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ウィトゲンシュタイン「哲学宗教日記」感想 ー生きる勇気についてー

掲載日:2026/04/28

 ウィトゲンシュタインといえば人気の哲学者で、神秘的な、謎めいた哲学者と思われている。

 

 一方で、ウィトゲンシュタインを好んでいる人の事を「哲学オタクだ」とからかう人もいるのを私は知っている。私は、このからかいにはそれなりの根拠があるような気がしている。

 

 実際のところ、ウィトゲンシュタインは神秘を排除しようとした哲学者だった。彼は性急すぎて、神学どころか哲学までも廃棄しようとした。初期の「論理哲学論考」はそのような性急な若い天才が生み出した産物だろう。

 

 ウィトゲンシュタインの「哲学宗教日記」は最近になって出版されたものであり、ウィトゲンシュタインがおそらく秘密にしたかった事柄も載っている。恋愛についての悩みや、宗教についての考察も載っており、彼が生きていれば間違いなく出版を差し止めただろう。

 

 「哲学宗教日記」についての文章を書く上で、ウィトゲンシュタインの哲学の全体像を読者に呈示した方がおそらくは良いのだが、それは骨折れる仕事なので、割愛させていただきたい。ただ、ウィトゲンシュタインが言語を軸にした特異な哲学者だった、という事だけは言っておく必要がある。

 

 ウィトゲンシュタインとはどういう哲学者なのか。十年近く前、色々調べた事がある。その時はよくわからなくて、「論理哲学論考の風景」という文章だけ書いて後は放棄した。お手上げだった。

 

 ただ、調べていて印象的だったエピソードがある。それはウィトゲンシュタインが芝居を観ていた際のエピソードだ。ある役者が壇上で「私は神を信じているから何も恐れない!」と叫んだのだが、ウィトゲンシュタインはその台詞に大いに感動したのだという。

 

 私はこのエピソードを知った時、ウィトゲンシュタインという人に触れたような気がした。今、思い返してもその直感は正しかったのではないかと考えている。

 

 ウィトゲンシュタインの哲学の本質は何かと言うと、「神を信じているから何も恐れない!」という台詞の、「神」の部分を白紙にして、それでも「〇〇を信じているから何も恐れない!」と言い得るかどうか、ここに彼の哲学の白熱した部分があった。私はそのように感じる。

 

 しかしこの視点から、何故、言語が問題になるのかとか、独我論はこの哲学のどこに位置するのかというと面倒で難しい話になる。また、ウィトゲンシュタインが目指していたものと、彼が実際に書き記した、彼が外側に表した哲学との差異が非常に広大な為に、ウィトゲンシュタインという人は謎めいた神秘的な哲学者という事になっているのだろう。だが、この差異は本来埋める事が可能なはずだ。

 

 ※

 「哲学宗教日記」はその名の通り、哲学や宗教についての言説が載っている。恋愛の悩みも書いているが、この部分にはそれほど興味はない。

 

 「哲学宗教日記」を読むと(やはりそうか)という気持ちもある。難解に見える哲学の楽屋裏を覗いたような気分になる。また、その楽屋裏は想像以上に想像通りだった、というか、やはり、ああした系列の哲学者だったのだな、というのが正直な感想だ。

 

 「ああした系列」とは大雑把に書くと

 

 キリスト   ーーパスカル 


        ーーキルケゴール  ーーウィトゲンシュタイン

        ーードストエフスキー

        ーーシモーヌ・ヴェイユ

        ーーニーチェ(アンチ・キリストだが本質は近い)

             

 のような感じとなる。上の図は適当に書いたが、「哲学宗教日記」にはキルケゴールについての言及が多いので、キルケゴールの後にウィトゲンシュタインと書いている。

 

 この系列というのは要するに、キリスト、それもキリスト教という集団的な教義や習慣ではなく、キリストという一人の実存者を起点とする思想の系列という事である。時代的に言うと「神の死んだ後」に、神抜きで、どうして神に宿っていた神性を取り戻すのかが問題になっている。

 

 ウィトゲンシュタインは次のように書いている。

 

 【「お前は何にもまして完全な者を愛さねばならない。そうすればお前は幸福である」。私にはこれがキリスト教の教えの総まとめであるように思われる。】

 (p179 文庫「宗教哲学日記」)

 

 この一文はほとんど決定的なものに思われる。ウィトゲンシュタインは詳細を書いていないが、これについての私の解釈を以下に書いておく。

 

 「完全な者」とは当然、キリストの事だろう。それではキリストは何故、完全なのか。これも難しくはない。キリストは罪がないのに、罪を背負って死んだ、それも最大の苦痛を受けて。ここに「完全」がある。

 

 この受苦の姿を理想とする、というのは、キリスト教思想の系列として考えるならわかりやすい。例えば、シモーヌ・ヴェイユのような人が自ら工場労働に入り、体を悪くしてその後亡くなったが、こうした生き方は明らかにキリストを模倣した生き方、あるいは死に方だった。

 

 キリストが完全な姿として現れるのは、キリストが最大の罪人であり、最大の苦痛を受けた存在であり、しかも彼には罪がないからである。この苦しみを積極的に受けようとする様が、ウィトゲンシュタインにとって「完全」だったのは間違いないだろう。

 

 ウィトゲンシュタイン自身の人生を考えると、彼の人生は希死念慮との闘いだった。彼は戦争に参加した時、積極的に危険な地帯での仕事を請け負っている。これは彼の死への願望がそうさせたとも言えるし、彼が積極的に苦難を引き受けようとする、そうした性質の持ち主だった事も意味する。


 ウィトゲンシュタインはキリストを「完全な者」として畏敬していた。彼にとってキリストは生のイメージの模範として機能しただろうが、彼はそれを彼の哲学の中では語っていない。


 おそらく、彼にとって苦しみである生を「幸福」と呼ばなければならなかった事は、彼がキリストを心に抱いていた事と関連する。というのはキリストこそが、もっとも巨大な苦痛を背負った存在だったからだ。


 ウィトゲンシュタインにとっては、苦痛や苦悩の集積としての人生を幸福に転換する魔法の公式が必要だった。これはソクラテスの時点から問題になっているが、彼はそれに独特の解法を与えた。しかしその解法にキリストの名前は載っていなかった。だが、楽屋裏を見るとそれは見えない文字で紙の裏に書いてあった、とでも言う他ないだろうか。

 

 だが何よりも「宗教哲学日記」を読んで得られる最大のものは「生きる勇気」だろう、と私は思う。と言っても、それは現代的な意味での「生きる勇気」とは違う。

 

 現代の人間が生きる事を称揚するのは、生から得られる快楽を高く評価しているからだ。仮に、こうした人々が生の苦痛から逃れられない状況になったら、彼らは「コスパ」を取って死ぬだろう。生きている状態が苦痛そのものなら、死んでそれから解放された方が「コスパ」は良いに違いない。

 

 ウィトゲンシュタインの「宗教哲学日記」を貫いているのは、彼が自分自身を生かす為、生きる為に綴られている自問自答だ。私はこのやり取りは彼の生の根幹そのものであると感じる。だが、それは彼の哲学ではない。

 

 「宗教哲学日記」では、宗教の話が頻繁に出てくるが、これは彼の哲学の裏面と考えるのが普通だろう。彼の哲学においては、初期の「論理哲学論考」を除けば、宗教的な話、倫理的な話は意図的に排除されていた。何故そうだったかと言うと、それ自体が彼の信仰だったから、という事になる。

 

 ウィトゲンシュタインは一貫して、生きる事そのものに価値を見出そうとした。その為に哲学を否定する哲学を案出した。これは神なき世界においていかに生きるか、という問いに対するウィトゲンシュタインなりの解答だったろう。

 

 この解答は現代の人間にも受け入れられやすいものである為、ウィトゲンシュタインが人気となる遠因となっていると思われる。というのは、生きる事がまるごと肯定され、その上位に面倒な価値観は置かれていないからだ。

 

 しかし実際は「宗教哲学日記」にはキルケゴールの名前が何度も出てくるし、「宗教哲学日記」の叙述はキルケゴール的な思考の延長であるのがはっきりとわかる。これは彼の哲学の語られなかった裏面と言って良いのではないか。

 

 だとすると、ウィトゲンシュタインは本当に信仰を持っていたのか。彼はやはりドストエフスキーやキルケゴールと同じような思想の持ち主だったのか。それ自体は確かであると思われるが、私のような人間にとって感慨深いのは次のような一節だ。

 

 【絶望に終わりはない。自殺もそれを終わらせることはできない。人が奮起して絶望を終わらせない限りは。】

 (p99 同)

 

 こうした事をウィトゲンシュタインが言うのは、彼が誰よりも「絶望の人」だったからだ。人は他人と闘う時に大きな力を発揮するのではなく、自分自身と闘う時に最も巨大な力を発揮する。

 

 こうした言葉はウィトゲンシュタインが自らの生を繋いでいく為のものであったろう。しかし、今から振り返るとウィトゲンシュタインがやろうとした、生きる事そのものに一つの価値があると信じようとした事ーーこれはそれ自体では脆弱なものだったように私には思われる。

 

 「生きる事は素晴らしい!」という現代的な倫理にしがみついている人は、そこまで深く考えないのでその思考は宗教にも哲学にも達する事はない。村上春樹の思考が宗教や哲学に達する事がないのにそれはやや似ている。

 

 しかしウィトゲンシュタインは自身の生を繋ぐ為に、自身の論理を紡ぎ出したが、今から振り返るとそこには見えないパーツが埋め込まれていたのかもしれない。それはキリストを完全な人だと畏敬する、そのような感性だ。


 この思想がウィトゲンシュタインの言説の深い部分で「語り得ないもの」として機能していたなら、ウィトゲンシュタイン哲学の全体も見直す必要があるのかもしれない。…もっとも、私自身はそんな力は全くないので、「宗教哲学日記」からは私が受け取れるものだけを受け取るだけにとどめておきたい。


 私がこの本から受け取れるのは死への願望と闘いながら生きようとする一個の人間のイメージだ。だが、この生の価値の称揚は、その生が困難なものである為にかえってポジティブなものとなるという逆説を孕んでいる。


 ウィトゲンシュタインの論理だけが平易に解説され、彼の哲学が人口に膾炙するとしても、この逆説が人々に浸透する事はなかなか難しいのではないかと思われる。というのはそのような困難な生に耐えようとするには、超人的な精神の耐久が必要になるから。

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