範囲で戦う場合、明示的または暗黙のルールのなかで勝ちやすい詐欺的な手法に先鋭化しやすい。ボディビルディングは、末節や表層の筋肉のカットの露出を競う面があり、体幹の操作と体幹の筋力を重視して末節の筋力や末節の力みを拒絶する伝統武術と180度矛盾しがちだ。
### ヤラセと筋肉
合気道やシステマでは、指導者が攻撃をいなす姿が例示されるが、それは理合を示したものと考えることが自然であり、現実の格闘で同様に圧倒することは現実的ではないと考えるべきだろう。例えば、大きな準備動作から直線的に攻撃するといった、「居着き」を強調し「中心力」を抜いた動作があえて行われることによって、それに対処する姿が示される。しかし、現実にはフェイントなどもあり、膠着しがちだ。しかも膠着した場合、体格が大きく若い男性がかなり有利になる。若年期から毎日のようにナイフの武装解除に励めば達人の域に達するかもしれないが、現代のほとんどの人にとっては意味がない。「中心力」といった「本質的に正しい身体の使い方」は、体格や体力を覆すような圧倒的で超越的な力ではないと考えることが安全だ。
一方、「リラックス」が重視される「中心力」の系統の技法も、実際には、体幹や重心の筋力で圧倒するものだと考えることができる。伝統的な武術には、空手の三戦立ち(さんちんだち)のように、「逆腹式呼吸法」などによって筋力を鍛錬する方法が目立つ。このような空手の性質の源流は台湾の対岸にある中国の福建省の白鶴拳だと考えることができる。中国では歴史的な武術はしばしばそれぞれの家系の秘伝だったが、套路つまり型で訓練を繰り返す習慣が見られた。また中国の南部では、日本の沖縄のように、北部で発達した武器術に対して、徒手格闘術の先鋭化が見られた。イスラム教を信仰する回族が伝承した心意六合拳にも、臍下丹田を非常に重視した体術が伝わっている。結局、日常的な鍛錬によって形成した圧倒的な筋力を用いて圧倒してしまうことが、歴史的な「中心力」の技法の一般的な姿なのだと思われる。
### 各々の目的
「いざという時のために強くありたい」という気持ちは、「いざという時」が現実的にはありそうもない現代であっても、一部の男性に存在するロマンだ。そのためには、試合格闘技を練習したり軍隊格闘術の訓練を受けて、特殊な先鋭化や残酷さを主観的な自尊心とする勘違いも大いに見られる。一方、民間警備や要人警護の場面では、手を出さずに体幹で壁を作り出すことが有効である。主観のなかでだけ強い加害的な危険人物になることは明らかに間抜けで反社会的だが、目指す「強さ」にも色々とありうる。その一つとして臍下丹田の「中心力」を重視するものがあるが、その内側にもいろいろな有用性の方向性の違いはある。
最も極端な例は「肥田式強健術」であり、「中心力」の鍛錬は免疫力といった全身の総合的な健康のために極めて有効な本質であり、なおかつそれを極めることによって自らほとんど超人的な能力や、完全に超自然的な超能力まで得たと説かれた。これは、かなり興味深い歴史でありつづけるだろう。というのも確かに、現代のジムやボディビルディングを規範とするような運動観は、経済についてマネーを価値として追求することに似て、何か表層的な誤りに傾きつづけているからである。合気道やシステマの歴史的な指導者達は、格闘術を奥義まで極めたと言えるが、肥田春充は健康法の理想を追求して、ついでに格闘術も極めてしまったようだ。本質的な正しさが、資本主義文明の発展に伴って周縁化されるという事態は、まったくありえる。
### 心身の真理の探究
ボディビルディングを趣味としている人にはメンヘラが多いと言われる。格闘術もそうかもしれないが、何らかのコンプレックスを背景にしていることが多いらしい。また、筋力トレーニングは、理不尽な人間社会とは対照的に、努力が着実に報われる面があるとされる。また実際、体力を改善し、脳内伝達物質の関係からも精神衛生に貢献するようだ。しかし、どうせ肉体の鍛錬やメンテナンスを習慣化するなら、末節や表層の筋肉の鍛錬という自己愛に傾かない方向性も考えられる。肉体なくして精神はなく、健康なくして生活は成り立たないのだから、人間にとって肉体は永遠のテーマだ。だから、「本質的に正しい身体の使い方」が格闘術の範疇以上のものであるなら、それも一つの重要な選択肢だろう。
荘子(そうし、369-286BCE)が説いた格闘術の頂点は「木鶏」(もっけい)だ。現代の要人警護の観点でも、特定の対象に精神が「居着く」ことなく全体を冷静に判断する能力は理想である。勝とうという欲に捉われたときに出し抜かれるのが人間界だ。その意味で、格闘術や健康や要人警護や人生を広く俯瞰するほど、表層的な技法ではなく、「中心力」で心身を鍛え、心身を調和させることは意義深い。例えば、資本主義社会でマネーの価値に踊らされても、富む者達がより富むための養分として家畜化されがちだ。優れた思考や優れた精神とは言っても、思考や情緒は肉体の状態の従属変数である。その意味で、「本質的に正しい身体の使い方」は探求しつづけるに値する。そしてその一つの答えは、ここまで論じたとおり、逆腹式呼吸法を中心とした筋力トレーニングだと私は考える。そして正しい身体の使い方のバランスのために、日本の剣術は最も有効なモチーフの一つだろう。




