第1章 初めてのパパ活 ― 期待と不安
私はユリエ。看護大学に通っている。
朝は病棟実習、昼は授業、夕方からはカフェでバイト。
週末もほとんどシフトで埋まっている。
奨学金は借りない――借金はしない。
誰にも頼らず、自分ひとりで生きている。そう信じていた。
実家は、地方の小さな町。
あの家から逃げるように、関東地方の看護大学へ進学した。
ほんとは東京じゃないけれど、地元の友達には「東京の大学」と言っている。
そのほうが、余計な詮索もされないし、少しだけ見栄も張れる。
母からの仕送りは、おんぼろアパートの家賃でほとんど消える。
もらっているなんて、思いたくなかった。
母とは最低限しか連絡を取らない。
過去の“あのこと”――家族を壊しかけた借金の記憶を、蒸し返したくなかった。
でも、現実は容赦ない。
家賃、光熱費、通学定期、参考書、実習用ナースシューズ。
そして、日々蓄積していく疲労と、誰にも言えない孤独。
足りないのは、お金だけじゃなかった。
いつの間にか、心の奥にぽっかり穴があいていた。
ある夜。
バイトから帰って、スマホで副業情報を探していたとき、画面に広告が現れた。
【パパ活アプリ 安全・匿名・自由】
――パパ活。ネットの記事で読んだことはある。
年上の男性とお茶や食事をするだけで、カフェの時給とは比べものにならないお手当がもらえるらしい。
キャンパスでも、「妙に羽振りがいい子」はパパ活じゃないかと噂になる。
お金の苦労は、よくハルカちゃんと話していた。
家賃の支払いがきついとか、バイト代が少ないとか、安いスーパーの情報とか――そんな話ばかり。
同じ看護大の友達で、バイト先も近く、つい愚痴をこぼし合ってしまう相手だった。
ある日、講義帰りに二人で駅まで歩いていたとき、ハルカちゃんがふいに足を緩めた。
「ねぇ、ユリエ……」
声がいつもより小さい。人通りの少ない路地に差しかかったところで、彼女は私の耳元に近づいた。
「パパ活すれば、お金のことは楽になるよ」
その言葉に、一瞬だけ足が止まった。
「……私、健全しかしてないけどね」
そう笑ってみせた彼女の笑顔は、どこか作り物めいていた。
本当に健全だけなのか――心のどこかで疑っていた。
あの言い方は、自分に言い聞かせているみたいだった。
健全というのは、お茶や食事だけ。身体の関係がないこと。
身体の関係があるのは“大人”と呼ばれるらしい。
要は、お金をもらってエッチする――それを言い換えているだけだ。
私は、エッチが嫌いじゃない。
初めては、高校生の時。部活の先輩で、その時の彼氏。
放課後、親の目を盗んで、お互いの家でよくした。
彼も喜んでくれるし、私も気持ちよかったし、「愛されてる」って感じがした。
その後、クラスの男子とも。
違う人とのエッチは新鮮で、悪くなかった。
ただ、それが浮気だとバレて修羅場になり、彼氏とは別れた。
それからも、何人かと付き合い、別れて……経験は人より多い方だと思う。
年上のおじさんとは、まだない。
正直、抵抗はある。
でも――お金をもらえるなら、悪くないかもしれない。
バイトの帰り道、電車の中で「パパ活アプリ」の広告を見つけた。
気になってインストールしてみたけれど――
最初の登録画面に「身分証明書の写真をアップロードしてください」と表示されて、指が止まった。
運転免許証も学生証も、住所や名前がはっきり載っている。
顔写真まで渡すなんて、怖すぎる。
相手が本当に安全な人かもわからないのに、自分だけ丸裸になるような気がした。
アプリを閉じて、スマホのホーム画面に戻る。
…やっぱり、やめよう。
そのとき、ふとハルカちゃんの言葉を思い出した。
「Xなら、匿名でできるよ」
普段から使っているSNS。新しいアカウントを作れば、誰にもバレないはずだ。
夜、布団の中でスマホを開き、「#パパ活」「#P活」と検索する。
画面いっぱいに並ぶ、見知らぬ女の子たちのプロフィール。
「週1ごはん」「健全のみ」「ホ別大人3」――暗号みたいな言葉が並んでいる。
怖さと、わけのわからない高揚感が同時に胸に広がった。
試しに新しいアカウントを作って、数人をフォローしてみる。
プロフィールには「学生/お話できる方」とだけ書いた。
数時間後、通知が鳴った。
見知らぬ誰かからの、初めてのDMだった。
「はじめまして。プロフィール拝見しました」
「今週お時間ありますか?」
短くて礼儀正しい文章。アイコンはスーツ姿の横顔。
年齢は43歳、会社員。名前は“ミナミ”。
他にも何人かから連絡は来ていたけど、やたら馴れ馴れしい人や、最初からホテルを指定してくる人ばかりで、正直怖かった。
その中でミナミさんは、一番まともそうに見えた。
待ち合わせは土曜の午後、駅ビルのカフェ。
実際に会ったミナミさんは、柔らかい雰囲気で、ネイビーのジャケットがよく似合っていた。
「初めまして。寒くなってきたね」
そう言って微笑む声は、少し低くて落ち着いている。
紅茶とケーキのセットをご馳走になった。
「ここのケーキ、美味しいんだよ」
「おいしいです。見た目もかわいくて」
笑いながら答えたけど、内心では“やっぱり余裕がある人は違うな”と思っていた。
ケーキセットの代金は、近所の定食屋でたまに奮発して食べる唐揚げ定食の倍以上。
会話は仕事の話や旅行の思い出が中心で、年齢差をあまり感じなかった。
けれど、心臓の鼓動はずっと速いままだった。
ケーキを食べ終わったころ、ふいにミナミさんが言った。
「今日はありがとう。次は“大人”ありで…どう?」
一瞬、呼吸が止まった。
提示された金額は、家賃一か月分に近い。
正直、怖さはある。でも、嫌悪感は不思議と強くなかった。
それよりも、冷蔵庫の中の残り少ない食材や、来月の家賃が先に浮かぶ。
「……わかりました。次はそうします」
そう答えると、ミナミさんは穏やかに頷いた。
「じゃあ、また連絡するね」
帰りの電車の中、膝の上に置いた封筒の中身が気になって、何度も確認してしまった。
これだけあれば、今月は少し楽になる。
でも、胸の奥のどこかで、小さなざわめきが消えなかった。
次に会ったのは、一週間後の金曜の夜だった。
待ち合わせのカフェには寄らず、ミナミさんの提案で駅近くのホテルへ向かった。
エレベーターの小さな鏡に映る自分の顔は、少し強ばって見えた。
部屋に入ると、淡いオレンジ色の照明と、窓の外の街の灯り。
コートを脱ぐとき、心臓が少し早く打っているのがわかった。
――これで、家賃は払える。
そう自分に言い聞かせながら、差し出された封筒をバッグにしまう。
思っていたより、すぐに終わった。
痛みも怖さもほとんどなかったけれど、胸の奥にひやりとした空気が流れ込んでくる。
「ありがとう。大丈夫だった?」
そう訊かれて、小さくうなずく。
彼は穏やかに笑い、支払いを済ませてくれた。
駅までの帰り道、バッグの中の封筒がやけに重く感じた。
「これでいいんだ」と安堵する気持ちと、言葉にならないモヤモヤが、心の中で静かに混ざり合ってた。
この作品は 名前のない関係ー50代サラリーマンの静かなパパ活日記 に登場するユリエが主人公の作品です。
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